どうでもいいわ映画『ワザリング・ハイツ 嵐が丘』 感想文(理不尽な悪口注意)

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《推定ながら見時間:110分》

いいよ別にお前が悪いとか言われてもそりゃ俺が悪いですよだって観てないもん全然、開始10分ぐらいでもういいやと思ってよほど配信画面のタブを閉じようかと思ったが1800円も払って配信レンタルしちゃったし映画の中座は俺の流儀ではないので別モニターで確定申告でもしながら一応最後まで観ようってことで流し続けたわけですけれどもはい頭に入るわけないねそんな見方しても! はいごめんなさいね俺が悪かったですから全部俺が悪いですからからからからからこれからすっげぇ悪口言うけどそれぐらい許してよ、しょせん無学な狂人の戯言だと思ってさ。

いや~、クッソしょうもねぇ映画だと思いましたしシネフィルってなんてチョロい人種なんだろうって思いましたよ。俺も映画を観てないがシネフィルも大概だよな。あいつら映画なんてロクに観てねぇんだよ。週5ペースで映画の感想をこのブログにひり出してる俺が言ってもおまいう以外の何物でもないですけど、なんかあれじゃないの、こういう映画を観てnoteとかに感想したためてみんなの知らない傑作を知ってる俺を演出しつつ俺のハイセンスな批評っていうのを展開したいだけなんじゃないの、ネットのシネフィル。でみんなの人気者になりたいんですよ。これも俺は人のことを言えないけど!

だからシネフィルほどむしろ映画なんてどうだっていいんだよ。何観たってしょせん自分を飾るための小道具でしかないわけですから。そう思ってるから無責任に褒められるんです。本当に映画に期待してたら普通どんな映画を観ても文句の一つや二つ出る。そんなの無い方が不自然だし不誠実じゃないですか。映画と正面から向き合っていない。批評対象として自分を映画の外に置いている。しかし実際の映画体験は明らかにそうではない。自己と映画の切っても切れない関係性の中に映画体験なるものはあるのではないですか。その点では映画を真面目に観てない俺の方が本気で大人げない文句を言える分だけちゃ~んと「映画」を観ていると言えるな、はっはっは。

いや別にさ、これが心から面白いって人もいるとは思いますよそれは。それはもうセンスの問題だから俺は立ち入れないし立ち入る気もない(既に立ち入ってるだろ! ってブチ切れる人もいるかもしれませんが)。しかしだ、しかしですよ、うーん、つまんねぇんだよこの映画…少なくとも俺はめちゃくちゃつまんなかった、し! それからこれが重要なのですがなんか最近こういうの多くない? 古典の現代アレンジですけどそのアレンジの仕方というのがさ…まぁ2011年の映画だというからこれが現今の「そういう映画」の流れを作ったとかそういう面もあるのかもしれないけど!

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その現代風アレンジの手法。これは前に観たな、アルベール・セラっていう鬼才枠の監督が『ドン・キホーテ』の一場面をオール野山ロケで撮った短編があって、手法の面では『ワザリング・ハイツ』とほぼほぼ同じといっていい。手持ちカメラ、劇伴なし、自然音を強調、照明は基本的に自然光、史劇だがロケーション主体、まつまりドキュメンタリー的に古典を撮る。

俺はこのセラ版『ドン・キホーテ』はそこそこ面白く観たんですよ。まず短編だから飽きても飽きがムカつきに変わる前に映画が終わる。それから野山で甲冑着たドン・キホーテ役のオッサンとサンチョ役の役者がなんか話したり寝っ転がったりするだけの内容がモンティ・パイソンのコントみたいでちょっと笑えた。この二点で俺にとってセラ版『ドン・キホーテ』は面白い映画になった。『ワザリング・ハイツ』はその二点がないので単につまらないだけでなく苦痛でさえあった。理屈は単純ですね。

で、そこにまた別のムカつきが載る。古典の、もしくは史劇のマイノリティ目線での語り直しというのが最近の欧米若手アート系監督のトレンドになっているようで、知名度の高い作品でいえばやはり『燃える女の肖像』が挙げられるのではないかと思うのですが、こういう映画はあくまで「語り直し」が目的であるから今まで語られてきた同じ物語の快楽を意識的に退ける傾向がある。そこに批評性があるわけですが、うーん、どうでもよくないですか。なんかそういうの言いたかったら論文とか書けばいいんじゃないの知らんけど。単純に考えてもらいたい。面白かった物語の面白いところを捨てたら、ふつう映画はつまんなくなる。圧倒的に真理な命題ではないかなこれは。

もちろん『嵐が丘』の何をオモシロポイントと感じるかは人によって違うわけで、観る人によっては「これぞ『嵐が丘』!」と思ってもまったくおかしくはない。俺は『嵐が丘』の原作は読んだことないし映画も観たことがないのでそこらへんはまったくわからん。今までの人生で唯一観た『嵐が丘』はモンティ・パイソンの(またか)スケッチにある「手旗信号版・嵐が丘」というぐらいだから察してほしい。察して欲しいがこっちも一応どのボタンを押したらご褒美のバナナが出てくるかぐらいは研究員たちの忍耐強い訓練によって学習している高等霊長類であるから映画を観て面白いか面白くないかぐらいは判断できるんですあくまで個人の主観によって。

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その主観によればこれはまったく面白くない。なぜならドキュメンタリー調の撮影も黒人のヒース・クリフも先行する『嵐が丘』に対する批評、あるいはそれを通した社会風刺でしかないからで、それ以外の見所は俺には見出せない。別にハイコンテクストな映画だから文句を言いたいのではなく映画としての見せ場を作る気がないところに文句を言いたい。貪るようなラブシーンはもしかしたら見所のつもりなのかもしれないが、俺にとってはそこも馬鹿じゃねぇのポイントになる。

多過ぎません? それこそ『燃える女~』もそうでしたけど設定上マイノリティに属する俳優がやたら生々しいセックス(含ペッティング)を披露する若手アート系監督の映画、最近マジで多すぎません!? もう安易なんだよ発想が。頭が悪いんじゃないかと僭越ながら思ってしまいます。そういうの入れれば刺激的でしょ。そういうの入れれば批評的でしょ。そういうの入れれば挑戦的でしょ。…とわかりやすく考えていればまだ良い方で、これを本当に「斬新な表現」と考えているフシがあるので『ワザリング・ハイツ』のような映画には呆れるほかない。

何が問題かといえばその形式主義なわけです。わかるかなぁ、馬鹿なシネフィルにはわかんねぇでしょうな。つまり、ここではセックスというきわめて詩的な営為さえも先行作品を前提とした批評としての機能しか持たない。性の本源的な力はむしろあけすけな性を批評の「道具」として用いることで徹底的に無力化されるのです。それはヒース・クリフの人種についてもそうで、ここで展開される黒人ヒース・クリフの受難は人種の置換によってむしろ白人俳優よりもピッタリだと観客に感じさせることで、反人種差別的立場から逆説的に人種差別を裏付け、哀れな黒人のイメージを再生産するのです。その後に製作された反人種差別的黒人映画の話題作『ビール・ストリートの恋人たち』の黒人カップルと『ワザリング・ハイツ』の黒人ヒース・クリフはキャラクター造形においてさして変わるところがない。あるいは恋愛イメージについてもそうなのです。

結局は先行イメージに依存することでそのオルタナティブを提示しつつも同時に(場合によっては忘却されようとしていた)批評対象になるイメージに確固たる存立基盤を与えるのは批評が避けられないジレンマである。こうした批評の功罪というものをこの手の映画の作り手はいったいどれほど考えているかといえば俺には大いに怪しいように思える。その浅はかさ。しかし浅はかなぐらいがちょうどいいのでしょう。今やヒューマニズムもファッションですから浅はかじゃないと着こなせません。それで作った奴も観てる奴も双方幸せなら俺が文句を言える隙間はどこにもない。いーんじゃないですか。いい映画だったとおもいまーす。

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古典の現代風アレンジはどのようにして可能かという点ではギリアムの『ドン・キホーテ』はたいへん見所のある映画だったが、それはアンチこそがアンチの対象を生産する逆説をギリアムが理解しているからで、アンチ対象を自らが生産しつつアンチを演じる道化の【ギリアム自身の人生と重なる)葛藤が『ドン・キホーテ』を大して面白くはなくても忘れがたい映画にしている。『ワザリング・ハイツ』のような映画の作り手にはこういう良い意味での迷いとか暗さがまったく感じられないので俺には面白くないのだ。

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