鬱ブラックホール映画『草の響き』感想文

《推定睡眠時間:0分》

東出昌大が走りまくる映画というざっくりの領域にも達していない極小前情報を頼りに(人間が走りまくる映画は全部良い映画だ)観に行っているのでタイトルも「草の輝き」だと思っていたぐらいだがその間違いタイトルから導出されたナウシカのランランララランランラン的な感じのキラキラ脳内イメージ図を粉々にする死の影に覆われた映画でご飯を食べておしっこをして服を着替えて会社行くのかなと思ったらネクタイをドアノブに巻き付けて死んでたみたいな、これはあくまでも喩えなのでそんなシーンは出てこないがそれぐらい当たり前のようにとつぜん人が死んでしまう黒沢清映画のような得も言われぬ怖さに満ち満ちているのであった。

それはなぜかと言えば東出昌大が重めの鬱になってしまった人の役だからなのだが、この鬱描写がめちゃくちゃあるわーっていうか、こういうタイプの人が鬱になるとどんどんこじらせてくよなーっていうリアリティがすごい。この人ほんと何も言わんのだよな。言うと人に迷惑かけるんじゃないかみたいな恐れがいつもあっていや言わない方が結果的に迷惑だからみたいにこっちから言っても「ごめんなさい…僕が悪いんだ…」みたいに余計引きこもっちゃう。その言わなさはハンパではなくどう見てもそんな症状じゃねぇだろという外出時の精神破綻っぷりにも関わらず病院に連れてってくれた親友に病名を自律神経失調症と偽るほどだ(それも併発してたのかもしれないが)

とにかくそういう人だからどんどん鬱の深みにハマっていく。その深みの重力で周囲の空間も歪んで妻の奈緒とか親友の大東駿介の日常も軋みをあげて、あたかも鬱ブラックホールが引き寄せるかのように鬱屈した地元の人々もゆる~く巻き込んでいくが、東出昌大自身はなんとか鬱ブラックホールから遠ざかろうと毎日毎日走りまくるのであった。今日は5キロ、次は6キロ、次の次は10キロで…とその距離は次第に伸びてはいくのだがジョギングだから必ず折り返し地点はあって、そこに到達すると家に戻るほかない。

あまりにも何気なくありふれた、しかし切実な鬱闘病の暗喩である。手を動かしたり足を動かしたりしている間は案外めっちゃ普通の精神状態だったりするのでなんだ大丈夫じゃんと思いきや動きを止めるとまた元に戻ってしまう。じゃあ静養してるかといって家でゴロゴロとなどしているとやらなければいけないのにできていないこと等々が脳に山積し休むどころがむしろどんどん生きるのが嫌になってきてしまう。家にいるぐらいなら外で身体を動かしていた方がいいけれど、でも外にいるとそれはそれで心労が溜まって家に帰りたくなるし、それで家に帰ったとしても…という精神の置き場所のなさ。

「やらなくていいよ」とか「休んでいていいよ」とか、そういう周囲の配慮が効く患者もいないことはないだろうが、往々にして鬱を悪化させるタイプの人間にはそれが逆にプレッシャーになってしまうし、さりとてあえて何も言わないでいても「あぁ、俺なんかいない方がいいか」とか超マイナス解釈されて静かに病状が悪化していくだけなので、鬱とは本人にとっても周囲の人間にとってもまったく面倒な病気である。その面倒さをストレートに表現した結果が黒沢映画的であったり北野映画的であったりするこのフラットに不穏なムードなんだろう。そんな中にちょっとした叙述トリックが仕込まれていたりもするので基本的には東出昌大がジョギングしているだけなのに油断も隙もない映画である。

なかなか苦い展開を辿る物語ではあったが読後感は悪くない。毎日毎日走り続けて少しずつ距離を伸ばしていけばいつか鬱の圏域を抜け出して元の場所に戻ることなくどこか本当の帰るべき場所にたどり着けるかもしれないというようなマイナスにマイナスを掛けたほのかなポジティブさがある。この映画ではそれをひとまず函館と東京に設定して、かつての居住地で病気以前はそこで夢を叶えようとしていた、見えない東京を空想の彼方に見ながら函館をぐるぐる走り続ける東出昌大の姿を通して、そりゃ病気なんか罹らないに越したことはないが結果的にはそれも人生の小休止として必要だったんじゃないか、と前向きに捉えるのである。

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北野映画でいちばん好きなやつ。『草の響き』とは空気感がよく似てる。

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