マーベリズムVSバーバリズム(『エターナルズ』論争?について)

さぁて今日も悪口書くかぁ~と思ってブログのエディタを立ち上げようとしたら衝撃的なニュースが飛び込んできてしまってそのせいで予定より約2時間遅れてこれを書き始めているのだが、その衝撃ニュースというのがさ、SFマガジンの次号に載る予定だったらしい『読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集』っていうのが、そうなった詳細な経緯はわからないけれども担当編集者の言葉を借りれば「絶版の書籍が生まれている状況に対して、あまりにも無自覚で、配慮が足りません」から企画中止になったっていう…あの一応これ書いときますけど俺SF小説はメインで読むのがフィリップ・K・ディックと星新一と安部公房とそれから漫画だと藤子・F・不二雄と少しだけ諸星大二郎、小学生ぐらいの頃は藤崎竜とかは好きでしたけど今はとくに読まず…というか漫画自体あまり読まず…で後は有名作家の代表作とか海外SFのアンソロジーをちょいちょい読むぐらいでSF小説ファンって感じじゃない。だから最近の作家は全然知らないし興味もないからSFマガジンも買ってない。っていうことでこれはSFマガジン読者の意見じゃないわけです。当然ながら中止になった企画を読みたかった人間の意見でもない(中止告知で初めて存在を知ったぐらいなので)

で、じゃあ読者でもないのになんでそんなに衝撃を受けたかっていうと、俺の感覚では『読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集』は、SFとしてやっていることが当たり前すぎて、どこに中止になるような要素があるのかわからない。これは俺の感覚で、そうじゃないって感じる人がいることは前提とした上で、とりあえず先に俺の理屈を書きますけど、SFって色々サブジャンルがあると思うんですけど、基本的にはサイエンス・フィクションなわけだから、現実を疑うっていうスタンスが基調になってるわけじゃないですか。目の前の現実をそのまま受け入れるんじゃなくて、科学的な道具とか概念を使って頭の中でいろいろ現実にはできない思考実験をしてみたり、ここではないどこか別の世界を頭の中に作り上げて旅してみたり…っていうのが超ざっくりしたSFの定義だと思うんですよ、俺的には。

…って考えるとさ、『読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた』ってめちゃくちゃ当たり前じゃないですか? SF創作として。もうすこし話を広げてみると、俺はさっき言ったみたいに最近のSF小説は読まないからどういう潮流が支配的なのかはわからないんですけど、これってオリジナルから偽のオリジナルを作り出すシミュレーショニズムっていう80年代末~90年代にかけてアメリカのアートシーンを盛り上げた手法と根は同じじゃないですか。日本だったら今そこそこ大規模な回顧展みたいなのをやってるみたいですけど森村泰昌がそういう人で、この人は有名絵画とか歴史的な写真とかを自分をモデルにして描き直したり撮り直したりする。あるいは、たとえば映画でもポストモダンとかいって先行作品の引用とか偽装で作品を埋め尽くすタランティーノみたいな人がいて、それもたくさんいて、もう、ちょっと書いててアホらしくなってきたんですけど、こんな創作「当たり前」じゃない!?

まぁその「当たり前」を疑うのがSFって先に書きましたし、じゃあこの企画を中止してほしいとかほしくはないけど中止やむなしと考える人(前者は実際にそんな人がいるのか不明だが後者はツイッターを見る限りでは決して少なくない。というか企画を擁護する人があまりいない)はどういう理屈でそう言っているのか…とここまで書いたのが数日前で今はその下書きを使ってここからまた書いているわけですけどもういいねこの話は! ネットの話題消費速度は人類には速すぎるからたった数日前のことなのにもう誰も中止企画の話してないし! あと前置きのくせにやたら長ぇし! 自分で「マーベリズムVSバーバリズム」ってタイトル付けて書き始めたのにね!

で、この前置きで何が言いたかったかというと、今の一般的なマーベル映画ファンの心理っていうか作品との関わり方ってSFを単にジャンルとしか捉えない、そこに描かれた思考方法を通して世の中の見方を変えたり作品の見方を変えたりするような能動的な読みをしない、そういうタイプのSFファンと通じるものがあるなと思って、なんか、『エターナルズ』でちょっとしたネット論争みたいになったじゃないですか。その人種構成とかキャラクターの特性描写について。

まネット論争って言っても大抵のネットの人は論争なんかする気がないしする能力もないから実際は掲示板でもまとめサイトでもヤフコメでもツイッターでもフェイスブックでも自分の陣地の中で気に入らない意見を叩いてるだけなわけですし、炎上というほど盛り上がってるわけでもない。宇多丸のラジオに「ろう者のキャラクターを出すならもっと作品上の意味が必要なのでは?」みたいなリスナーメールが読まれたことに対してもツイッターの敏感なマーベル映画ファンの方々がガーっと非難してたりしましたけど、その非難だって俺が検索した限りでは一番多くリツイートされたやつが数百とかだったから、もう全然燃えてないわけですよ。ネットには原理的に全ての意見があって、その一部が状況に応じて見えやすくなったり見えにくくなったりするだけでっていういつものやつで。その見えやすくなっているものを見て「燃えている!」とかパニックを起こさないようにしたいものです…いやそんなことはいいんだけど!

そういう『エターナルズ』のネット論争ならざるネット論争、めちゃくちゃバカだなぁって思って見てた。あちなみにこれはもう読んでる人は完璧に全員『エターナルズ』見てる体で書いてるのでネタバレとかこれから出てくるか出てこないか知りませんけど出てきても責任は一切取りませんがそういうつもりで劇的に暇な人だけ読んでもらいたいんですけど、あの多様性がどうのの話でさ、『エターナルズ』大絶賛派の人とかがさ、これが「自然」だって盛んに言うわけですよ。色んな属性の人が『エターナルズ』に出てくるのは何故ですか? はいそれは「自然」だからです。あなたはその「自然」に疑いを持つのですか? マジョリティの傲慢! いやこれは俺が捏造してるわけじゃなくて実際こういう感じで書いてる人もいたんですよ、そりゃインターネットには原理的に全ての意見があるわけだからさ。良いとか悪いとかじゃなくて。

でね、俺はそういう意見を見ていてわりとガクーッとなったんですよ。その理由は何点かあって、まず一点は、大人数と大予算が動くハリウッド映画で、意味のないものとか「自然」なものって、ぶっちゃけ無いですよ。これはちょっと良い喩えが浮かばない。なぜなら上のSFの話と同じで俺には当たり前すぎるように感じられるから。全部作るんですよハリウッドって。もう本当に何から何まで全部作っちゃって…要るこの説明? いらないでしょ? でもそれなりに映画を観ているはずのマーベル映画ファンとかリベラル映画ファンとかでも『エターナルズ』のキャラクター編成が「自然」だって言うの。こんなのバカげてますよ。あのキャラクター編成は誰がどう見たってハリウッド映画の作り手が可能な限り全てコントロールして「不自然に」ああなった以外にないんですよ、なぜかその当たり前を見ようとしない人たちがいるんだけど!

じゃあ二点目、なぜ「自然」と受け取ることに俺が呆れるか。呆れるというか問題を感じるか。そんなものは非常にこれまた誰が考えてもそうだろうと頷ける超単純な当たり前のことで、『エターナルズ』にはポリティカル・コレクトネスってやつで色んな人種とか性的指向とか身体障害を持った人がスーパーヒーローとして出てきます。ポリティカル・コレクトネスは人種やらなんやらの不平等を少しでも平等に近づけるためのものです。それはこれまで「自然」とされてきたキャラクター編成が「不自然」に不平等であることを明らかにしつつ、「不自然」な作為で新たに平等な「自然」を作ろうとするわけです。つまり、『エターナルズ』のメンバー全員が白人ヘテロ男性だったらそれは不自然に決まってる。そして同時に『エターナルズ』のメンバー全員がそれぞれ別の特性を持つキャラクターだとしたら、これも不自然なんですよ。そんなの当たり前の話じゃないですか!

なぜそこにそれこそ「不自然」な自然観が入ってくるのか。俺はこう考えていて、そういう自然観を抱くマーベル映画ファンとかの人、とかと書いたのはこれがマーベル映画ファンだけじゃなくてもう少し広い領域に見られる現象のように思われるからだがここではとりあえず触れないでおくとして、そういうマーベル映画ファンの人たちにとって自然というのはある種ユートピア的な色彩がある。『エターナルズ』がグノーシス主義の映画であることはちょっとした面白い偶然ですけど、グノーシス主義というのはこの世界を作った神さまは偽の神さまでだから世の中は悪いことがいっぱいあって、その偽の神さまの背後に本当の神さまと幸せな世界があるんだいという異端思想ですよね。

俺の観察ではマーベル映画ファンも概ねこんな風に「自然」を理解してる。人間が住む本来の「自然な」世界は多様性の世界だ。それが「不自然な」介入や搾取によって多様性が失われた世界になってしまった。従ってわれわれはその「不自然」を取り除けばよい。そうすれば「自然な」多様性の世界が再び戻ってくるだろう。そしてそこは相互理解とやさしさに溢れた豊かな世界である…。

『エターナルズ』のキャラクター編成をおそらくあまり深くは考えずに「自然」と捉えるマーベル映画ファンは、自分の眼にフィルターをかけているわけだ。要するに悪いのは「自然」を邪魔する「不自然」であり作為なのだから、それを払いのけるためのポリティカル・コレクトネスが「不自然」だということになればそれ自体が悪となる矛盾が生じてしまう。従ってポリティカル・コレクトネスは作為のない「自然」とみなす。こうすれば矛盾は生じない。

これは非常に問題のある退行的な考え方ですよね。なぜなら世の中を人間が能動的に、ということは「不自然に」改良するためのポリティカル・コレクトネスを自然過程としてしまえば、それは自然過程なのだから自らはそこに参与する理由がなくなる。むしろ自分が加わったらそれは「不自然」になってしまう。だからマーベル映画ファンはこの「自然過程」に対するそれは不自然なんじゃないのという当然の指摘を攻撃する。「自然過程」に対する疑義(ツッコミ)は「不自然」であり草木を荒らす害虫のようなものとして、それには耳を貸すこと無く排除すればいいと思ってしまう。それが自分の「自然過程」に対する貢献で、それ以上の関与や思考は自然を汚す行為として慎むことになる。こんな消極的な人権擁護(ポリコレって広義の人権擁護でしょ)って褒められたものですかね?

第一に、それはユートピア的な「自然」を絶対視することで人間の主体性や状況に対する応答責任を失わせる。ポリコレは不自然である、という当然の認識ができない人間なら映画にポリコレを自分から持ち込むことだってできようがないわけで、『エターナルズ』を「自然」の所産と見てその「自然」を賛美する観客はまさにそのことによってこのリベラルな「自然」を不断の努力で「不自然に」作り上げたスタッフ・キャスト・その他膨大な協力者のすべてを冒涜するのである。そればかりでなく、それは自然過程であり自分は関係ないからと、「不自然な」主体として自分の置かれた状況においてポリティカル・コレクトネスを実現していく責任は一切負おうとはしない。にも関わらず、彼ら彼女らは自分たちが「自然」で正しいことをしていると考えるのだ!

第二に、「自然」に対する疑義(ツッコミ)を「不自然」として排除するならば、「自然」に見える「不自然」の欺瞞を暴くこともできなくなってしまう。『エターナルズ』には多様な属性を持つキャラクターが登場するが当然ながらあらゆる属性のキャラクターが登場するわけではない。たとえばそこにALS患者のスーパーヒーローはいない。イヌイットのスーパーヒーローはいない。「不自然」なのだから当たり前だが、仮にこれを「自然」とするなら、『エターナルズ』の「自然」な多様性は一転して反多様性の排除思想へと姿を変えてしまう。その「自然」を守るためにここでは選ばれなかった属性を排除することを肯定するなら本末転倒だろう。そんなものは「自然」でもポリティカル・コレクトネスでもない。

多様性のユートピアはいずれ必然的にもたらされるものであるからその「自然過程」に思考を捨てて身を委ねよう。こんな風に考える堕落した鑑賞態度を俺はマーベリズムと名付けよう。反知性主義、教条主義、排外主義、現在の「不自然な」世界に対するカウンターという点で反動主義、などが非主体的に混ざり合ったものがマーベリズムだ。こう文字を並べてみるとなんだかオルトライトの定義とそっくりに見えてしまうのが面白いですね。

マーベリズムがこの「不自然な」世界から追放しようとするのは「自然」を踏み荒らす野蛮さ、バーバリズムであるが、マーベリズムの信奉者と対置されるバーバリズムの信奉者として、ポリコレ糞食らえ昔の映画の方が自由で面白かった! という人を想定してみよう(実際ネットにはたくさんいる)。その人はこのように怒っている。マーベル映画に代表される現代のリベラルなポリコレ映画は「自然だった」昔の映画と違って「不自然」であり、放っておけば「自然過程」として昔の映画のままだったのにリベラル勢力の「作為」によって映画は「不自然」に変えられてしまったのだ!

要するに、マーベリズムとはバーバリズムであり、バーバリズムとはマーベリズムであり、ポリコレ鏡に反射するこの二つの像は同じものが逆を向いているだけなのです。マーベリズムはユートピアとしての未来を、バーバリズムはユートピアとしての過去を。どちらに分があるかと言えば未来を見るマーベリズムに決まってる。けれどもそれはマーベリズムがバーバリズムと質的に異なるからではなく、時間は後ろには進まないという単なる現実がマーベリズムの背中を押しているに過ぎない。そして時間は善悪の判断などしてくれない。

ピンク・フロイドの”Time”で幕を開ける『エターナルズ』が、個々の善悪判断に基づき諸々の「自然過程」に主体的に介入し、最終的にその時間を止めること(抹消ではないことがこの作品の見事なところだ)を肯定する映画だったことを思えば、そのファンを自称する人々の映画に込められた思想の逆を行くマーベリズムへの傾倒は皮肉という他ないが、その「不自然」に気付けなくするのがマーベリズムと、そしてバーバリズムの効用なのである。マーベル映画に罪があるとすれば、その先進性とは裏腹に、むしろ先進的だからこそ、その先進性に身を委ねようとする退行的な観客を生んだことにある。そして思考の自立を拒否する退行的な観客はマーベル映画に依存しマーベル映画を盲目的に奉ずるマーベルにとって最高の観客なのである。マーベリズムはバーバリズムに支えられている。

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2 Comments
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匿名さん
匿名さん
2021年12月13日 12:44 PM

これは非常に鋭い視点
というかこういう視点を持った人が少なすぎる。
特に某小野kの破綻した恥知らずなバカ丸出しの映画評にはウンザリする