うつらうつらとシャマランについて考える

以下シャマラン映画を観ていて漠然と思ったことの羅列なのでいつかはまとまったシャマラン論を(誰も書いてくれないので)俺が書かねばなるまいなと謎の使命感もあるのだが今日のところはひとまずそのための眠い頭での地ならしというか脳みそ整理なのでこんなものをわざわざ読みたがる暇にして奇特な人はよくよくその点を理解し読んで損した金返せなどとは思わないように。

・シャマランはダメ監督なのか?
そんなわけないだろ。言うまでもないことだがシャマランは現代アメリカ映画界においてクリストファー・ノーランなども凌いで最も力量のある監督の一人である。なぜそう言えるのかというとシャマランは何もないところに何かを見せてしまうから。ノーランの映画を見たまえ。本物志向のノーランは飛行機の爆破が必要なら飛行機の実物を用意し病院の爆破が必要なら爆破解体される病院を探し出してきたりするぐらいだが、人がでかいものを見て「でけぇ!」と感じるのは当たり前であり、これは演出力とかではなく金の問題である。何の問題だろうがでけぇもんを見た方が楽しいのは確かだが、今そんな話はしていない。対してシャマランは最新作『ノック』でもそのような演出を施していたが何もない風景を見せる。何もない。あるとすれば風に揺れる葉っぱとかだけ。でもそれをなんだかとても恐ろしいもののように撮る。その際におどろおどろしい劇伴などはほとんどつけない。台詞の間合い、編集のテンポ、基礎的なカメラワーク…だけで、シャマランは何もない空間を恐ろしく感じさせる。これはすごいことではないか。

・最近のシャマラン映画ってオチが大したことなくてつまらない
そもそもシャマランはオチでびっくりさせる映画監督じゃない。最高傑作『アンブレイカブル』のいったいどこが衝撃のオチなのか。あれは光あるところに影あり、逆もまた然りときわめて当たり前のことを言っているだけでむしろ全然オチてない。大いに勘違いされているのは要するに『シックス・センス』のオチの意味が大多数の観客や評論家にさえ理解されていなかったからである。あれはどんでん返しなんかではないのだ、実は。『シックス・センス』のオチのキモというのは、「わかっていた」ということなのだ。精神科医のブルース・ウィリスは自分が死んだことに気付かないおまぬけさんなんかではない。賢すぎて逆に目の前の、つまりバカでもわかる自分の死という現実を直視できない人なのである。『シックス・センス』は自分が死んだことに気付いてはいるがそれを認めようとはしない死者が自分の死という現実を認めるまでのお話である。だから、これはどんでん返しではない。むしろ逆に、当然そうあるべきところに物語が収斂する、その悲しさこそがあのオチの伝えようとすることなのだ。シャマランの映画はすべてそうあるべきところに物語が収斂する。違うのはどのような語りのルートを辿るかというだけで、今も昔も本質はまったく変わっていない。

・シャマランってバカでしょ
ナメてんのかテメェ表出ろ。表で俺とおはおはファイトだ。覚えているかおはおはファイト。水木一郎の唄でバトルするならおはおはファイト~っていう…忘れろ! シャマランがバカにはバカに見えるのはシャマランが「王様は裸」と言ってしまう人だからである。それは様々にパラフレーズ可能だ。「人間は必ず死ぬ」とか「生きることは他の生命を殺すこと」とか。これらはきわめて当たり前のことであり、当たり前すぎるので普段は人の意識には上らず、そうして見ないように見ないようにしているうちにすっかり存在を忘れてしまうものである。そうしなければ精神を平静に保ったまま日常生活を送ることはできない。まったく当たり前のことだが昨日まで生きてきたからといって明日も、いやそれどころか一秒後にも俺やあなたが生きているという保証はどこにもない。これを読んでいる最中に何億万分の一かの確率で心臓発作になって急死するかもしれないし落雷を受けて急死するかもしれないし突然の殺人鬼乱入によって急死するかもしれない。その可能性はどれも否定することが不可能なのだが、狂わずに済ませるために人間はその可能性を何の根拠もなくゼロとして見積もってしまうのだ。シャマランはそれが幻想にすぎないことを知っている。そして、たとえば『ハプニング』のような形で、人間を狂わせる世界の真実を観客に突きつけるのである。日常意識にすっかり染まりきって幻想を幻想と認識することさえできなくなったお馬鹿さんには、そんな人間こそがバカに見えてしまうものだ。

・身も蓋もない…
そうだ、身も蓋もない。シャマランは身も蓋もない。『ハプニング』なんか本当すごいよ、だって世界に終末が訪れるけどなんで終末になったのかは人間にはわからない、もう終わりだと思ったらなぜか救われるけどなんで救われたのかは人間にはわからない、わからないからもしかしたらまた何の前触れもなく急に世界が終わる日が来るんじゃないだろうかと不安になって映画が終わる…なんだこの映画はふざけるな! でも現に、現実世界は構成要素が多すぎて超最先端の量子コンピューターみたいなやつの計算力をもってしても、そのすべてをという意味ならシミュレート不可能であり、したがって未来を予測することも不可能だ。正しいのはシャマランであり『ハプニング』なんである。人間はその理性で世界を動かす法則を把握することができない。それは隠された真実ではなく自明の事実でしかないのに、それを理解することがどれだけ困難なことかは、本屋さんに行ってみればわかる。〇〇すれば痩せる、〇〇すればお金持ちになる、〇〇すれば恋人ができる、〇〇すれば…これらはすべて単純にウソである。それでも人はそのウソに縋ってしまう。自分がその一部であるところの世界を、自分は意志と理性でコントロールできると思い込みたくなってしまう。人間というのは哀れな生き物だ! シャマランは、その哀れさを拒絶する監督である。

・すべては決断
前作『オールド』は一日で一生分老いてしまう浜辺に閉じ込められた人々のお話だったが一日で一生が終わるのだから沈思黙考して解決策をじっくり探るなんて悠長なことをしている暇はない。わけがわからなくてもとりあえずその状況を受け入れるしかない、理屈はなくてもとにかく閃いたことを片っ端から試してみるしかない。人生を賭した決断はシャマラン映画に頻出するモチーフだが、昔はヒロイズムと接着されたコミックなものだったそれが、最近はずいぶん哲学めいてきて、同時に重みと厚みが出てきたなと思う。決断とはなにかを行為することではない。行為しないこともまたひとつの消極的決断なのだ、とシャマランが捉えていることは最新作『ノック』を見ればわかる。人間は常時なにかしらの決断をしている。決断から逃れることは決してできない。眠くなってきたのでオチもなにもないがここで寝落ちだ。わお、うまいことオチたね!

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2 Comments
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りゅぬぁってゃ
りゅぬぁってゃ
2023年4月24日 3:05 PM

シャマランが監督したインド映画、怖いもの見たさで見たい♨️