男は暴力を使えない(映画を観て思ったことシリーズ)

このあいだ観たアメリカの変形シリアルキラー映画『クローブヒッチ・キラー』で面白かったのは銃を構えた主人公の少年に犯行現場を押さえられた犯人の男が絶体絶命状況にも関わらず眉一つ動かすことなくごく冷静な口調でいかに少年の行為が間違っているか滔々と説教を始めるところで、当然ながらこれは絶体絶命状況をひっくりかえすための藁にも縋る虚勢であるからシリアルキラー的には表情に出さないだけで心臓バックバクなのであるが、同じ日に観たいわゆるナメてたやつが殺人マシーン映画の『Mr.ノーバディ』も実は同じことを描いていたのではないか? となにやら頭の中でグチャアと繋がってしまったのだった。

別にキャラクターに共通点があるとかそういうことではない(共通点ありますが)。そうではなくて、殺人マシーン男性が暴力を使って何を得ようとしていたのかという点で『クローブヒッチ・キラー』と『Mr.ノーバディ』は繋がるし、暴力の行使が彼らにとって何を意味するか、という点でも繋がるように思えるのである。何を得ようとしたか。端的に言えばそれは被害者も含めた状況の支配、コントロールである。何を意味するか。こちらも端的に言えばそれは自身の肉体を含めた「状況のコントロールの喪失」である。

要するに、この二人の殺人マシーン男性にとって暴力は好ましいものではなく、むしろ平和な毎日の生活を破壊する忌むべきものである。しかし彼らはその平和な毎日の中で自分が人生の支配権を握れていないと感じていて、これが暴力衝動として蓄積されていく。いつか暴力が暴発すれば自分が状況の支配権を握ることができる。しかしそれは同時に自分で自分自身を肉体的にも精神的にも制御できないことを意味する。暴力の行使は殺人マシーン男性にとって状況の支配権を握るために自分自身の支配権を一時的に放棄する、いってみれば超人ハルクの変身のような、勝利でもあり敗北でもあるアンビバレントな行為なのであり、勝利と敗北が自己の内でウロボロスのように尾を噛み合っているからこれは終わることがない。殺人マシーン男性が一人の殺しでは飽き足らず延々と殺し続ける理由の一端だろう。

何が言いたいかと言えば、男は暴力を使えない。これらの映画は一見すれば暴力を完全に我が物としているかに見える殺人マシーン男性を描くが、その華麗なる暴力表現を通して裏付けられるものは暴力の手に負えなさであり、いささか神経質に構築された暴力の達人のイメージは、逆説的に達人の不在を印象付ける。暴力を適切に扱うことのできる達人が不在だからこそ悪であれ善であれフィクションの中で達人が求められるのである。それは男たるもの状況を完璧にコントロールすべし、という無言の圧力からの逃避願望が生み出した男たちのほの暗いファンタジーなのだ。暴力の解放を求めるある種前向きの願望ではなく、後ろ向きの願望なのである。

などと考えていたら思考バブルが爆発したのでメモ的に映画の中の暴力を大☆妄☆想。とくに論としては出来ていないのであくまで飲み屋のヨタ話として暇な人だけお付き合いください。
※またなんか思いついたら追記するかもしれません。ご理解ご理解。

スラッシャー映画からサイコサスペンス映画へ ~制御不能な暴力を制御する~

『クローブヒッチ・キラー』のシリアルキラーは性的妄想型で捕まえた女を縛ってあれこれした後に殺すのであったが(BTKの通称で知られる実在のシリアルキラー、デニス・レイダーがモデルになっている)、殺しそのものよりもそのあれこれに比重が置かれているのはこの人の性格に依るところも大きいとしても、性的妄想型のシリアルキラーの一般的傾向に思える…というのはわざわざ言うまでもなくものの本の至る所に書いてある。興味を惹かれるのはシリアルキラーを描くアメリカ映画、大抵ジャンル的にはサイコサスペンスとかに分類されるのではないかと思うが、こういう映画の関心事もそこにあるっぽいところである。

被害者を捕まえてあれこれすること。それができる残忍で狡猾な男のイメージ。たとえばシリアルキラー映画といえばの『セブン』には直接的な殺しのシーンはおそらく一カ所しかない。映画が克明に描き出し客に提供するのは殺しではなく様々な種類の拷問のイメージである。『羊たちの沈黙』にはレクター博士とバッファロー・ビルの二人のシリアルキラーが出てくる。このうち重要なのは言うまでもなくレクター博士の方で、その所業は『セブン』以上に詳しく描かれないのでよくわからない。よくわからないがめちゃくちゃ怖いことをやったらしいというイメージだけでレクター博士は獄中からFBI捜査官クラリスを操作しようとするのである。

『羊たちの沈黙』をアメリカの殺人鬼映画の分水嶺とするのはいやそれはちょっと単純すぎやしませんかねとはまぁ思うが、とりあえず俺の話を円滑に進めるためにその他おおぜいの殺人鬼映画には黙ってもらうとして、『羊たちの沈黙』はアメリカ映画の中でのシリアルキラー像を刷新した映画の一つである、ぐらいは言ってもよいだろう。『羊たちの沈黙』のレクター博士とエド・ゲインをモデルにした『悪魔のいけにえ』の殺人鬼レザーフェイスでは違いは明白である。もうあらゆる点で違うが、ここではひとまず暴力に絞って話を進めると、レクター博士の行使する暴力が洗練され完璧に(お食事以外は)コントロールされた暴力である一方、レザーフェイスの暴力は日常労働である屠畜の延長線上にあるとしても、精神的にはコントロール不能な暴発した暴力である。

一般的にスラッシャー映画の眼目は人がどう殺されるかという点にあるが、そのためスラッシャー映画の殺人鬼は暴力の制御できない人間(多くは洗練されていない田舎者に設定される)として描かれることが多い。ある殺人鬼ものホラー映画をスラッシャーとするかサイコサスペンスとするかの簡単な指標はこの点にあり、その殺人鬼の綿密な殺人計画やそのための下準備が描かれていればサイコサスペンスで、そうではなく殺しの瞬間ばかり描かれていればスラッシャー映画である。これは(計画を見せるために)殺人鬼目線を導入する映画か被害者目線のみで進行する映画かという違いでもある。ためしにTSUTAYAさんでスラッシャー映画コーナーに置いてある映画とサイコサスペンスのコーナーに置いてある映画を何本か借りてきて見比べてみればおそらく了解いただけるのではないかと思うのでTSUTAYAさんへGO。

以上まとめると、スラッシャー殺人鬼は暴力を制御できない人間であり、スラッシャー映画はその殺しを見せる映画である。サイコサスペンス殺人鬼は暴力を制御したか、少なくとも本人はそう思い込んでいる人間であり、サイコサスペンス映画は殺人鬼の身体/精神および殺人過程のコントロールを見せる映画である。
そう仮定したときに『羊たちの沈黙』の歴史的重要性が見えてくる。ここではバッファロー・ビルは暴力を制御できないスラッシャー型のシリアルキラーであり、レクター博士はサイコサスペンス型の殺人鬼として、後者による前者の駆逐が描かれるからだ。そして実際、その後サイコサスペンス映画が従来の殺人鬼ジャンルであったスラッシャー映画に代わって、アメリカ映画において隆盛を誇ることになるのである。

ニューシネマのヒロイズム ~受難をコントロールする~

アメリカン・ニューシネマの暴力は反ヒロイズムの意図が鮮明であり、『ソルジャー・ブルー』の虐殺などはその好例だが、総じて暴力は否定的に描かれる。どっかのアホの銃弾で主人公死亡は『イージー★ライダー』とか『グライド・イン・ブルー』とかニューシネマの王道である。暴力を積極的に行使する『フレンチ・コネクション』のポパイ刑事にしたって従来のヒーロー刑事の真逆を行く泥くさ人間であるし、『ダーティハリー』のハリーも有名な「弾が残ってるか俺にもわからん」の台詞が示す通り暴力の制御と暴走のはざまに存在する人間であり、それが殺人鬼さそりとハリーの危うい鏡像関係を成り立たせている、ともいえる。

ニューシネマの暴力を考えるときにイーストウッドは避けて通れない。とはいえイーストウッド映画の良き客とは到底言えない俺がイーストウッドの作家性を作品の半分も見ないで論ずるのもどうかと思うので、巷では姉妹編ないしは精神的続編とみなされている(らしい)『ダーティハリー』と『グラン・トリノ』における暴力の変遷についてごく簡潔に述べたい。めっちゃ簡潔である。『グラン・トリノ』のラストに見られる『ダーティハリー』のセルフオマージュのごとし贖罪行為は、その行為によって劇中のギャングだけではなく観客をも翻弄するという意味で、スラッシャー殺人鬼がサイコサスペンス殺人鬼に取って代わられたように、コントロールの形態が変化したに過ぎない。

暴力の過去の清算ではないのである。粗野なハリーと違って『グラン・トリノ』のイーストウッドは家の修繕とか車の整備とかあと料理とかもやっていたと思うのでめちゃくちゃ落ち着いているが、それは状況のコントロールを暴力を用いずともできるようになったということで、その到達点が例の(「銃を持っているぞ…?」)のハッタリによる贖罪的死なのである。それはコントロールの究極の形態であり、ここでのイーストウッドは仕草ひとつで相手に自分が銃を持っていると錯覚させるほど身体と状況をコントロールするばかりではなく、死すらも計算通り肉体に招き入れるほど自己の精神をコントロールしているのである。そしてモン族の青年にイーストウッドの愛車グラン・トリノを引き継ぐことで、後に残った者の人生をもコントロールするのだ。イーストウッドが自分を自分で管理することを是とするリバタリアンを標榜するゆえんである。

こうした観点からは従来イーストウッドのマゾ体質または表裏一体の女恐怖の表れとして解釈されがちであったイーストウッド映画(ドン・シーゲル監督作も含む)における暴力のコントロール不能なおそるべき女たちにも別の意味が見出せるかもしれない。暴力的な女に襲われるイーストウッドはそのことで逆説的に女をコントロールすべきはやはり男! の男性優位を打ち立てるのだ。

それは男女平等平和大好きでも大人たちはわかってくれないダメだもう死ぬ的なニューシネマにおいて、その悲劇的な死が、表面的な社会的要因ではなくアメリカ男のセルフコントロールの思想に根を持つものであることをも意味するかもしれない。なんとなれば作ってるのは自分たちなんだから別にハッピーエンドにしようと思えばいくらでもハッピーエンドになんかできるんである。それでも体制や大人社会の暴力による青年の悲劇的な死や別れをニューシネマが描くときに、そこには制御不能な暴力=体制の過剰な暴力の犠牲となることでその罪を告発する、利己的な自己犠牲の相貌が表れる。

社会のコントロールに失敗した体制の野蛮な暴力に対して、その犠牲になる若者たちが自分たちこそが状況をコントロールすることができるとメタ的にほのめかす場面がニューシネマの悲劇的死なのである。一作目で警官バッジを捨てたはずの『ダーティハリー』がシリーズを重ねて暴力をコントロールする側に転ずるのも、必然なのだ。

クローネンバーグとデ・パルマの治療的暴力 ~コントロールがコントロールを破壊する~

『ラビッド』や『シーバース』、『ザ・ブルード』や『スキャナーズ』といった初期クローネンバーグ映画には人間の身体をコントロールするための医療行為が結果としてコントロール不能な異形の暴力を生み出すというモチーフが頻繁に見られる。この反転がクローネンバーグ映画の観る者に衝撃を与えるところであり、おそるべきは暴力描写そのものよりも、『ザ・ブルード』のように医療行為で暴力を精神の領域に移し替え、コントロールを試みることで、かえって身体の暴力を制御不能にしてしまうというアイロニーなのだ。

衝動の移し替えは精神分析大国アメリカでは基本的な暴力に対する治療である。身体の抱えた暴力を精神の解剖台の上におき、アンガーマネジメントなどというのも最近はよく聞くが、その衝動を自ら分析することで暴力をコントロールしようとする。これに冷や水を浴びせるどころかちゃぶ台をひっくり返すクローネンバーグ映画の暴力観はアメリカの観客にはさぞや異常なものと映ったのではないかと勝手に想像する。

『スキャナーズ』に先駆けること3年、設定や雰囲気に共通点の多いサイコキネシス・テーマのSFホラー『フューリー』を放ったのは『キャリー』のブライアン・デ・パルマだが、デ・パルマもまたシャム双生児題材のサスペンス『悪魔のシスター』でクローネンバーグほど明瞭な形ではないものの医療行為と暴力の関係性を描いており、一方クローネンバーグの方も後に双子サスペンス『戦慄の絆』を手掛けるなど、この二人の異端派ホラー監督には暴力の思想の面で相互影響が観じられる。

『キャリー』は狂信的なクリスチャンの母親に抑圧され残忍なクラスメートによって虐げられている少女が超能力の形で暴力を解放する物語である…とは俺が言うまでも無いことだろうが、デ・パルマにおいては変身が暴力の解放と結びついていることを思えば、『キャリー』の物語の最初に置かれているのがキャリーの初経であることは興味深い。変身は暴力の解放手段であると同時にコントロール手段でもある。内に秘めた得体の知れない力を以前の自分とは別の自分に変身することで自在に使いこなすこと。これがデ・パルマの暴力映画の基本設計であり、『キャリー』『悪魔のシスター』『殺しのドレス』や『レイジング・ケイン』などがその典型的な例と言える(ここでもクローネンバーグの『ヒストリー・オブ・バイオレンス』にその影が見える)。

デ・パルマ映画の暴力をそのように把握するなら『ミッドナイト・クロス』のラストが意味するものも明らかになるのではないだろうか。悲鳴という暴力の形象を主人公は映画に組み込むことでコントロールしようとするが、それは映画好きから映画職人への変身によって可能になることなのであり、それこそが主人公を映画職人にするのである。いささかロマンティックに(?)飛躍すれば、デ・パルマは内なる暴力をコントロールするために映画監督になったのだと言えるのかもしれない。

『AKIRA』と『鉄男』の暴力暴食 ~最終破壊兵器を身体に取り込む~

海外のどこかでは「『AKIRA』の後に『鉄男』が来た」とか言われるとか言われないとか。それはいいがクローネンバーグの『スキャナーズ』の影響は存外大きくこの二本の日本を代表するサイバーパンクSF映画も見比べれば影響モロな感じである(『鉄男』はとくに『鉄男Ⅱ』)。それはガジェットや設定の面でもそうかもしれないが、暴力の治療や忌避がより巨大な暴力をもたらす視点に、とくに顕著であるように思える。

もっともクローネンバーグの場合は解放された暴力を単純なハッピーエンドとしては提示していない。暴力の解放の結果社会は変化するであろう的な傍観的・科学者的な距離感がクローネンバーグ映画の独特の空気を生んでいる。他方、映画版の『AKIRA』や『鉄男』は傍観者的な態度には留まらない。暴力の解放を積極的に受け入れ、それによる社会の破壊と改革を夢見るのがこれらの作品に思える。『AKIRA』の超最高なオープニングはどう見ても原爆投下の変形である(その後処理はチェルノブイリ原発事故の再現である)。

クローネンバーグが提示した暴力の治療による暴力の拡大解放を、敗戦による受動的平和の帰結としての爆発的暴力の待望として『AKIRA』は翻訳する、と言えばグロテスクに過ぎるだろうか。後に巨大なサイキックパワーを得ることになる鉄雄は当初虐げられた者として登場する。その傷口から鉄雄の体内に巨大な暴力は入り込むのだ。ここにはニューシネマの残滓も感じ取ることができる。虐げられた者のコントロール願望、虐げられた者こそが世界をコントロールできるという確信。

力の増大に比例して徐々に精神と身体と(そして状況に対しても)コントロールを喪失していく鉄雄に対して主人公の金田は一貫して自分で自分をコントロールする人間として描かれる。どう見ても身体能力が違うのにサイキック鉄雄とノーマル不良の金田がクライマックスで対等に戦えてしまう不自然は、この物語が暴力ではなくコントロールに関する物語であったと理解すれば腑に落ちるところである(状況をコントロールできない政治家に業を煮やした軍人はコントロールの回復のためにクーデターを図るのだ)。

『AKIRA』にもまた相反する二つの志向と時代が見られる。ひとつは敗戦=イジメの過去から世界の王になろうとする改革派の鉄雄であり、ひとつは戦争を知らず政治には興味のないノンポリ保守派の健康優良不良男子・金田であり、映画版ではその志向は完全に分断されてしまう。鉄雄は新たに生まれた別世界で神となり、金田はこれまでの世界の復興に努めるだろう。

あるオウム元信者は信者の多くは漫画版の『AKIRA』を読んでいたと語っている。その信ぴょう性はともかくとしても、オウムが全体としてSFやオカルトに強い影響を受けていたことは空気清浄マッシーンを「コスモクリーナー」と名付けるなどの痛エピソードからうかがえる。あくまで悪いジョークとしてだが、『AKIRA』の中には既にオウム真理教はあったのである。新しい世界の神にならんとする鉄雄はもちろん日本を自身を国家元首とするシャンバラにしようと画策していた麻原である。

ところで『鉄男』の塚本晋也の場合は90年台後半の『バレット・バレエ』ぐらいまでは概ね『AKIRA』と思想を共有していたが、パンク系の映画監督の多くがそうであるようにその後はスピリチュアルな方向にちょっとだけ振れ、現在は『野火』や『斬、』の社会派暴力映画へと至っている。そこには破壊による解放の待望などもうどこにもない。『AKIRA』や『スキャナーズ』にあった人間の生得的な暴力性という考えも否定される。『野火』や『斬、』では人間ではなく状況が暴力を生み出すのであり、暴力のるつぼとしての戦場を塚本晋也はそのように捉えるのだ。こうして塚本映画の暴力は、暴力を生み出す国家への批判へと繋がっていく。かつての塚本映画では国家を破壊するために持ち出された個人的な暴力が、近作では個人を国家に回収するための甘い罠として描かれるのである。

ハリウッド・オタク・アクション ~ヴァーチャルな暴力と無性の武器~

ジャン・ボードリヤールを読んで現実と虚構の二元論を構想するのではボードリヤールの何を読んだのかわからないが、ウォシャウスキーの『マトリックス』がエポックメイキングな「暴力」映画であることは間違いない。注目したいのは「銃をくれ」の場面である。コロンバイン高校銃乱射事件に影響を与えたとかなんとか言われて評判が悪いのだが、ここではネオとトリニティが同じような服を着て平等に銃を取りまくって同志としてヴァーチャルな敵を撃ちまくるわけで、『マトリックス』の何が革新的であったかと言えば俺は案外このへんなのではないかと思うのだ。

そこに身長170㎝の男がいる。160㎝の女がいる。この二人がワケあって殺し合いをしなければならないとしたらおそらく女は不利である。しかし二人とも同じ銃を持っていたらどうだろう。おそらく素手で戦うよりは勝率が五分五分に近くなるはずである。どんな技術も人間の差異を補い平等な存在に近づける可能性があるが、武器はとりわけそうであり、銃で五分五分に近くなる上のアホな思考実験は、もし二人が核の発射ボタンを持っていたとしたらと更に突き詰めると、これは完全に五分五分と言っていいだろう。核を手にした人間には身長も筋力もなにも関係がない。『続・猿の惑星』の核ミュータントたちが持つグロテスクなユートピア思想にもちゃんと筋は通っているのだ。核は人間を平等に(不幸に)する。

ところが身体能力差を埋める銃やカタナといった武器を映画の中で使用するのは男ばかりである。ひとつ象徴的な例として挙げたいのは石井隆の『フリーズ・ミー』という映画で、これは井上晴美が演じる女が卑劣な男どもにさんざん脅迫されまくり、いよいよ煮詰まってこいつらを計画的にぶっ殺し始めるという痛快な内容であるが、その惹句は「サイコスリラー」なのである。時代も事情も多少異なるが似たような形で男女を反転させたものとして、たとえばブロンソンの『狼よさらば』を「サイコ」の語で形容しようとする人間がいるだろうか。男の自警的暴力が「アクション」である一方、女の自衛的暴力は「サイコ」であるとはどういうことか。

俺にはこれが女が武器を手にすることに対する男の無意識的な警戒心の表れに思える。それはおそらく攻撃への警戒ではない。武器の使用によって男女差が縮小することを警戒しているのであり、縮小すればその分だけ男のコントロール可能性が少なくなることを恐れているのである。こうした旧来の銃所持倫理を破壊するのが『マトリックス』以降の俺がハリウッド・オタク・アクションと呼ぶボンクラ映画群である。『バイオハザード』、『ウルトラヴァイオレット』、『アンダーワールド』、『トゥームレイダー』、『デッド・オア・アライブ』…などだが、これらの映画では女が銃やカタナを持つことはもはや当たり前であり、何の説明もない。

ここでは武器が中性化されていると同時に多くはCGIによって構築された未来世界や架空世界を舞台とすることで武器による殺傷が仮想化されている。それには「コロンバイン高校に~」のような批判もあるが、だとすれば現実世界を舞台にナマっぽい暴力と殺傷を展開する『96時間』も平等に、というか再現可能性という意味ではもっと厳しく批判されなければ筋が通らない。今ではさすがに現実世界で女主人公が銃を持つ映画も少なくないとはいえ、まだまだ銃は男が持つものであり、そして男であれば銃をコントロールできるという幻想というか願望は健在なようである。

(きっと続く)

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