子供暴発映画『私、オルガ・ヘプナロヴァー』感想文

《推定睡眠時間:20分》

そういえば今日ニュースの見出しだけ(ツイッターで)見てたら京アニ放火事件の初公判がいよいよ始まるらしく、なんとなくもう死刑が確定したどころか執行もされたものと思っていたので意外な気がしてしまった。被害者が多すぎるというのもあり、犯人の青葉自身も全身大やけどの重傷を負ったというのもありで、なかなか通常の…というのも変だがよくある(それも変か)大量殺人事件のようにはスムーズに公判手続きが進まなかったんだろう。そのニュースには法廷で真相究明が云々と書かれていたが、加害者家族や被害者遺族やジャーナリストなどを除けば青葉の裁判に何かを期待する人間はあまり多くないのかもしれない。事実、このニュースの話題をしている人はツイッターでもリアルでも一人も見なかった。かくいう俺もその一人なのだが、量刑に関しては個人的には死刑廃絶派なので無期懲役でいいとは思いつつも現行法下では死刑は免れ得ないだろうし、動機に関しても犯行直後にその大部分は既に報じられているので、端的に言って裁判がもたらすセンセーショナルな新情報はほとんどないというのがその理由じゃないだろうか。

などと考えていたらあれなんか電車内で放火してナイフ振り回したやつとかどうなったっけ、それも模倣犯二人ぐらい出したよなあの事件、と思い出した。どうなったんでしょうねぇ。そう思うなら調べろやと自分でも思うがまぁそれはおいおいするとしてだ、社会に大きな衝撃を与えた事件にも関わらず俺みたいな凡俗大衆のこの無関心はなんなのだといえば、スプリーキラーの理解に対する諦めがあるんじゃあないかと思った。複数日に渡って継続的に殺人を犯す人間をシリアルキラーと呼ぶのに対して一度に大量の殺人を犯す人間をスプリーキラーと呼ぶ。アメリカなら銃乱射犯が典型的なスプリーキラーであり、日本であれば宅間守や加藤智大などの通り魔がその典型。でシリアルキラーの方は映画でもドキュメンタリーでもよくネタにされるのだがスプリーキラーの方はそれに比べると随分少なく見える。

オバマ政権時代のことだからあれはもう十年とか前のことになるのだろうが、ラスベガスのライブ会場で百人ぐらい撃ち殺した近年のアメリカ犯罪史における最悪の乱射犯は思えば動機どころか名前も知らない、探せばあるのだろうとしても配信サイトの犯罪ドキュメンタリーなんかで観た記憶はないし、なんでも実録映画にしてしまうアメリカなのに映画でも観たことがない。シリアルキラーの絶対数が少なく実録殺人映画が作られにくい日本では比較が難しいが、北九州連続監禁殺人事件をモデルにした『愛なき森で叫べ』や座間9人殺害事件ほかをモデルにした『さがす』はあっても宅間守や加藤智大をモデルにした映画はやはり記憶にない。

思うにシリアルキラーはなにかドラマを人に想像させる余地がある。なぜ人間が日常の生活の一部ででもあるかのように人を殺せるのかというのは悪趣味だとしても好奇心をそそられるところが確かにあるわけだが、それにひきかえスプリーキラーの方はなんというか身も蓋もない感じがする。シリアルキラーはなんでそんなことをするのかと思わせるところに逆説的だが理解の可能性が残されているように感じられるのに対して、スプリーキラーの方はもっと動機がわかりやすく目に見える分だけ、動機とそれが引き起こした結果としての大量殺人の間に巨大な溝があって、はなっから理解することなどできない、したがってそれについて考えを巡らせようという気にもあまりならないんじゃないかと思うのだ。これは俺の場合だが。

と前置きが長くなりすぎているがこの映画『私、オルガ・ヘプナロファー』は1973年のチェコで加藤智大みたいにトラックで歩行者のいるところに突っ込んで死刑になったスプリーキラーの実録映画。なぜ彼女オルガは世にも珍しい女スプリーキラーになってしまったのかということがドライなタッチで描かれるが、結論から言えばやっぱりよくわかんない。たしかにそれっぽい布石はいろいろあって、イジメだとか、厳格な親との不仲とか、虐待? これは寝ていてよく見ていなかったので詳細がわからないが、しかし明確な虐待があったとしても、それはオルガがトラックで10人ぐらい轢き殺す直接的な動機にはならないだろう。いろんな不満が重なって犯行に及んだ。これはまぁわかる。その結果無関係の人が10人ぐらい死んだ。これがよくわからない。だって親に不満あったら親だけ殺せばいいもんね。

実際オルガはトラックを暴走させる前夜に父親の家かなんかに放火もしていたが、そういえばテキサスタワー乱射事件のチャールズ・ホイットマンは無差別乱射の直前に母親を撃ち殺していたらしい。最近のスプリー事件簿でいえば(人死には出ていなかったはずなので厳密にはスプリーキラーとは言えないだろうが)京王線のジョーカーが乗客を恐怖のどん底に陥れた後、まるで自分が何をしでかしたのかわかっていないかのように座席に腰掛けている映像がネットの話題を呼んだが、なるほどこれはスプリーキラーの心理を捉えた象徴的な映像かもしれない。

なにか明確な意志や目的を持って大量殺人に走るというよりは、その前段階として本人の中で(あるいは社会的にも)越えてはいけない一線を越えてしまった瞬間があって、その現実に適切に対処できないがために自暴自棄になってしまい、自分でもなんだかよくわからんまま発作的に大量殺人に走るというケースがスプリーキラーには多いんじゃないだろうか。殺人が長期間に渡ることを考慮すれば当然のことではあるのだが、シリアルキラーと比較してスプリーキラーの年齢は世界的に低い。オルガも犯行時若干22歳、一線を越えて引き返せなくなるのはやはり経験の浅い若者だろう。俺も子供の頃は囲碁とかで負けそうになると盤面ぐしゃぐしゃってやって顰蹙買ってたもんな。本質的にはそれとトラック暴走は変わらないのかもしれない。

だから、ここには何らかの読み取るべきメッセージのようなものはおそらくないのだろうと俺は思う。死刑宣告を受けたオルガは法廷で自分の犯行の目的を得々と語ってみせるが、それが真実の言葉ではないことは「自殺することだってできたがあえて殺人を選んだ」と語る彼女が、映画の冒頭では度々自殺未遂を起こしながらも決して一線を越えることはできなかったことが裏打ちしている。宅間守は法廷の場で「こんな汚いオッサンに未来ある金持ちの子供が殺される不条理を世の中にわからせたかった」というようなことを言っているが、何につけても衝動的で計画性がまるでなかった宅間が大量殺人に限ってそんな理路整然と事を運べるわけがないだろう。オルガや宅間は身体だけは大きくなって精神的には未熟なままで、その言葉はいかにも子供の考えるその場しのぎの上っ面でしかない。

その惨めと醜悪をこの映画はそのままに映し出す。トラック暴走が故意か事故かも断片化され物語化を拒否する映像の中では判然としない。凶悪殺人者としてオルガを捉えることもなければ悲劇のヒロインとして捉えることもない。画面に映るのは子供のまま人を殺して子供のまま死んでいった一人の未熟な若者の姿だけ。挑発的な眼差しは大人の多様なコミュニケーションを獲得できずに威嚇という形でしか人と関われない無分別で怯えた子供の目だ。そこには何のメッセージも理路整然とした答えもないとしても、大量殺人という現象の少なくともある一面を理解する材料は揃っている。

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こちらはオーストラリアの実録スプリーキラー映画。犯人のマーティン・ブライアントはオルガよりももっとわかりやすくキッズでした。

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