パナヒは真面目映画『熊は、いない』感想文

《推定睡眠時間:60分》

すべてのイラン映画は眠いといっても過言ではないことはないが慣習的に欧米映画ほどBGMを使用せずひとつひとつのカットが長いがちなイラン映画はやはり欧米映画のテンポや音楽演出に慣れてしまうとどうしても眠くなる。ただこの映画を観た新宿武蔵野館では俺はすべての映画で寝ている気もしているので映画というよりも映画館が俺を寝かせているのかもしれない。スクリーンによって多少の違いはあるが新宿武蔵野館は天井が低く座席の勾配が緩やかなため身長のちびっこな俺にとっては実に微妙な角度でスクリーンを見上げることになるわけだが、この微妙な見上げが絶妙に脊髄などに作用して睡眠を呼び起こしているのではあるまいか。その話は映画と関係ないしそれに前にもしている気がするので深掘りしない。

といって映画について書けることも大半寝ているのでほとんどない。あえて言えばあんま面白くなかったという感じだが、別に娯楽映画じゃないしイラン社会を批判しつつそのイラン社会の中で映画を撮る自身もカメラの中で客観しして批判するというこれは誠に真面目な映画なので、面白い映画というのはそもそも目指してはいないのだろう。面白いとか面白くないとかではないのだ。この映画を通してイラン社会を観て欲しいのだ。そのような監督の声が画面から聞こえてくるかのようだが、面白くない映画だとどんなに真摯なメッセージがそこにあっても寝てしまってちゃんと観られないのでこれは難しいところである。

自宅軟禁中なんだか政府から映画制作を禁じられているのだか知らないが映画の中の監督ジャファル・パナヒは自宅からオンラインで指示を出してロケ撮影中の撮影班に指示を出している。おお、ついにリモート映画制作の時代! だがそれが上手くいけば苦労しないってなもんで途中で回線が切れてしまって撮影中断、暇になったパナヒは国境のすぐそばらしい僻地村をカメラ片手にぶらぶらするのだが、そこで自分が撮っている映画(男が女の人をおそらくヨーロッパへ亡命させようとする)となんだが似た境遇の男女と出会う。映画内外の二組の男女は交わらずとも共鳴して現実と虚構の壁はゆっくりと溶けていく。

なぜそこまで二組の男女が国外に脱出したいのかは寝ていたのでよくわからないが、現在のイランといえば女性の権利を巡って激しい抗議デモや弾圧が頻発している国として国際的に知られているので、なにかきっとそんなようなことだろう。この国にいては自由に生きられない的な。パナヒは国際派の進歩的リベラル映画人としてそんな人々を支持したいと思ってる。しかしである。そこがこの映画のキモの部分で、自由を求める者を支持すると口で言うのは簡単だし、それはとても良いことのように思えるのだが、そうやって当事者を煽ってたとえば当事者が警官と衝突して死ぬとかになったら、果たしてその煽りは自由を求める当事者のためになったのだろうか? という問題が持ち上がる。

この問題意識はアクティブなリベラルを少なからず立ち止まらせる。それは変革の勢いを削ぐということだ。だから変革を求めるリベラルの中にはそもそもそうした問題など存在しないかのように振る舞う人もいるのだが、それは端的にいって偽善というものだしだいたい無責任だろう。こういう映画を撮るぐらいなのだからパナヒはそんな無責任な自己陶酔型のリベラルではなく本気のリベラルであるということがわかる。本気のリベラルだから現実と虚構のあわいで「当事者を後ろから煽る者=カメラの後ろで映画を監督する者」として自身の姿をさらけ出してその罪を観客に見せつけずにはいられない。

このような構造を持つ映画が仮に反体制監督の勇気ある作品として欧米圏に受け入れられているのだとしたら(日本の配給の宣伝っぷりからするとどうもそんな気配なのだが)ちょっと皮肉ねとおもう。だって欧米は母国よりも自由だと思ってフランスとかドイツとかに渡った難民の人たちが渡航先で想像した通りの自由を得られるチャンスは決して多いとはいえないだろうから。抑圧された人々に何を示すことが人として正しい道なのか正直いってわからない。どんな生き方を後押しすればその人たちが幸せになれるのかわからない。だとしたら自分はどうすべきか? 面白い映画ではないと思うが、言外にそう訴えるパナヒは本当に真面目な人だなぁと感服する。

【ママー!これ買ってー!】


冒険倶楽部(BOHKEN CLUB) クマベル 消音 熊ちゃんベル AY

俺もここに何を貼ったらいいかわからないのでとりあえず熊よけ貼っときます。

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