《推定睡眠時間:0分》
異常長尺ドキュメンタリーで知られる中国の怪人ワン・ビンによる最新長尺ドキュメンタリーは第一部『青春 春』(初公開時は『青春』の邦題)がたぶん2時間30分、第二部『青春 苦』が4時間、そしてこの第三部『青春 帰』が2時間30分と相変わらずトータル9時間の長さだが、やはり9時間ぐらいある『鉄西区』と違って分割公開前提の三部作として作られているのでワン・ビンも丸くなった。よく映画も作ってるフランスのテレビ局ARTEの資本が入ってるらしいので「いやさすがに9時間の映画じゃ商売にならないっすよ! せめて分けてくださいよ!」みたいな至極真っ当な要求があってこういう形になったのかもしれない。
ということで『青春 帰』なのだが間の『青春 苦』を飛ばしているのは実はこれも観ているのだが4時間中3時間50分ぐらい寝ているのでどんな映画だったかまるで記憶になく覚えているのはかろうじて「なんか工場の音がうるさかった」ぐらい、さすがにそれでは感想もなにもないから。だがしかし、続く『青春 帰』はなんとゼロ睡眠。これには誰より俺が驚いた。ワン・ビンの映画を寝ずに観ることがあるんですか!? まぁ普通の人はいつもそうなのかもしれないが。
眠らずに済んだのは今回は春節帰省スペシャル版だったからであった。分割公開ゆえ『青春』三部作はどの部から観てもそれ単体で楽しめる作りになっており、いずれも描かれるのは縫製工場(といっても基本は団地の一室に作られた工員数人の小さなもの)での出稼ぎ若年労働者のお仕事っぷりと余暇の過ごし方と帰省先での姿、これは3作品に共通しているのだが第一部『青春 春』は仕事・余暇・田舎がバランス良く盛り込まれ、『青春 苦』はタイトルから察するに仕事パート特化(でも最後にはやっぱり田舎パートあり)、そしてこの『青春 帰』は仕事パートももちろん出てくるがクロースアップされているのは田舎パート。
田舎といっても広大な中国の田舎の田舎っぷりは窮屈な日本人の想像を超えるアドベンチャーワールドなわけで、雲南省の山々に作られた未舗装・ガードレールなし・片側は断崖絶壁・積雪で路面凍結とかいう『恐怖の報酬』みたいな死亡行路を当たり前のように出稼ぎ若者たちが車で通って故郷の秘境村に向かうあたり、もはやトム・クルーズも真っ青のリアル・アクション映画である。辿り着いた先の村は辛うじて電気は通っているが(主室のみ)水道などは井戸水のようだしガスもないのが薪で火を起こし、三国志時代に建てられたかのようにクラシカル・チャイナスタイルの家屋にはでかでかと毛沢東の肖像がかかっているので、なんだかすごい。なんだかすごいので映像的な面白さは三部作の中で一番だったと思う(ということで寝ずに済んだのだ)
『青春 春』を観た時には舞台となる工場街および出稼ぎ労働者たちの寮のお風呂のお湯も下の階まで取りに行かないと出ないような設備の貧相さにこんな貧しいところで働いて大変だなぁなんて思ったものだが『青春 帰』を観た今はあの貧相な工場街が大都会に見える。それはそれで楽しいこともあるだろうとはいえ雲南省なんかの辺境にある極貧村に暮らす若者なら家族を養うためとかに加えてもっと広い外の世界に出てみたいという思いもあるんだろうな、それでこんな貧民搾取産業が成り立っているのだなと深く納得。国土が広大な国はどこもそうだが地域ごとの貧富の格差がものすごく、中国も上海や北京などは超高度大都会だが、端っこの方は途上国の平均以下の貧乏生活を余儀なくされていたりするわけだ。
『青春』三部作が描き出しているのはそんな現代中国社会の歪みといえるが、といって告発性があるわけではなく、取材させてもらった都合そう書かないと怒られるためという理由が9割だろうが、各部の最後には「みなさんの見事な生活に感謝を」みたいなテロップさえ出たりする。かのマルクスはどこかの本に資本主義下の貨幣経済は人間同士の関係性を見えなくすると書いているそうだが、これはつまり貨幣が生産者と消費者と販売者それぞれを媒介することで、品物の流通という点では超便利になったのだが、品物を買う人はその品物を見ても100円なら100円と値段しか見えず生産者の顔が浮かばず、一方で生産者の方でも自分たちが作っているものをお金に換算して考えるので消費者の顔が浮かばない、こうして貨幣経済下では品物を通した人と人の関係性が値段に覆われて見えなくなってしまう、というような意味らしい。
それは不健全ではないのかという意識がおそらく『青春』三部作に限ったことではなくワン・ビン作品全体に共通する問題意識であり、そしてまたワン・ビンの映画がやたらと長い理由かもしれない。今あんたが着てる服を誰が作ったかあんた知っとりますか。知らんでしょう。ではこれからご覧に入れてさしあげましょう。ということで『青春』三部作は三部作合計で50人ぐらいの出稼ぎ労働者を被写体にするがその一人一人の名前と出身地をテロップで出しそのお仕事っぷりや帰省っぷりや悩みっぷりや楽しみっぷり、田舎での結婚式や墓参りなど各種イベントなどを丹念に捉えていくわけである。
一言で言うならそれは資本主義に対する超ミクロにして果敢な抵抗なのかもしれない。すべてがお金に還元されコスパタイパというようにすべてが金銭的利益の観点から把握されるこの現代において、トータル9時間ひたすら中国縫製産業の貧乏出稼ぎ労働者の顔顔顔手手手を見せ続ける『青春』は、この世の中には「人間」がいるというあまりにも当たり前であるがお金フィルターによって忘れられがちな事実を観客に理解させるのだ。実はこれは結構大変ですごいことなのではないかと思う。
かつて毛沢東時代の中国では鉄飯碗なるスローガンのようなものがありこれは人民みんなが平等に食べられる経済を示すものであったという。しかし市場経済の導入で中国の人民平等の理想が崩れると鉄飯碗に代わって青春飯碗という言葉が言われるようになり、これは一部の人は儲かるがそれ以外の人は儲からない不平等経済を指す言葉なのだとか。するとこの『青春』というタイトルは一種のダブルミーニングであったのかもしれない。部屋にテレビもないしラジオもないしていうかベッドしか置かれてないので暇な時間はずっとスマホを見てる縫製工場の貧乏中国人出稼ぎ労働者たちを見ていると俺はラブ清掃員をやってた頃の先輩中国人ウーマン×2を思い出す。あの人らも待機部屋にいる間ずっとスマホ見てたな。だからなんだか懐かしくもある、そんな『青春 帰』であった。