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このあいだ話題の『8番出口』の宣伝記事の見出しに「鬼才・川村元気監督が語る~」とか書いてあっていやいや川村元気クラスを鬼才呼びするとか鬼才の価値が安すぎるだろとスマホに向って独り言を言ってたんですがじゃあホンモノの鬼才は誰よってスマホの向こうに存在する俺にしか姿が見えず声も聞こえない何者かに聞かれたら今ならこの映画『リモノフ』の監督キリル・セレブレンニコフみたいなのが鬼才ですと答えるだろうなとおもった。
ソ連映画からの伝統を感じさせる超絶技巧長回しやカーニバル的な空間演出、過去と現在を自在に行き来する展開など挑発的にしてカルト的な作風がトレードマークのセレブレンニコフはプーチン・ロシアからの亡命監督。真偽の定かならぬ汚職疑惑によって当局に訴追され今はドイツを拠点に創作活動に勤しんでいるらしいということでこの『リモノフ』は冒頭でロシアのビートニクみたいな人リモノフがフランスのラジオでインタビューに応じ「人間は亡命するべきさ」みたいなことを言い、これはセレブレンニコフの心情吐露でもあるんでしょうな。セレブレンニコフ映画はいつも虚実ない交ぜでウソとホントの境が曖昧だが、この映画では映画の内の出来事と外の現実が混じり合っているわけで、やはりセレブレンニコフ、鬼才である。
ただ鬼才セレブレンニコフにしてはいくらか精細を欠いているように見えたというか、ちょっと過去作の縮小再生産ぽくてたとえば前作『チャイコフスキーの妻』とかロシア時代の『インフル病みのペトロフ家』ほどの衝撃はなかった気がする。これはリモノフという一筋縄ではいかないクセモノを題材にしていることを思えば妙な話なのだが、セレブレンニコフ映画的にはロシア・ニューウェーブのバンドKINOを描いた『LETO -レト-』に似た疾走感あふれるタッチで物書きとしての成功を求めて文字通り世界を東奔西走したリモノフの半生を活写した結果、個々のシーンは面白いけど全体的にはダイジェストのようになってしまって逆に印象が薄くなったのかもしれない。
映画を観てもリモノフがなんの人なのかよくわかんなかったので昨日調べたらリモノフというのはソ連末期に国を追われ諸国漫遊ののち新生ロシアに戻ってプーチン率いる統一ロシア党の打倒を旗印に国家ボリシェヴィキ党というテロも辞さないアナーキーな政党を立ち上げた人らしかった。これは映画の中でも説明不足ながら描かれていたことだが、映画で描かれなかった重要事項としてこの国家ボリシェヴィキ党の旗揚げ時にリモノフは当時気鋭の論客であったアレクサンドル・ドゥーギンとかなり強い協力関係にあった、というのがある。
ドゥーギンといえば数年前に暗殺未遂事件が報じられたのでもっぱらロシア国内でのみ勇名を馳せるマイナー政治思想家ながら名前を聞いたことがある人は結構いるんじゃないだろうか。現在のプーチン政権はウクライナを初めとして周辺国への介入にまったくためらいがなく、力ずくで親ロシア国を打ち立ててロシアの勢力圏を拡大しようとしているが、こうしたプーチン流帝国主義に思想的根拠を与えたとされるのが例のドゥーギンであった。
映画の中では政府高官みたいな人が国家ボリシェヴィキ党党首のリモノフに「表向きは敵対しているが、実は君たちの掲げる政策は政府とほとんど同じなんだ」と言い、エンドロール前のテロップでは2014年のロシアによるウクライナ領クリミア半島の占拠、およびその後のウクライナ東部ドンバス地方の親ロシア分離主義勢力支援をリモノフが支持したと出るが、それはプーチンもリモノフも共にドゥーギンの薫陶を受けた鏡のコチラ側とアチラ側の存在でしかないということなんである。まぁあれだな日本でも群小保守政党が自民党は手ぬるいあんなのは真の保守じゃないと批判することがよくありますが、ああいう感じでしょうたぶん。
フランス時代は案外流行作家として売れてたらしいとはいえリモノフが国際的に知られているのは作家とか詩人としてというよりも国家ボリシェヴィキ党の党首としてである。ということで凡人ならばその点をクロースアップして重点的に描くところかもしれないが、鬼才セレブレンニコフはそのへんをリモノフの人生の小さな断片としてわりあいサラッと流してしまう。それによってソ連時代~亡命時代には反体制を標榜しノーベル賞作家にして同じくソ連亡命人でもあるソルジェニーツィンを「あの野郎なんか所詮は愛国者じゃねぇか!」とこき下していたパンクなリモノフが、ロシア帰還~国家ボリシェヴィキ党旗揚げ以降は一転してウルトラ愛国者としてプーチンの鏡像になってしまうという皮肉や哀しさは浮き彫りになったけれども、物語としてはなんだか軽くなってしまったんじゃないだろうか。
切なくて良いけどね。ソ連では詩人として認められず、アメリカではヌードモデルの恋人のヒモとして暮らし小説は出版社に持ち込んでも相手にされない、フランスではついに流行作家になったけれどもそれがロシアの反体制派というイロモノ的関心によるものであったであろうことは、映画の冒頭に置かれたラジオでインタビュアーが何度も「じゃあ、ロモノフさん」と名前を間違えてしまうあたりから察せられる。ソ連がダメならと世界を巡っても結局リモノフは何者にもなれなかった。そうして新生ロシアへと戻ると政治の道へと入るのであったが、そこで見せつけられたのは自分が仇敵プーチンと思想面ではさして変わらないという事実、そしてさして変わらないプーチンの権力に敗れで獄中送りとなった自身の無力であった、という。
これはリモノフ個人の物語ではあるけれども、ソ連崩壊後のロシアでは今まで曲がりなりにも信じてきたマルクス主義というイデオロギーが失われ、その精神の空白地帯にオウム真理教なんかがすっと入ってきちゃって、最盛期には数千人の信者を抱えていたとかいう。何者にもなれなかったのはたぶんリモノフだけじゃないだろう。ソ連崩壊後、何者にもなれなかった、何者になればいいかわからなかったロシア民衆の不安が政敵の暗殺も厭わないプーチン独裁を生み出したのだとすれば、リモノフが表現するのはロシア民衆一般のこころなのかもしれない。
同じ反動的な亡命作家ということでセレブレンニコフもリモノフの人生前半には共感するところが多かったんじゃないだろうか。だからこそリモノフがプーチンの縮小版に過ぎなくなってしまう人生後半には落胆させられたのかもしれないし、そのためにこの時期のリモノフに大して関心が向けられなかったのかもしれない。リモノフという二流のトリックスターに対するセレブレンニコフの複雑な思いの方が、この映画そのものよりも興味深いものかもしれんね。
※リモノフが立ち上げた国家ボリシェヴィキ党はテロ活動をしてるので地下壕に秘密基地を作っているが、その見た目はなんか『ファイト・クラブ』みたい。人生のどこかで挫折したメンタルマッチョ(見た目はヒョロいことが多い)な中年の男の人ってどうしてそういうことしがちなんですかね。