《推定睡眠時間:5分》
歌舞伎座の前にいかにもなゴツイ高級車が停まるとその後部座席から5歳くらいの男児が降りてくる。これはおそらくこの映画の主人公である市川海老蔵、改め13代目市川團十郎の子供だろう。その後ろから降りてくるのは香港マフィアを思わせる黒スーツとティアドロップのサングラスで身を固めたやたらとガタイの良い坊主頭の男である。市川海老蔵という人物がいかほどの存在かは歌舞伎カルチャーにまったく縁が無いのでわからないが、これはおそらくハリウッドセレブがよく帯同してるボディガードだろう、歌舞伎界のスタアともなると身の安全のためにボディガードまで付けるのか……まぁ海老蔵なんか前に関東連合の人をガラスの灰皿で殴ったか殴られたかしてるからそれでこういう措置に取ってるのかな……なんにしても庶民の世界とはかけ離れたスゴイ世界だナァ、なんて思っていたらそのボディガードにしか見えない男が市川海老蔵本人であった。
いやおめぇギラつきすぎだろ。スマホカバーに「EBIZO」の文字入ってるし。DJじゃねぇか。DJ EBIZOだよそれは。もしくはラッパーEBIZOじゃん。何を普通とするかは大いに議論の余地のあるところだが普通は自分のスマホにそのスタイルでネームは入れないだろ。なんなん歌舞伎役者のギラつきっぷり。傾奇者イズムってこと? でも松本幸四郎とかはかなり品格を重んじているように見えるが……と、歌舞伎知識がまったくなく演目はもちろん上手い下手もまるでわからないものだからそんなアホみたいな感想がまず浮かんでしまったわけだが、説明ナレーションの多用っぷりを見るにこれはおそらく主として海外向けに市川團十郎ブランドと歌舞伎の魅力を発信するための俺言うところのナビゲーション映画なんだろう。ということで歌舞伎知識ゼロの俺でもへーそういうものなんかと楽しく観ることができた。逆に言えばプロ歌舞伎鑑賞者の人には物足りない映画かもしれない。監督は三池崇史というなかなか破天荒な人選だが、ここでの仕事っぷりは構成担当を別に立てているのもあり、海老蔵本人のギラつきに反して説明を懇切丁寧にしつつ見せ場の歌舞伎はしっかり、と優等生的である。助六を捉えるカメラなどはさすがに美しい。
ところでこの映画、海老蔵の團十郎襲名披露公演をクライマックスとするものだが、併せて描かれるのは海老蔵の息子氏の歌舞伎役者としての成長である。映画の中には幼き日の海老蔵が舞台に立つアーカイブ映像が出てくる。なんでもその役というのは先代が海老蔵のために新しく設えたものだそうで、従来「外郎売り」は大人の歌舞伎役者一人で演じていたところ、この時より親子並んで演じる演目となったらしい(それともこれは市川流のハウスルールなのだろうか?)。その若き日の海老蔵の子ども外郎売り、一生懸命覚えた台詞を舌足らずに復唱するのを観客がお遊戯会気分で見守るという実にほのぼのとしたもの。ところが海老蔵チルドレン市川新之助の子ども外郎売りはしっかりと芸であり、2行以上の台詞(※400字詰め原稿用紙)など到底覚えられる気がしない俺としてはこんなに難しい台詞がスラスラと、しかも役を演じながら言える推定5歳児とはいったいなんなのかと戦慄さえ覚えるほどである。
その信之助も舞台を降りれば単なるそこらへんの生意気なガキ。楽屋では大勢の大人達に歌舞伎界のプリンスだからとチヤホヤされながら減らず口をたたいてこのヤロ……となるが、クルーに「信之助はなんで舞台に立つの?」みたいなことを聞かれた時の返答は何気なくも印象的であった。「お客さんが喜んでくれるから」。俺にはその返答はなんだか可哀相なものに感じられてしまった。歌舞伎は伝統芸能かもしれないが、芸能には違いないわけで、結局のところどんなに地位のある役者でもお客さんに奉仕することがお仕事だし、お客さんからソッポを向かれれば仕事を続けることはできない。ある意味ではどんな労働もそういうところはあるので、それを大人がやるぶんにはなんとも思わないけれども、信之助はたかだか5歳かそこらである。5歳かそこらのガキがお客さんのために同世代の友達と遊ぶ時間を削って必死に稽古をして大舞台の重圧に耐えるとは、よく考えればずいぶん残酷なことではあるまいか。楽屋での信之助は保護者たちに囲まれてさんざっぱら甘やかされてまるで天皇の如し、欲しいものはたぶん大抵与えてもらえるが、しかしそこには友達はいないし、今日は気分が乗らないからと子どもらしい気まぐれで楽屋を抜け出すことも許されないのだ。俺にはあの楽屋がまるで監獄のように見えてしまった。
『国宝』はそれがテーマとなっていたが歌舞伎界は世襲制、全員がそうなのかは知らないが、少なくともスタア歌舞伎役者の息子に生まれれば自動的に歌舞伎の芸が仕込まれて将来的には襲名するシステムらしい。幼い頃から歌舞伎の芸を仕込まれて、それ以外の技芸や知識をさして持たない子どもは、いざ大人になって歌舞伎業界から足を洗おうとしても容易ではないだろう。その芸を見るために何百何千何万という人々が歌舞伎座に押し寄せるのだから、その威光やお金に与りたい周囲の人間はみな頭を下げるわけで、スタア歌舞伎役者というのはある種の権力者には違いない。しかしその権力は呪いでもあるのではないだろうか。ナレーションが言うには幼い頃の海老蔵はその境遇に反発して結構反抗したらしい。なるほど、歌舞伎役者のギラつきとはこうして形成されるのかもしれない。お客さん以外の誰もが自分に頭を下げるという絶対の自信と、歌舞伎の道以外に進むことが許されない抑圧の狭間で、その愉楽と痛みの中で。
三池崇史が職人に徹したナビゲーション映画たるこの『襲名』の中にも三池崇史の詩人的な眼差しが見られる場面がほんの少しだけあった。市川流の役者は節目節目で成田山に何日間か籠もって修行をするらしいのだが、その模様をお堂の外から隠し撮りのように捉えるショットである。カメラに背を向けて真言を唱える海老蔵。何を考えたのかぐっと仏壇(ていうの?)に顔を近づけて経文なのか仏像なのかなんなのかを凝視する。俺はそこに信之助の「お客さんが喜んでくれるから」と似た哀しみを感じてしまう。それはこちらが勝手にそう感じてるだけで海老蔵本人は今の生活をエンジョイしている可能性の方が高そうな気はするし、三池崇史という監督がクソにまみれたここではないどこかへ逃避しようとして運命や権力の力に敗れる不良たちを繰り返し描いてきた、という文脈に引きずられているような気もするのだが、それでも成田山で一人孤独、一心不乱に修行に励む海老蔵の後ろ姿から見えてくるのは、やはり歌舞伎役者の子として生まれ歌舞伎役者として人生を歩むことを余儀なくされた、その運命に対する怒りと悲嘆なのだ。
海老蔵改メ13代目市川團十郎の芸がどの程度のものなのか歌舞伎スーパー門外漢の俺にはぶっちゃけさっぱりわからない。しかし、その怒りと悲嘆(が、もしあるとすればだが)の先にある襲名披露公演での芸はわからないなりに見事なものに見えたし、その見事さは過酷な運命がもたらす痛みを昇華しないことには決して到達できなかったものなのかもしれない。思えばずいぶんと話題になった『国宝』は歌舞伎役者の血筋の外に生まれた男の下剋上の物語ということもあり、歌舞伎役者の血筋に生まれついてしまった者の痛みや哀しみには充分に肉薄できていなかった。だから良いとか悪いとかではないと思うのだが、『国宝』では描かれなかったその痛みを捉えた映画として、大いに面白く観た『襲名』なのであった。