隣の難民映画『東京クルド』感想文

《推定睡眠時間:0分》

十数年前に祖国での迫害を逃れて日本にやってきた二組のクルド人難民家族の息子たちはもうすぐ成人のいいお歳、進学どうしようかなぁとか仕事どうしようかなぁとかなのであるがこの人たちは難民認定が下りておらず本来は入管に収容されるところを仮放免で外で暮らせているという立場、仮放免なので就労は許可されないし学業に関しては学費さえ払えば別に問題ないはずなのだがここの専門学校入学したいんすけど仮放免でできますかねーとか学校の人に訊ねるといやーそういうのはできませんねーとか断られてしまったりするのであった。これは困ったどうしよう。

こういうのを見ると日本の難民政策というか政治行政というかあるいはその根っこにある国民意識そのものが先のことや身の回り以外のことをなーんも考えないで、いや考えないなら最悪まだマシと言えるが考える訓練をほとんどしていないのでしようとしてもできないんじゃないかと思ってしまう。地味にダメージを食らう場面は二人の難民二世(と言うのだろうか?)のうちかなりイケメンかつマイルドヤンキー風の「いやその見た目ならモデルとかタレント活動とかすればいいじゃん!」ってめっちゃ思う方の人が実際にタレント事務所みたいなところに行くのだがそこで担当者の日本人が「(テレビで)自分の国のことを紹介してもらいたいんだけどトルコの文化とか話せる?」と言う場面であった。

かなりイケメンかつマイルドヤンキー風の人の返答は「そうですね、はい、自分たちの民族のことなら」みたいなものでなるほどわかりましたと担当者はサラっと流してしまうのだが、この人たちはおそらく何の悪気もなくこういう問いを発していて、クルド人が「トルコ」について語ることと「自民族」について語ることの違いをそもそも理解さえしていないのである。まったく凡庸な悪そのものではないかと言いたくなるが、そのことについての知識や思考力はあっても体制に順応してそうしたものを捨ててしまう主体が凡庸な悪なら、そもそも知識や思考力を持たない人間は凡庸であっても悪とさえ呼べないわけで、端的に言って無知なのだが、無知から生まれる悪いものをいったいどのように無くすことができるだろうと思うとわりと途方に暮れてしまう。

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なぜならこの映画の中に出てくる日本人のカギ括弧付きのやさしさのようなものは全て同じ無知と無思考から生じているように考えられるからである。二ヶ月に一回とかの入管面談の録音音声は思わず笑ってしまうくらい入管職員の態度が酷いのだが(「帰っちゃいなよ~、他の国行ってよ他の国~」みたいな)、この職員は同時に禁止されている難民二世の人の日雇い就労を長いこと知りつつ黙認しているわけで、抜粋された酷部分だけ聞けばお前は本当に人間かと思ってしまうが、その文脈を想像すればどうも本人的にはある種の親しみの表現としてこういうことを言っているフシもあり、自分が難民の生殺与奪の権を部分的にでも握っていることにまったく無自覚なまま、むしろ難民に対して少しだけ良いことをしているとすら思っている可能性もまんざら否定できないのだ。

こうなると個人個人の意識がどうとかの問題ではないよな。もう全体的にそうなんじゃないですか。自分の身の回りの外の物事に対する思考停止は日本人の常態で、身の回りのことなら考えられるし知識も豊富だが、たとえばそれを規定する制度や知の体系については意識が回らないし、その極端な思考法が日本人のものづくり神話なんかを支えてきたのではないだろうか。日本人はお上がバカで現場は優秀とはよく言われるが、優秀な現場が優秀でいられるのはある種の目隠しと責任回避によってなのである。

とクルド人難民をネタに日本人(俺)が日本人批判を一席ぶつ、というのもグロテスクではあるが、ともあれそのことに自覚的なだけまだマシだろうと自己弁護しよう。個人がどうにもならないなら制度を変えるしかない。日本の現場が優秀だとすれば逆に制度さえ変えれば入管職員等々も現場でかなり良い仕事をするかもしれない(今だってしてるよ! と反論もありそうですが)ので、現場負担を減らすためにも難民政策の方向転換は必須に思える。ニュースでも大きく取り上げられた心身の不調を訴えたクルド人収容者(なんとこの映画の主役の親戚だった)の要請した救急車が入管で追い返され30時間後になってようやく病院に搬送された事件も、制度面の不備で入管の現場がどうしていいかわからなかったというのがガクっとくる真相なのではないだろうか(要出典)

っていうか別に人道的な話を抜きにしてもこの二人の難民ヤングマン、オザンとラマザンは就労の意志がかなり強くある人たちなので、根本的な制度改革などを行わずとも単に就労を認めればいいだけである。仮放免で収容施設の外に出られても就労が認められなければ自分で食い扶持が稼げないことは誰だって少しも考えなくてもわかる(バカなネット右翼が生活保護が~とか言いそうであるが仮放免中は生活保護を受けることができない)。そんなものは制度の欠陥であって、その名称からいっても仮放免措置が長期の運用を前提とした制度ではないことは明らかなのだがら、長期の運用を前提としない制度を無理矢理長期運用すればガタが来るのは当たり前である。

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逃亡のおそれが云々とか言うのならどうせ人手不足にあえぐ斜陽ジャパンなんだから技能実習生の受け入れ先みたいな感じで公認作業所というのを作ってそこでの就労は許可すりゃいいんである。技能実習制度に問題が山積しているように難民の立場を利用した労働搾取の問題は容易に予想できるにしても、だとしたらそれを防ぐ制度にすりゃいいだけだし、問題が出てきたら制度を改良すりゃいいだけなんである。制度、制度、とにかく制度。この映画に出てくる難民の人たちは徹底して作りのいい加減な制度の犠牲者であり、あるいは入管職員等々もまたそうなのだ。

と硬派な文章が続きましたので硬派な映画なんだろうなぁ~と印象を持たれる人もいるかもしれませんがどんな映画かというと在留クルド人がたくさん集まって来るクルド祭りにやってきたクルド人オッサンが「オープン!」のかけ声でフードに隠したピッカリ禿げ頭を開陳する鉄板ジョークがおもしろい映画でした。他にも在外投票に際して在日クルド人とトルコ人がそこそこの規模の衝突を起こす(これは報道が少なく全然知らんかった)場面を見て日本でもこういうことはあるんだな~とか、祖国よりもむしろ日本での暮らしの方が長くなっちゃったのでそこらのジャパニーズ若者と変わらん(日本語とクルド語とトルコ語のナチュラルなトリリンガルという点でそこらの若者よりハイスペックである)オザンとラマザンの若者生活を眺めながらめっちゃ普通に若者だな~とか、救急車追い返し事件の現場をカメラが記録していたりしてこんな感じだったのか~とか、面白いと言えば語弊がありそうな面白い場面いっぱい。なんか並べる順番間違えた気もしますが。

何かを声高に訴えるタイプのドキュメンタリーではなく当事者の日常を追いかける映画なので誰でも見やすいんじゃないの。自分の見知った世界と地続きでこういう世界もあるということを知るのはストレス過多の現代では逆説的な解毒にもなろうから、何かのためにとか誰かのためにとかではなくてなんとなくの興味本位とかで観に行ったらいいんじゃないかと思います。それにしてもマイルドヤンキー風のオザンが普通にヤンキー口調で言う「入管の奴はうぜぇけどね」には笑ってしまったしなんか安堵してしまったよな。あぁやっぱうぜぇんだみたいな。世間一般の難民イメージがどのようなものかは知らないが、まぁニュースとか支援活動で発言が取り上げられる時にはこういう率直な言葉はあまり出てこないように思うので、これは難民を遠い存在と感じる人の難民イメージが少しだけ親近感を抱ける方向に変わるかもしれない良い「うぜぇ」であった。

※あとラマザンが念願のアレを壁に飾ろうとするところは激キュン。

【ママー!これ買ってー!】


クルド人を知るための55章 (エリア・スタディーズ170)

知るためのと言いつつレビューを読むとあんま初心者向きはないらしい(しかし安定のエリア・スタディーズ・シリーズなので品質保証済み)

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