炎上コメディ『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(炎上歓迎)

《推定睡眠時間:0分》

冒頭のインタビューシーンでコテン派美術館のチーフキュレーターを務める主人公クレス・バングが「オープニング展示について美術館の公式サイトに場(Site)/非場(Non-Site)の関係がどうとか、展示(Exhibition)/非展示(Non-Exhibition)を決めるのは何かとか書いてありますが、その意図は?」とかアメリカ人インタビュアー(のちに彼と寝る)に聞かれる。
クレス・バングとしては寝耳に水で何言ってんだこの女ぐらいな感じであった。とりあえず適当に答えておこう。えーっと、例えばあなたのバッグを美術館の床に置いたらそれは展示品か否か? そういうことです。

展示する方も展示品をよくわかってない的な現代美術ジョークだなハハハ、と最初は思ったが。映画を見終わってから反芻してみるとド直球にこれから起こることを語っていたんだなこれって感じだ。
どこまでが自分の把握している場でどこからが自分のコントロール不能な非場なのかとか。どこまでが展示・表現の自由でどこからが自由の許されないところなのかとか。それを決めるのは誰なのかとか。

加えてこのような含意もあるな。美術館の広報に関してはクレス・バングは蚊帳の外に置かれているし、また積極的に関与する気もない。
そのことが後に大炎上事件を招くわけですが、じゃあその責任を誰が取るのかというと少なくともクレス・バングが責任を負うつもりはないわけだ。
もしあったらあんな雑解説しないだろう。ちゃんと担当者に確認とかするでしょ、普通。ところで前述のコテン派がコンテンポラリー派の略ってみなさん気付きました?

サイトとノンサイト。この美術館には等間隔で置かれた盛り土を展示してる部屋がある。見てもあまり面白くないので内覧展の際には客が一瞥しただけで部屋を後にしてしまうのが笑えるが、これは後に言及される現代美術家ロバート・スミッソン作品のパロディないし引用で、サイト/ノンサイトもロバート・スミッソンの用いた概念なのだった。
果たしてロバート・スミッソンとはいかなる存在か。実はぼくはまったく知らないのであるが一つだけわかるのは前に国立近代美術館でスミッソン作品(物質展示+映像展示)を見た時には何も意味がわからなかったしどうせ現代美術は意味がわからないのでそれは構わないが全然おもしろくなかったということだ。

スミッソン作品はよくわからないが、でもこの映画で盛り土部屋が意図するところは明確なんじゃないすかね。入ってきてしまうのだ、安全に閉ざされたはずの美術館の内部に危険と混沌でいっぱいの外部の痕跡が。
フレームの外から絶えず漏れ聞こえてくる意味を成さない人声やドアの開閉音、動的展示の機械の駆動音、チンパンジーの叫び。
なんというノイジーな映画。ノイズに耳を傾けよ、ってことでしょうこりゃ(爆音映画祭さん、これ次の上映作品にどうすか)

というわけでタイトルに持ってきといて結局最後までマトモに出ねぇのかよ的な目玉展示“ザ・スクエア”とはなんぞやと言えばノイズにその答えがあった。
「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる」あの狭い空間は文字通り「思いやりの聖域」で、それは外部のノイズとカオスから自分たちだけの静かで優しい世界を守るための、美術間の内部に存在する「すべての人が平等に公平に」扱われるための自己防衛手段に過ぎなかったのだ。

だがしかしだ、そう書きながら気付いてしまったが美術館の資金集めのためのアイディアが“ザ・スクエア”だと映画の最初の方で既に言っていたのだった。
そのまんまじゃねぇか! わざわざそんな面倒くさい迂回をするまでもなく逆張りの逆張りで巡り巡って見たまんまの意味しかないじゃないか…!
じゃあ映画以外にも遊びの選択肢とそれを可能にする金がたんまりある皆様と違って俺はちゃんと真面目に映画観て知的に考察しましたよ的なアピールの文章(恥)を必死になってここまで書いてきたのは一体なんだったんだ…めちゃくちゃ徒労じゃないか…。

でもそういう映画でしょこれ。いや、俺は開き直りますよ。そういう映画だったよねこれ。ね! 迂回しなくてもすぐそこに答えはあったんだと。それをそのまま直視すれば良かったんだと。
でもなんで直視できないってやっぱ先入観があるんだよ。だってこれ150分とかあるしね。150分ある映画でなんか偉い賞とか取ってたらそりゃあ、きっとすごい映画なんだって思いながら見てしまうんだよ。

ド直球で単純で裏になにも隠されてないアホみたいな映画だって思いたくない。これを見てる俺は趣味がよくて、頭がよくて、社会問題にも真摯に向き合う意識の高い善人だって思いたいんだよ。
それが全部嘘だって自分で自分にバレるのが怖いからなにやら高尚な映画だと思おうとするんだ。いや、俺はね。俺はやっぱりそうだったんだよ。

メンタルが痛いなぁ。それ映画で描かれた醜悪で滑稽なクレス・バングそのものだもんな。自分が人から後ろ指をさされる人間じゃないと思いたいから美術館の幻想に縋って、その幻想を守るためにノイズ/ノンサイトを必死にシャットアウトしてたら逆にそれに取り囲まれて追い込まれちゃったわけでしょ、あの人は。
これ書いてる俺もおんなじですよ。変に深読みしちゃって高尚かつカオスなアート映画に見えたけど、でもストレートに見たら高尚でもカオスでもなんでもないんだよ。

まったくふかいでおもしろいえいがですね。ほんとうにいやみでさいこうにおもしろいとおもうよ。

それにしても最高なのはこの映画が映画だってことだ。シンと静まりかえって目がスクリーンに釘付けの観客たちの馬鹿馬鹿しさったらない。
あの光景、場内後方に映写室とは別に窓を付けて外から観察できるようにしたら面白いインスタレーションになるだろう。公開アーティスト・トークの場を乱すうるさい客の場面を今の不寛容な観客ども(俺も含めて)がどう見るかって結構な見物じゃないですか。

この間のレアンドロ・エルリッヒ展でそんな感じの展示があったが、そういえばあの時にどこまでが触っていい領域がわからず、それはドアを使った展示だったがベルを押してみたりなんかしていたら係員に触るなと注意されてしまった。
非常識な、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが結構あるじゃないすか接触推奨みたいな現代美術系のインスタレーションとか。

でもわかんないからね。だって大抵小さくしか書いてないし、触っていいとかいけないとか。だからその境界がわかんなくて係の人とか他のお客さんと軽く衝突する局面というか、あえて衝突させるような仕掛けがあの展覧会にはそこかしこにあって、全体的にそういう、一見ユーモラスなんだけれども他者とか外界と自己の距離を無理矢理探らせるような緊張感を帯びた作品が並んでいて非常に面白かったんですが、まぁそれは全然映画と関係ないので置いておくとして…(これもノイズである)

モンキーマン。正体不明の、おそらパフォーマンス系のアーティストなんだと思いますが、金満家に飼い慣らされた文字通り猿真似アーティストかと思われたこいつが段々本気の凶暴チンパンジーと化していくレセプションの場面はめっちゃ怖かったし嫌悪感半端なかったよ、衆人環視の中で女犯そうとするんだから(そして誰も助けようとしない)
『ラスベガスをやっつけろ』のダイナー襲撃場面を何倍にも拡大した感じだ。あの程度の不快でもギリアム、インタビューで撮ったの後悔していたのに…。

でも一番響いたのもあの場面だったな。モンキーマンは本気で怒ってる。どんなに完成度の高いパフォーマンスを披露しても客どもには安全な展示としてしか見てもらえないから。どんなに狼藉を働いても客の誰も安全地帯から降りようとしないから。それがエスカレートすると今度は誰も、たとえ女を犯そうとしても関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをするようになったから。

まことに意地の悪い映画なのでモンキーマン騒動のその後はおろかモンキーマンの存在さえ糞くだらねぇネット炎上事件にかき消されてしまうわけですが、アート/非アートまたは抵抗運動/犯罪行為の論争を巻き起こしそうなモンキーマンの蛮行には“ザ・スクエア”に入ることを許されなかった移民やホームレスの声なき声が集約されているようで、なかなか胸を打つところがあったように思う。

それも結局はオリンピックに向けて行政排除の進むホームレスも牛久入管でハンストをするほど追い込まれた収容者も近隣にいるかもしれない被虐待児などなど無数の声なき声をガン無視して“ザ・スクエア”に入るが如く観に行った映画の感想でしかないのだから欺瞞に満ちた自己満足の空言も良いところだが、藤子・F・不二雄先生の『中年スーパーマン左江内氏』には町中のヘルプのパルスが聴こえ過ぎてノイズノイローゼのようになってしまった左江内氏に対するこのようなたいへん滋味深い台詞があったので、引用したところで誰も救われないが俺だけは気分よく感想を終わりたい。

百人寄れば百の正義がある。当たりまえのこっちゃがな。
スーパーマンの力や責任を過大に考えるから、気が重うなりまんのや。
ま、そない深刻にならんでも……ポチポチやればよろしやないか。
藤子・F・不二雄大全集『中年スーパーマン左江内氏』p.251

※少し後から加筆してます

【ママー!これ買ってー!】


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笑いの種類がよく似ているしどっちも猿が出てくるからほぼ姉妹編(違う)

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