ハッピードキュメンタリー『心に寄り添う。』を見る

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加藤幹郎の『映画館と観客の文化史』という本には今日の映画館の原型として知られるニッケルオデオンの隆盛以前、映画草創期1900年代の人気ジャンルであった「ご当地映画(ホームタウン・フィルム)」について次のように書かれている。

この「ジャンル」映画の広告は当時、「この映画にはあなたの街とあなた自身が写っています」といった類の言説でなされた。つまり観客は10日ほどまえに自分たちの街を訪れた撮影隊が、ほかならぬ自分たちを写したことをよく知っており、今日、地元の「映画館」にやってきたのは、もっぱらスクリーンのうえの自分たちの顔を見るためであり、それゆえ上映空間は、あそこに誰それが写っている、やれここに自分が写っているといった歓声で満たされることになる。
そこには自分たちの街に自分たち自身が往来する姿がいきいきと再現されており、画面を指さしながら、口々に歓声をあげる観客が場内を埋めることになる。
この時期のスクリーンはしばしば観客のための鏡となり、観客はそこに自分の客観的な「似姿」を認めることに熱中したのである。
『映画館と観客の文化史』中公新書-p.79

いかに映画を取り巻く技術が発達しようと映画がこの素朴なジャンルと手を切るのは難しいらしく、今日の日本でも製作され続けている「ご当地映画」は殺人評論家の柳下毅一朗などの研究対象となっているが、なんでその話を最初にするかって幸福の科学が製作する映画は本質的に「ご当地映画」だろうと思ったからだ。

それは映画の内容というよりは、映画を鑑賞するメイン層である幸福の科学信者と思しき観客(一人客は少なく、二人以上のグループが多い)の反応が、ということで、幸福ムービーではその製作規模に反してやたら長いエンドロールが通例となっているが、なぜ長くなるかと言えば企業や個人を問わず大量の協賛・スペシャルサンクスが含まれているからだった。

つまりご当地映画的に「幸福の科学に携わるみんなで作り上げました」とご当地信者に向けてアピールしているわけである。
実際、このエンドロールのスペシャルサンクスを加藤幹郎が書くが如く指さして喜んでいるお客というのも俺は何度か目にしたことがある。
2016年の幸福ムービー『天使にアイム・ファイン』公開の際には各地域支部ごとの映画応援動画が大量にアップされたりしたものだ。

加藤幹郎の指す「ご当地映画」と柳下毅一朗的な「ご当地映画」の興行面での違いは前者はそのままご当地の人に向けての興行で、後者はどちらかと言えばご当地の外部に向けたPRとしての側面が強い興行になっている点だろうと思われるが、往々にしてご当地の人間がご当地外部にPRしたい郷土の美点は、ご当地の人間が見たい郷土の姿にほかならない。

結局のところ時代を隔てた二つのご当地映画に大した違いなんてないんだろう。現代ご当地映画のPRが最も刺さるのは他ならぬご当地の人間だとすればこれは宣伝を装った同語反復でしかないわけで、まさしく幸福ムービーを映し出すスクリーンは「観客のための鏡となり、観客はそこに自分の客観的な「似姿」を認めることに熱中したのである」。

幸福ムービーのエンドロールがやたら長いのはもうひとつ理由があり、俺を含む幸福ムービー常連の方々なら言わずもがなかもしれないが、大川総裁自ら作詞・作曲を手がけた主題歌をフルで流すためである。
上映後には場内アナウンスで主題歌入りのCDの売店販促が入るという今では珍しい興行戦術であった。でも熱心な信者の人なら映画見に行く前にもう買ってるだろう(ちなみにダウンロード版などもある)。

さて映画の内容。いやその前に(その前が長すぎないだろうか…)今年1月、大坂芸大学内展での上映が予定されていた幸福の科学をテーマにした映像学科生徒氏の卒業制作ドキュメンタリー『ゆきゆきて、地球神軍』が、幸福の科学側被撮影者への(撮影意図の?)説明の虚偽および肖像権侵害を理由とした幸福の科学の抗議によって公開中止の運びとなったことを今一度確認しておきたい。

撮影に際して説明の虚偽や肖像権侵害が実際にあったのかどうかについては現時点で確認しようもないのでここではノータッチ。
そんなことよりも興味深いのは『ゆきゆきて、地球神軍』の監督コメントと呼応するかのような『心に寄り添う。』のイントロダクションでしょう。

取材先は、障害児支援を行う一般社団法人「ユー・アー・エンゼル」、不登校児支援を行う「ネバー・マインド」、一般財団法人「いじめから子供を守ろうネットワーク」、そして、「自殺を減らそうキャンペーン」。
活動の実態とは。人をどのように救っているのか。自分たちにできることは何か。支援対象者やその家族にマイクを向け、体当たり(たいあたり)でインタビューを敢行する。手探りで取材を重ねていくうちに、若者たちに突きつけられたのは、ある事実だった。
「私たちは、何もわかってなかった」
『心に寄り添う。』公式サイト(魚拓:http://archive.is/5uCaC

ちなみに「私たちは、何もわかってなかった」だけ太字なのは公式サイトの文字装飾を多少なりとも再現しようとした結果なので俺が勝手に強調したわけではない。
どうでしょうか。こう並べてみるとなんだかこう…あくまで俺の個人的な憶測に過ぎないのですがこれカウンターなんじゃないですかね。
外部の変なやつに撮られるぐらいなら自分たちで自分たちの活動撮っちまおうじゃねぇかみたいな。

一応のドキュメンタリーを標榜する『心に寄り添う。』の取材対象は先の引用の通り。幸福の科学そのものではなく幸福の科学を母体とする各種慈善団体を撮っているわけで、実物が見れない以上はこれも確認しようもないが、監督コメントや宣伝文句から想像するに『ゆきゆきて、地球神軍』が被写体としなかったところではないかと思われる。

曲がりなりにも一般的な娯楽映画の形式をなぞっていた『UFO学園の秘密』(これはおもしろい)や『天使にアイム・ファイン』(これはひどい出来)、教団理事およびニュースター・プロダクション(幸福の科学の芸能部門の一つ)代表取締役からの退任を表明している大川宏洋の趣味が相当入ったと思われる伝奇アクション『君のまなざし』(これは幸福ムービーの傑作)といったさいきんの幸福の科学ムービーからすれば妙に地味で金のかかってない身内賛美が露骨な…つまりご当地感が強すぎて面白くない『心に寄り添う。』だったので映画での布教は断念したのかと思ったが、たぶん『ゆきゆきて、地球神軍』騒動でのイメージダウンを受けて突貫工事で作られたんじゃないですかねこれ。

その証左となるかどうかはわからないが、今週末12日にはバリバリのエンタメ路線幸福ムービー『さらば青春、されど青春』が早くも(早すぎるだろ)公開されるわけで、こちらは大川宏洋と千眼美子の二大幸福スター共演の布教と信仰心の高揚が全開の幸福の科学的一大イベントなのだった。

さてようやく、ようやく、ここまできてようやく『心に寄り添う。』の感想に入っていける。
大事なのはテクストよりもコンテクストだ。単なる娯楽映画ならテクストだけ見ればいいかもしれないが、それがファクトとかドキュメントと呼ばれるものに関わるならばコンテクストは無視できんでしょう。

『心に寄り添う。』がどういう映画かと言うと幸福の科学の色んな慈善活動を知ろう的なドキュメンタリーを撮影しているHSU(幸福の科学の私塾兼精舎)所属の若者たち「を」撮影した映画である。
そうなのである。ドキュメンタリーを撮る人たちを撮ったメタドキュメンタリーなのだこれは。

これはもう『ゆきゆきて、地球神軍』カウンター説が確信に近くなる。少なくとも幸福の科学の人々には傍若無人と映ったかもしれない『地球神軍』の学生スタッフと違ってこちらの学生クルーは被写体にめちゃくちゃ親身、俺たちは興味本位でやってんじゃねぇんだよ本気で人々を救いたいからこの映画やってんだよ! みたいな感じで一人一人のインタビューに二時間とかかけるのであった(テロップに「え、二時間も!?」と出る)。

親身なインタビューが引き出すのは幸福の科学に救われた(かどうかは映画を見ているだけではわからないが)不登校児やイジメ被害者、重い障害を持つ女性やその親たちの赤裸々な言葉の数々であった。
自分はもう諦めていた、でも生きているだけで良いと思えるようになった、とかそういう類の涙を誘うものもあれば、等身大のキッズの取るに足らないようなユーモラスな体験談もある。

その中には高校生くらいの少年の「みんなあまり未来のことを考えてない。世の中を根底から変えないといけない。明治維新。吉田松陰先生のように」との不穏な発言もある。
幸福傘下フリースクールの代表と思しき人物に取材をする下りでは自分が赴任する前のここは他のフリースクールみたいに遊んでばかりで…とへりくだっているようでさりげなく他のフリースクールを批判したりもしている。

あえてというか、俺はここに映し出される映像や語られるエピソードの真偽については判断をしようとは思わない。
台本がどうとかそんなレベルの低い話にしたくはないし、具体的な根拠を示さぬまま印象だけで真偽の判断を下したり一方的に否定するなんて愚の骨頂。
『ゆきゆきて、地球神軍』の是非だって実物を見なければ判断しようがないというものです。

けれどもドキュメンタリーは嘘をつくと言う。人が撮っていて人が編集している以上は偏向しないドキュメンタリーなんてあり得ないでしょ、普通に考えて。
俺に言わせればこれはアウトですよ。それは思想や信仰の問題なんかじゃなくて、執拗にフレームインするインタビュアーたる若者を撮影するカメラの存在が、さもドキュメンタリーの虚構性を暴く神の目を提供しているかのような錯覚を鑑賞者に与えるモキュメンタリー的な演出法や、あるいはインタビューを通して表れる教団の教えを随所に配した総覧的な編集、取材対象であるはずの支援団体の具体的な活動は描かれず情緒的な語りやイメージに終始する映画的不誠実が。

なぜならそれは典型的なプロパガンダ映画のやりかたであるから。たとえばマイケル・ムーアの映画のように初めから結論があって、そのためにドキュメンタリーと称される映像を利用してしまっているから。
そしてそのプロパガンダ的手法を、ドキュメンタリーを撮る若者を撮る映画というメタドキュメンタリーの構造で糊塗しているように見えるから。

個人的に救いというのは個々人の感情の問題でしかない思っているので、ここに出てくる人々が幸福の科学の活動で救われたと感じているのならそれを否定することはできないし、そんな権利が第三者にあるようにも思えない。
劇中で描かれるイジメとか不登校とか自殺、重度知的障害や身体障害を持った人の健常者との生活格差、そのケアや育児の問題は現代社会の大きな課題であろうから、俺としては劇中の慈善団体のやりかたは支持できないけれども、だとしたらそのことに責任があるのは教団の外の社会の方であって、そこにしか逃げ込めないというような閉塞状況や行政支援の周知不足、対象者の捕捉不足、社会全体としての積極的な関与の不足こそが本当の問題だろう。

その意味では見る価値は大いあると思いましたよ俺は。何をもって普通とかノーマルと言うのかとの議論はまぁあるとしても、ノーマルから外れた異端や周縁の立場から社会を眺めた方がその抱える問題がクリアになるということはあるでしょ。
だから残念でしたよ。もう非常に残念だね。こんな狡猾な作りの映画にしやがって。

目的で手段を正当化するドキュメンタリー映画なんていうものは俺定義の映画倫理違反のうちで最高のものですよ、本当に。
罰として監督の君たちは信者と教団の力を借りずに一人で自主映画を撮るところからやりなおしたまえ。俺だって教団の金で映画撮れるなら撮りたいっつーの!(でも自由に撮れなそうなのでやっぱいいです)

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