人間やめよう映画『ゲティ家の身代金』感想

《推定睡眠時間:20分》

『ハイスクール!奇面組』の新沢基栄がポスト奇面組として放った小学生ギャグ漫画『ボクはしたたか君』にこういう回があったんですよ、金に困ってクソガキ小学生したたか君を誘拐した男が身代金を要求すべくしたたか家に電話するんですけど全然相手にされないっていう。
あれ面白かったな。何度も電話してるうちに悪戯電話と勘違いされちゃって最後に親父が電話を受けるんですけど完全に悪戯だと思ってるからガキ殺すぞこの野郎! とか凄んでも全然意に介さない。そうですかちょうどあのガキ捨てようと思ってたんですよありがとう、みたいな。
それで犯人はしたたか君に同情してなけなしの金で好きなもん食わせてやりながら現代社会のモラルハザードを嘆いて…いたら警官に目を付けられてお縄とかそういう話なんですけど。

まずそれが思い浮かんだぐらいだからブラックユーモアの映画だよなぁ『ゲティ家の身代金』。ブラックユーモアっていうかナチュラルな人でなし感に笑っちゃうんですよ。
そこらへんリドリー・スコットの映画って感じだ。前の『エイリアン:コヴェナント』もやっぱ面白かったもんなコントみたいな人死にの数々が。ツルっとバナナの皮みたいに転んでメインキャスト惨死とか最高に酷くてよかったよ。

見てくれはシリアスでゴージャスでサスペンスフルかつアクチュアルな実録社会派ムービーであるがその内実はせいぜいのところどんな面白状況と面白背景にキャラクターを置くかというぐらいなものであろうし、そのリドスコの露骨な人間愛のなさがクリストファー・プラマー演じる人でなし大富豪ゲティの人間不信(美術大好き)と重なるからおもしろい映画だ。
ケヴィン・スペイシーのスキャンダルを受けてのキャスティングチェンジ&電撃再撮が偉い偉いと褒められているそうですが褒めるとしてもそれはちょっと褒めポイントがズレていないかと思ってしまうのは別に、俳優なんて誰でもよかったんだろうと感じさせる程にリドスコのアンチ・ヒューマニズムまたはポスト・ヒューマニズムが濃厚なんだこれは。

もう興味ないんだってリドスコ。近代的な人間主体の物語映画なんてやりたくないんだって。そもそも今までずっとそうだったかもしれないが、ケヴィン・スペイシーの解任(『ブレードランナー』に倣って)という大事件も平然と受け流すドライの極みな職人ならぬ仙人仕事がそのへんの志向を鮮明に焼き付けてしまったという意味で『ゲティ家の身代金』はリドスコのひとつの到達点なんじゃないすかね(つまり、その点で電撃再撮が偉業なのだ)

だから基本的に映画も乾いて乾いて展開は面白いのに興が乗ってこないっていうか誘拐サスペンスとしたら殆ど成立してないよなみたいな、抑制という意味ではなくて人間を突き放して描いてるから誰が死のうが生きようがどうでもよくなっちゃうんですよ。
もう出てくる全員がモブ。戦争映画の背景でゴチャゴチャしてるモブ。モブが死んだってみんな気にしないしなんなら気付かないでしょ。そこで誘拐事件が起きててもふぅんてなるよ。
マーク・ウォルバーグでさえモブだから。こんなに頼れなくて役に立たなくてつまらないマーク・ウォルバーグは久しぶりだ。

いや、良い意味で言ってるから。それが良いって話で…人間がモブ化してどうでもよくなると一枚画としてのシーンの面白さとか物語の構図の方が際立ってくるじゃないすか。
ゲティ邸の空虚な荘重と誘拐犯のアジトの汚物に塗れた熱気、の対比。こういうのを格差云々の表現と見るとそれ薄っぺらくない? って感じですけどヒューマニズムの枠内で見ようとするから薄っぺらくなるのであって、リドスコ流ポスト・ヒューマニズムの観点からすれば画のリズムや色彩の追求だろうし、表面的には俗世べったりで血なまぐさい誘拐譚も異境に足を踏み入れた王の血筋がそれと知らず現地ルールに反してしまい罰として過酷な試練に晒される(が、知恵と勇気で出し抜く)『オデュッセイア』的神話構造が露わになってくるのだ。

誘拐監禁した孫ゲティに覆面の下の素顔を見られる事を何より恐れているくせに自分から覆面脱いじゃって慌てる誘拐犯とかコテコテのギャグすぎるが、極めて『オデュッセイア』的である。なんかオデュVS一つ目巨人の項とかああいうやつである。
と思えば先史時代の霊廟みたいな大邸宅に閉じこもって事件の動静にゼロ感心な大ゲティの、ただひたすらに市況に目を通し続ける姿はアンドロイドじみているから(『オデュッセイア』を下敷きとする)『エイリアン』または『ブレードランナー』感だ。

冒頭のモノローグ、「ぼくたちは別の星から来たようなもの」が効いてるよ。大ゲティのスーパー守銭奴スタンスはむかしむかしの王のように不死を求めた結果だったが、結局はまだ人間だからその願いが叶うことはないわけで、リドスコのポスト・ヒューマニズムはそこに人間の憐れよりも人間の卑小を見いだすのだ。
早く人間やめてアンドロイドなりレプリカントなりエイリアンなりになっちゃえばいいのに。冷たいでしょうか。そうでしょうか。こんな非人道的な出来事を際限なく生み出すのですから人間であることの方がよほど非人間的なのではないですか…いやこれはリドスコの背後霊が語っていることを俺が霊言自動筆記してるだけでリドスコの公式見解でも俺の意見でもないですから。

映画の内容を地で行く延長線上ブラックジョークとして主演ミシェル・ウィリアムズのギャラが(映画の中では)全然役に立たないマーク・ウォルバーグより遙かに少なかった点も話題になりましたがそのミシェル・ウィリアムズは人間が状況と画を作るためのコマでしかないような生気を欠いたこの映画で唯一ヒューマンとして動き回るのであった(本当はあともう一人いるがネタバレになるので言わない)。
かっこいいミシェル・ウィリアムズ。リドスコの戦う女性への肩入れはだいたいいつもそうだと思うが人間として極限まで戦い抜くことでの逆説的な人間の超克が託されているのであって、その一方でポストヒューマンにフィギュア的な憧憬を抱く男の方はといえば超克が叶わず彫刻にでもなるしかないのだ。憐れ人間。憐れ男ども。

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奇面組的な変態概念というのもある種人間の超克、人間からの変態だろう。新沢基栄=リドリー・スコット説が爆誕してしまったな。

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4 Comments
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さるこ
さるこ
2018年6月5日 5:17 PM

こんにちは。
イタリアンマフィア、村ぐるみで怖い怖い。誘拐犯の車は可愛いのに…
なんだか次元の違う一族を見たような気がします。ゲティは何が欲しかったのかな。金と孫を諦めた瞬間何がよぎったのかな。
ゲティの屋敷は、監督の所有物かと思いました。城に住んでる(た)とか話があったような…

さるこ
さるこ
2018年6月6日 12:19 PM