家族って本当にいいもんですね映画『STAND BY ME ドラえもん2』感想文(悪口注意)

《推定睡眠時間:0分》

こんなものは映画ドラえもん原理主義者の俺が観たら絶対に許せなくなるっていうことぐらい俺は自分でわかってるんですよ。わかってるから前作も観てないですしね。でもこれはたとえ話ですけどめちゃくちゃ好きな会社の同僚が実は隠し副業でスカトロAV出てるらしいって知ったらショックを受ける可能性があるとしても罪悪感を感じる可能性があるとしてもやっぱ観たくなりませんかっていう話ですよ。なんでそのたとえにしたの! なんでそんな悪意丸出しな!

そりゃ俺がそのスカトロ観て大いに落胆したし悔しくもなったからだよ。それでも本人が好きでやってるなら受け入れられるがこの場合は本人の意志でやってないからな。俺にしてみればめちゃくちゃ好きな会社の同僚が実はDV男と同棲しててその同僚はDV男に身体も精神も支配されてしまっているから金を稼ぐために無理矢理AVに送られてスカトロAV出てるのを観てしまったっていうのが『STAND BY ME ドラえもん2』ですよ。

ダメだそんな男に依存してちゃあ! このままじゃあ君は自分というものを忘れておかしくなってしまう! 俺が好きだった君自身が金のことしか頭にないDV男のせいでいつか消えて無くなってしまう! 逃げるんだ! もし君にその意志があるなら俺は力になるから! 好きになんかなってくれなくれてもいいんだ! 俺は俺が君を好きでいられるだけで充分幸せなんだ! だからこれからもずっと君のことが好きでいられるよう俺に君を助けさせてください! 俺が…俺が…俺がぁぁぁぁぁぁぁしかし敵は巨大な藤子プロと小学館そして東宝ならうわそれはもう無理ですわあああああああ巨悪ッ!!!!! 山崎貴じゃなくて石井隆の世界だねこれは。

あの一応先に書いておきますけれども退屈とかそういうことはないですよ。展開はスピーディーでヒネりも多く原作3エピソードを繋げたわりあい複雑な構図がそれなりによくまとまっているのは巧い、最近の映ドラとしては毎度のことではありますがドラえもん小ネタもいっぱい、ひみつ道具もいっぱい、ドラ泣きというぐらいだから私は一切泣けませんでしたが泣きシーンもいっぱい。この世界観というかドラえもん観さえ受け入れられれば佳作とまでは言わないものなかなか楽しめるのではないでしょーか。

だからですねこれはもう宗派の問題です。ここ、カトリックとエホバの証人ぐらい距離あります。この文脈で言うと俺がエホバの証人側に立っていることになるので比喩とはいえ自分で書いておいて大変困ったがでもぶっちゃけドラ泣き勢から見た俺なんかエホバの証人みたいなものでしょうからそんな間違ってない。こういうのがね、もはや主流なんです。泣きドラじゃない方が異端のカルトなんです。世の中は変わったよ。ユダヤ教世界がキリスト教世界に取って代わられたぐらい変わってしまったのだ…。

宗教の問題なのだからイスラム教徒とユダヤ教徒が教義と聖地に関しては絶対にお互い譲れないのと同じでそれはもうぶっちゃけ言えば全部嫌ですよ『STAND BY ME ドラえもん2』。枝葉末節の悪口を垂れ流すのも不毛だから(どうせ後で垂れ流すが)具体的に何が映画鑑賞という名の宗教論争の最大の争点になったか明示しておこう。F先生の描く『ドラえもん』は日常に対する疑義が根幹、『STAND BY ME ドラえもん2』は日常への回帰と信頼が根幹。もう、これに尽きるね。

『ドラえもん』に限ったことではないんです。『モジャ公』は宇宙人に会った少年が退屈な家から飛び出して奇想天外なSF宇宙旅行に出る話だし、『21エモン』のホテルの跡継ぎ主人公も宇宙旅行に出るために嫌々家業の手伝いしてる、『パーマン』は平凡な少年がスーパーパワーを手に入れて日常の合間合間で冒険する話なわけじゃないですか。F先生の生活ギャグ漫画というのは決して生活が楽しいねっていうものではないんです、なんていうのはF先生のマンガとアニメに育てられた山崎貴以外の全ての人類が肌で知っているはずなのでいちいち書く必要もないかと思うんですが、ないんです。生活楽しくない。この生活でいいのっていう疑念がある。

これはF先生の手になる大長編ドラえもんを原作とする映画ドラえもんをどれでもいいから一本観れば完璧に一発でわかりますよね。日常は退屈で、日常は窮屈で、日常は悲惨で、日常には嫌なことしかない。だからひみつ道具を使ってほんのひとときでも日常の外に出てみたい。鏡の世界を舞台に映画ドラえもん屈指の大規模戦闘が描かれる『のび太と鉄人兵団』に付された作者後書きではF先生はそうした『ドラえもん』の限界を率直に吐露している。

すなわち、色々あっても結局のび太たちは家に帰って元の日常生活に戻らないといけない。だけど一度ぐらいは街をぶっ壊すくらいの大スケールのバトルものを描いてみたい…ということで考案されたのが見た目は現実世界の鏡映しでも人間のいない鏡の世界で、そこなら街どころか世界をぶっ壊す大規模戦闘だってできる。作家の表現欲求と連載の都合の折衷案として生み出された結構苦肉の策だったわけですねこの設定は。

だからアンチ日常生活っていうのは本当に『ドラえもん』っていう作品の核なんです。そこから様々なひみつ道具のアイディアも生まれるし、のび太はひみつ道具を使って日常を転覆してやろうとする。これが俺が考える最も単純で根本的な『ドラえもん』の定義です。もうここまで言ったらさ、後は細かいこと言わなくてもなんで俺がそんなに『STAND BY ME ドラえもん2』を目の敵にするかってわかるでしょ。『STAND BY ME ドラえもん2』はそうじゃないからですよ。

そうじゃないどころか正反対で、三つのエピソードを通して家族の大切さであるとか、日常生活の楽しさであるとか、日常生活を維持するために人が果たすべき社会的義務(この場合は結婚式)っていうのが描かれるわけです。泣くとか泣かないとか以前に、それはもう俺に言わせれば『ドラえもん』じゃないです。

たくさんひみつ道具出てきます。でも全然盛り上がる感じありません。なぜか。その答えは単純でこの物語はのび太とドラえもんが見知った風景の外に一歩も出ないので、ひみつ道具も日常の外に出るものであるとか日常をひっくり返すために使われるんじゃなくて、すべて見知った相手に対して見知った風景の中で見知った風景を「修復」するために使われるからです。そんなひみつ道具の使い方は『ドラえもん』ではない。

もう少し丁寧に論を進めると、映画に取り込まれた三つのエピソードというのは(まぁネタバレにならんよう一応エピソード名は伏せますが)いずれも単独では日常生活の外部を志向するものなわけです。つまり、のび太の「こんな日常は嫌だ!」という日常への疑義・反抗から始まって、タイムマシンやなんかを使って一回日常生活の外に出る、でそこで新たな認識を獲得してまた日常に戻ってくるという構図で、戻ってきた日常は以前とは少し違った風に見える。こういう物語。

ところがこれらのエピソード群をひとまとまりの物語として接続してしまうとどうなるかというと、この日常の外部の志向というのがなくなってしまうわけです。エピソードとエピソードに緊密な繋がりを持たせようとすればエピソード1の外部がエピソード2になって、エピソード2の外部がエピソード3になって、エピソード3の外部がエピソード1になってという風にしてそれぞれがそれぞれの外部として機能するわけですが、そうすることで個々のエピソードが本来持っている「日常→外部→変化した日常」という独立した構造は保てなくなる。

そのことが具体的に表われているのは大人のび太と子供のび太のダブル主人公体制で、これは大人のび太の外部が子供のび太で逆もまた然りという関係になるわけです。参照項が純粋な外部ではなく疑似的な外部としての自分になってしまっているので、どちらののび太も日常の外部に出ることができない。「日常→外部→変化した日常」は不可能になって、その代わりを盤石の日常性というものが務めることになる。三つのエピソードはこの盤石の日常性で繋がって、同時に巨大な日常の中の些細な出来事として矮小化されてしまうわけです。そしてそこには外部はもはや存在しないわけです。

以上で俺のドラ泣き反駁理論編は済んだので待望の口が悪いだけで全然面白くない悪口編に移ろう。ババァ気持ち悪ぃんだよ。キャラが気持ち悪いんじゃないんだよフィギュア風の3DCGで皺とか出されると普通に気持ち悪いの。あと大人しずかちゃんな。テメェなに勝手に俺のしずかを人妻エロス漂うフェミニンな大人の女にしてくれてんだよ。性を感じさせるんじゃないよドラえもんの映画で。そりゃF先生だって性をテーマにしたSF短編とかいくつも描いてますからキャラの性化自体に反対ということではないけれども、性化するなら造形をもう少し考えろという話なんだよこれもババァと同じで! 生々しいんだよなんか! 全然F先生の描く大人の女ではないだろあれは!

あとね、シナリオね、もうこのへんは喝を入れる時の張本勲の口調で脳内再生してもらいたいけども、過去と未来をやたらと行き来する展開に必然性がなさ過ぎるんですよ。F先生の映画ドラえもんは決してそうではなかったじゃないですか。そのシークエンスで何を見せたいかとか、そのシークエンスがどんなジャンルとしてどんな感情を観客に与えたいかとか、そうした目的の明確ないくつかのシークエンスから成る明瞭なプロットがまずあって、そのために必要なシーンだけで構成されていたじゃないですか。だから全体としてはわりあい複雑な物語であってもすんなり理解できるし、間延びしたりしないでずっと面白く観ていられるんですよ。なんですか『STAND BY ME ドラえもん2』のこの無意味な伏線遊びは。喝だ喝!

ひみつ道具の使い方もまったく想像力を欠いて面白味がない。これじゃあ道具の持ち腐れだが、後付け設定で実はこんな機能ありましたとか普通にぶっ込んでくるのだから舐めるのもいい加減にしろよと思う。これは、まぁ、F先生も結構やるが…でも違いはそこに意外性とその道具に固有の理屈があるかっていうことですよ。『STAND BY ME ドラえもん2』はそれ本当ないからね。作ってる人が道具に興味ないんじゃないすか。

興味がないっていうかひみつ道具を使ったらそれでもう満足しちゃうんでしょうね。どう道具を使うかはどうでもよくて、道具を使うっていうシチュエーションが脚本と共同監督の山崎貴は好きなんです。まぁ確かにこの人はそんな映画ばかり撮っている。『ジュブナイル』のエンドロールにF先生への献辞が入っていたのは『ドラえもん』ほか様々なF作品が色んなガジェットの出てくる作品だったからでしょう。『ジュブナイル』はSFガジェットがたくさん出てくるがその使い方は非常に原始的で子供騙しのつまらない映画だった。

小ネタの数々も鬱陶しいばかりで嬉しくないばかりかアハ体験感ゼロ。星野スミレのコンサートとかクリスチーネ剛田のサインとかそんなの誰が喜ぶんですか? そりゃ喜ぶ人もいるかもしれませんけれども、これもとりあえず入れてる感が俺は嫌っていうか、道具のとりあえずの使用法と同じでさ、要は幼稚なんですよ。道具出したら嬉しいでしょ? 小ネタ出したら嬉しいでしょ? そういう設計思想から導き出されたものとしか思えない。

愛があればいいというものでもないがその愛だって少しも感じられないですしね。『海底鬼岩城』のバギーちゃんCV三ツ矢雄三を全然関係ない道具の機械音声としてCV羽鳥慎一でオマージュってなにそれ? バカじゃないの? このへんは『ケイゾク』の渡部篤郎ボイスに脳内変換して再生してもらいたい。バカじゃないの? もう一回言ったよ大事じゃない大事なことだから。羽鳥慎一の声の演技は悪くなかったから悪くてバカなのはあくまで脚本と監督だけれども。

これも歌自体は別に悪くないが菅田将暉のエンディング曲だってそれ『ドラえもん』と全然関係ねぇだろってなるしな。なんだろうなぁ、ぶっちゃけ『ドラえもん』なんかどうでもよくてただひたすらに購買力のある子持ち夫婦をガッツリ獲ろうとしてんだろうなぁ。その層さえ動員できりゃ『ドラえもん』ファンなんかどうだっていいんだよ。ファンは一人で観に行くが子持ち夫婦は三人分木戸銭腹って二千円分ぐらいバカ高ぇコンセッションのジャンクフード買うからな。そんなもんこっち勝ち目ないっすわ。子持ち夫婦の優勝ですわ。子持ち夫婦からぶん盗った金でちゃんとファンも視野に入れた作品をのちのち作ってくれるんならいいけど、そんな良心が今の藤子プロとか小学館にありますかねぇ。

まぁでもね、電気グルーヴの「N.O.」のPVに出てくる水野晴郎の精子みたいなやつが出てくるところはおもしろくてよかったですネッ! それこそ『ドラえもん』なんも関係ないだろ一番『ドラえもん』を舐めてんのはテメェだよ! 舐めててすいませんでした。

※あと大人のび太の住む未来世界はユニクロのデジタル看板ばかりあって現代の子供ジャイアンはUTの服を着ているっていう大人の事情も最悪に嫌だった。ショッピングモール内のシネコンで観て帰りに同じモールに入ってるユニクロかUTでどうせ売ってるに違いないコラボ服買ってねみたいなことか。前に見たユニクロの『ドラえもん』コラボ服、欲しいなぁと思ってヨダレを垂らしていたがふざけやがって絶対買わねぇからな。

【ママー!これ買ってー!】


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山崎貴の原作DVシリーズといえば大紛糾したこの映画であるがこれだって俺はその豪腕っぷりに逆に感心して面白く観たからね。原作ファンに喧嘩を売るにしてもこれぐらい派手にやってくれればそれはそれで良いんだよ。『STAND BY ME ドラえもん2』はその面白さもないから。普通に原作を読めてないだけだから。

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