《推定睡眠時間:0分》
なんて感想の書きにくい映画を作ってくれるんだと思うが観に行っているこっちが悪いといえばそれはまぁ確かにそう。いや! でも俺このタイトルとイタリア映画という前情報からマフィア映画だと思って観に行ったからね!? そしたらどうですか強い問題提起を含む同性愛映画でいやこれがね…良かった! 良かったんですけどただ感想は書きにくいよね本当に!
そりゃ別に自分を騙せば書けますよいくらでも。うう…同性愛の人たちがこんなに迫害された時代(※1960年代が舞台)もあったんだナァ…カワイソウ! とかさ。あとほらうう…同性愛の人たちは苦難の時代にあってこんなに強い絆で結ばれていたんだナァ…泣ける! とかさ。うう…から始まる嘘感想なんていくらでも書けますけど、でもだって嘘なんだもんそんなの。そうだねたぶん本当に嘘偽りなく本心からこれを「同性愛者の美談」だと思って観て感動している人もいるでしょうね。まぁしかし、俺には残念ながらそうは観れない。そう観る人はそうだねうーんそういう見方もあるかもしれませんけどうーんなんていうかうーんどうなのかなうーんうーん、ですよ! まぁ悪いとは言いませんけれども! 映画の見方に良いも悪いもないからな! 浅い深いはあるが!
さて主人公の蟻大好きおじさんは哲学の教授かなにからしいのですが田舎にお城みたいの持っててそこで教え子に演劇を叩き込んだりしてるらしい。彼が「教唆罪」というもので地元住民に刑事告発された。なぜか? 実はその教授、裁判での証人喚問によれば以前から教え子男子のチンコを無理矢理触ったり立場にモノを言わせて関係を迫ったりということをしていたらしい。でその中の一人がこの教授の田舎者にはない知性に恋をして家族と衝突、駆け落ち的に教授と共にローマに出て行ってしまったので、怒った家族はこれ教唆罪だ! と警察に訴えたのでした。
さて教唆罪とは何か。これが映画を観ても具体的にわからなかったのだが、なにかまぁ罪名からすれば人を唆してよからぬことをさせる罪ということでしょう。当時のイタリアには同性愛を裁く法はない。一見よいことのように思えますがこれはなにも人権的な配慮からではなくむしろ逆で、ファシズム体制下で同性愛は公的に存在しないこととされたので、その名残りで同性愛を裁く法律もなかったというだけのこと、法律があろうがなかろうがカトリック教会が強い影響力を持つ当時のイタリアでは同性愛けしからん派がマジョリティだったので、じゃあそんな教え子に手を出すような男色教授は適用できるかどうか知らんが教唆罪ってやつで告発してやれとこのようなわけなのでした。
さて、日本では今年2023年7月に面会要求等罪、通称グルーミング罪というものが新設された。これは16歳未満に対するエロ目的での面会要求を防止するための法律で、詳しい経緯は知らんがおそらくはLINEやツイッターなどSNSでの出会い系被害(エロ写メ要求含む)に対応するために作られたものだと思うが、その要件が俺にはかなり際どく見える。法務省のサイトから引用しよう。
わいせつ目的で、①~③のいずれかの手段を使って、会うことを要求すること。
①威迫、偽計または誘惑
②拒まれたのに反復
③利益供与またはその申し込みや約束
https://www.moj.go.jp/keiji1/keiji12_00200.html
③はわかる、つまりお金やるから会わないかと誘うことだろう。なんとけしからんそんな輩は処罰してしまえ。②もまぁわかる、いや会いたくないんですと16歳未満の方は言ってるのに会おうよ会おうよとストーカー的にSNSなどでつきまとってじゃあ1回だけですよと言わせるということだろう。う~んまぁ微妙な感じはするけどやり口がキモいからそいつも処罰してしまおう。しかし①はどうか。威迫、偽計(つまりウソをつくことだろう)は犯罪の構成要件として異存ないが、三つ目の誘惑に関しては、何を誘惑とするかの余白がいささか多いように思える。つまり、この映画『蟻の王』の教授のように、田舎の無知な少年を「君の詩作のセンスは実にすばらしい…」と褒め、田舎の人間が持たない哲学の話で自分を知的な人間とアピールすると共にその知的な話題を理解できる俺と少年に思わせることも、誘惑の範疇に含まれる可能性が充分あるように思われるのである。
果たしてこれは児童性犯罪の構成要件として正しいのだろうか。16歳未満は真っ当な判断能力が一切ないという立場に立てば誘惑は悪い許せんとなるだろうが、何を誘惑とするか司法が恣意的に解釈できてしまえる余地があるならば、これは場合によっては人権侵害となりかねない。エロ目的じゃないならそんな心配をする必要はないじゃないか、さてはお前やましいところがあるな!…と食ってかかる方もいらっしゃるかもしれませんが、「目的」など所詮は人の心の中にしかないものなのだから、よほど明白な物的証拠があるならともかく(他の児童のエロ写真とか)、それは人の目には見えない。しかしこのグルーミング罪によって、「誘惑」して「出会い」を要求しているのだから、そこには「エロ目的」があるのじゃないか、と逆の順序で類推的に立件されてしまう可能性は否定できないのじゃないだろうか。
日本のグルーミング罪導入の良し悪しはともかくとして、『蟻の王』は成人による未成年またはかなりの歳下との性的関係が(少なくとも欧米及びそれを範とする日本などでは)合法と違法の境界線に沿っていて、それは時代や場所によって違法になったり適法になったりする曖昧なものだし、場合によってはこの教授のケースのように法律が人権侵害の刃となってしまうこともあるという危うさを見せつける。またこのようなこともある。教授と駆け落ちした少年(具体的な年齢は作中で言及されなかったが、出会いは高校生ぐらいか?)は最後まで教授を愛していると言う。その「愛」はどのように捉えるべきだろうか。
教授が田舎のお城の中で教え子に手を出していたことをどうも少年の兄は知っていた(か、あるいは彼自身も被害を受けた)ようであるし、裁判でも元教え子が被害を語っていた。そこから連想せざるを得ないのは昨今の日本メディアを賑わせるジャニ騒動だが、もしジャニにチンコをしゃぶられたジャニーズアイドルの中に、ジャニを本気で愛している人がいたとしたら? 俺はその可能性は全然あると思っているし、性の対象としては見ないとしても、自分を発掘しスターに育てたジャニに恩義を感じて尊敬しているジャニーズアイドルは決して少なくないと思うのである。それが今まで(というかならないまま死んだので今もだが)ジャニ問題が刑事事件化しなかった理由の一つとして、少なくとも無いとまでは言い切れないように思うのだ。
人間は襞のある生き物で、って別に下ネタとかではないが、どんな人間にも大抵は良いところも悪いところも両方あるし、ましてや人間関係が多層化している今日、ある人がある人に対しては悪魔のように映っても、別の人には天使のように映ったりするかもしれないし、そして実際にその人には恩恵を与えているのかもしれないのである。それは当たり前のことだと思うのだが、こうした複雑性が逆に今を生きる人には疲れとして経験されて、ある人は100%の善人である人は100%の悪人といった風な幼児的で単純な、ようするに疲れない世界観・人間観の誘惑が強まっているように思える。そしてそれは、この映画で描かれたような異なるものへの差別を正当化し促進してしまう危険性を秘めているのじゃないだろうか。
いやはやまったくこれは感想を書きにくい映画である。易々と感想を書けない現実の複雑性を捨象しないで織り込んだ、力作ではないかと思う。あ、今回Amazonのアフィリエイトリンクを貼るところがなかったので最後にアフィ用として蟻の図鑑のAmazonリンク載せときます。映画とは何の関係もありません!