《推定睡眠時間:30分》
フランシス・フォード・コッポラという人はデビューすぐにしていきなりアカデミー脚本賞を獲ってしまったのが伝記映画の『パットン大戦車軍団』というあたりがなるほどと思わされるのだがまずなによりも叙事詩の人であって『ゴッドファーザー』も『地獄の黙示録』も『アウトサイダー』も叙事叙事叙事の叙事映画なのだが、そこで叙事とはなんだろうと考えてみるとあれが起こったこれが起こったというのを過去から未来へと進む時間の中で(たとえその時間が回想形式など過去と現在を行き来するにしても)記述する物語形式であり、とすれば叙事とは本質的には出来事を通してそこに流れる時間を描くものなわけで、この『メガロポリス』の主人公である時間よ止まれいやまた進めを何度も繰り返す変な天才建築家は「時間を取り戻したい」と語るのだが、今度は逆に、それは叙事を取り戻したいという意にパラフレーズすることもできるかもしれない。
ところで建築家、というのはモダニズムのヒーローであった。モダニズムとは何か。デヴィッド・ハーヴェイというなかなか偉い人はニーチェの言葉を援用してそれを端的に「創造のための破壊、破壊のための創造」と言い表しているが、どういうことかと言えば、ざっくりモダニズム以前の欧米世界というのは(むろんモダニズム開花の下地としての産業革命による資本主義化があるにしても)伝統を大事にする文化が強かったのだが、モダニズムはこの伝統に価値なしと判断し、新しい何かを創造するために既存の形式や秩序や方法を破壊することを積極的に肯定する、それが「創造のための破壊」ということであった。
それはわかるがじゃあ「破壊のための創造」って? モダニズムは創造のための破壊を肯定する思想であるが、ということは今日がんばって創造したものも明日には古いものとして新しい創造のために破壊されてしまうかもしれない。破壊、創造、破壊、創造、破壊、創造。モダニズムとはその繰り返しであり、この破壊と創造の無限連鎖は今日考えられているような過去から未来へと流れる時間の意識を人々に与えるが、こうして過去から未来へ流れる時間という意識を手にしたときに、人々は同時に未来のビジョンをも手にすることになる。そしてこの未来へのビジョンこそはモダニズムの破壊と創造の無限連鎖を支えるものであった。つまり更に噛み砕いて言うならば、モダニズムとは、未来のために現在と過去を破壊することを厭わぬ思想である、ということにまぁひとまずしておこう。俺がそういう話をしたいというだけの理由で。
モダニズムにあって建築家がヒーローとなったのは単純に破壊と創造を建物を壊したり新しく作ったりというたいへん具体的な行為を通して見せてくれる人だからというのもあるだろうが、20世紀前半の二度の世界大戦によってヨーロッパの街並みが大きく破壊されたという更に身もフタもない理由もあるらしい。破壊された街並みは人が住もうとすれば再建されなければならないが、モダニズムのスター建築家たちはそれが単なる再生であってはならぬと判断した。この破壊を機に街並みを破壊前より進歩的にすべきでありそのために都市計画なり建物構造なりを考えるべきである。
このようなわけでヨーロッパの建築家は大戦による破壊を未来の展望へと繋げ、そのために疲弊し傷を負ったヨーロッパの人々に建築家は夢を与え、スターとなることができたのであった。実際、生活水準の向上率でいえば、それが建築家だけの功績では当然ないとしても、大戦前より大戦後の方が急激だったというのは、ヨーロッパだけじゃなくアジアもそうなのだから、人々は建築家に限らず未来を創り上げてくれるモダニストを容易に信じることができたのじゃあないだろうか。
さてさて『メガロポリス』の話。「創造のための破壊、破壊のための創造」の思想であるからしてモダニズムのシンボルとなるのは破砕された断片だってんで『メガロポリス』の物語も断片化されていて意味が掴みにくい。登場人物は無駄に多く、画面はグロテスクにごちゃついて、編集は一定のリズムや法則を持たないように見えるから、実に混沌としているのだ。けれども叙事詩であるからして物語の核心部分を把握するのはそれほど難しいことじゃないだろう。要するにここで描かれているのはポストモダン思想に基づいて無計画で場当たり的な街作りを行う悪徳政治家と、モダン思想に基づいて都市を未来に向けて設計しようとする主人公の天才建築家の戦いなのであった。
最愛の人の死によって天才建築家は時間の感覚を失ってしまうわけだが、これまで見てきたように過去から未来へ向かう時間はモダニズムの要であるから、それを失った天才建築家は未来を見ることもできなくなってしまう。これをいろんな登場人物との交流や対話によって取り戻した主人公は映画の最後で人々に都市の未来を語る。ポストモダン思想はもっぱら現在に焦点を当てるので未来を語ることはできない。未来を語ることができない時に人々は明日に希望を抱くこともまたできず、先の見通しもなく現在の消費的な快楽に埋没し当座の敵の殲滅に血道を上げるばかりだ。そんな状況を天才建築家の主人公は時間の意識と未来のビジョンを取り戻すことで打ち砕き、ポストモダン都市に生きる人々に希望を与える。見た目的にはまるで全然違うとはいえ、都市とポストモダンと「われわれはどう生きるべきか」の映画という点で、実はこれは『ブレードランナー』と近いところがある映画かもしれない。
ところでコッポラといえば再編集の鬼、『地獄の黙示録』も『アウトサイダー』も『ワン・フロム・ザ・ハート』も劇場公開から何年も経ってから再編集の施された別バージョンが公開され、先頃日本で行われた特集上映では特集サブタイトルに「終わらない再編集」なとと付けられちゃって笑えたのだが、しかし「終わらない再編集」とは言い得て妙、それこそまさに作っては壊し作っては壊しの永遠に続く映画の「創造のための破壊、破壊のための創造」であり、モダニスト映画監督たるコッポラの本質を突くフレーズである。
悪趣味で華美な衣装やセットも面白いがこの映画の本当に面白いところはそのへんにあるのかもしれない。モダン精神にとって永遠不滅なものはなにもない。すべてのものは新しい創造によって破壊される運命にあるのだから本来的に失敗作であり、よりよい創造物に取って代わられる運命にある。にもかかわらずコッポラはいつでもマスターピースを作ろうと腐心するし、この映画の中にも天才建築家が発見したという不滅の建築素材メガロンとかなんとかいうのが出てくるのだ。決して手にすることのできない不滅に到達しようと空回りし続けるのは天才建築家もコッポラも同じである。
その空回りは独善とも言う。よりよい未来を説く啓蒙はモダニズムの重要な要素だが、それは民衆から湧き上がるものではなく、創造的な少数の天才によって上から民衆に与えられるものである。ここまで書けばモダニズムとファシズムがきわめて近い関係にあることがわかると思うし、実際ナチスも不滅の創造という集団妄想のために巨大な破壊を世界にもたらしたのであった。だから『メガロポリス』は、その絢爛豪華な映像世界とは裏腹に、数々の壮大な建築や行事を通してナチスが見せようとした不滅がそうであったように、なんだかとても薄っぺらい。
そうした薄っぺらさは映画の外からも裏打ちされる。街にカジノを作ろうとしてるポストモダンの悪徳政治家とそんな暴挙は許すまいとするモダンの天才建築家の対決は時間=未来を取り戻した天才建築家の啓蒙による勝利に終わるが、これが2024年にアメリカで公開されたという事実からはカジノ王として知られる(が実際は経営に失敗してほとんど潰れた)トランプ共和党と進歩主義を標榜する民主党が争った2024年の米大統領選挙を視野に入れて製作された映画であることが窺える。そして実際の大統領選挙の結果はセレブを多数起用し啓蒙的な選挙キャンペーンを展開した民主党の惨敗とも言える結果に終わったことは周知の通り。
『メガロポリス』は机上の空論であり張り子の虎だ。破壊と創造の無限連鎖を肯定するモダニズムでは決して本当の不滅(そんなものがあるとすればだが)に到達することができず、モダニズムはモダニズムによってこそ、啓蒙は啓蒙によってこそ、いつかは必ず否定され破壊される他ないという現実を受け入れることの出来なかった進歩主義的の見る夢だ。薄っぺらくて滑稽で、独善的な失敗作。だからこの映画は面白いし、これこそが映画だぐらい言いたくなる。複製技術時代のモダニズム芸術としての映画は、ただ失敗することによってのみ、己の存在意義を獲得するのだ。
※劇中に登場する都市ニューローマは言うまでもなくニューヨークのことなのだが、現代の都市と古代ローマを混淆させる手法をとった映画としてはジュリー・テイモアの『タイタス』があり、これが1999年の作。今更おんなじようなことをやられてもというのに加えてその手法を効果的に使っているのも『タイタス』の方なので、じゃあ『メガロポリス』良いとこないじゃんみたいな感じになるのだが、繰り返しになるがその空回りっぷりがちょっと感動的なほど実によい『メガロポリス』なのである。