《推定睡眠時間:40分》
思えばスーパーマンの映画やドラマはこれまでに一本も観たことがなくその理由はシンプルに青タイツとパンツという変態ファッションの絶対死なない健康優良青年が悪いヤツをやっつけるあまりにもアメリカな世界観をバカじゃないかと思っていたからなのだが今回は監督がジェームズ・ガンということで知らんけどガンならなんか新味とかあるんかなと観に行ってみればこれがどの程度スーパーマンのベタを踏襲しているのかは俺にはわからないのだがガンの過去のアメコミ映画、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』とか『ザ・スーサイド・スクワッド』とかとやってることが同じにしか見えなかったのでガンのいつものやつという感じでそれはそれで結局新味が感じられないのであった。
ガンのいつものやつというのはまずチームものでそのメンバーは頭か性格かその両方かのどれかが悪いちゃらんぽらんなデコボコ軍団。そいつらがガチャガチャとケンカしたりなんかしながらもなんだかんだ手を取り合って強大な悪に挑むが真面目一本槍には絶対にならずシリアスな戦いの最中でも外しのギャグがたくさん入ってくる。パロディやブラックユーモアも多いが、それはガンが80年代B級バカ映画界の雄トロマ出身の脚本家兼監督だからだろう。スーパーマンシリーズはおそらくこれまでスーパーマンという個人にスポットライトを当てた者が多かったんじゃないかと想像するし、あとギャグ路線であるよりは真面目路線が多そうなイメージもあるので、そうしたガンっぽいチームアクションの展開であるとか、あと主人公がガン映画らしく孤独を抱えた打たれ弱い人というのもスーパーマン的にはもしかすると新機軸なのかもしれない。
それにしても、開映から少し遅れて劇場に入ったということはあるにしても、状況がよくわらない。遅れたといってもタイトルがバーンと出る前には席に着いてるから10分以上は遅れていないはずなのだが、その時点で既にスーパーマンは地球にいて、南極か北極にスーパー地下秘密基地があり、アメリカ人はみんなスーパーマンを認知していて、悪の組織的なものについてもなんら説明はない。知っているヴィランは一人もいないし知っているスーパーマン以外のヒーローも知らないがそんなことはお構いなしに映画はどんどん進んでいく。みなさんお馴染みのということなのだろうが、続編ならまだしもシリーズを仕切り直した第1作目ならもう少し丁寧に進めてくれてもいいような…とも思いつつ、でもどうせ今どきスーパーマンの新作を観に来る人なら万事承知してるだろうからどうでもいいのかそういうのは。ガンの過去のアメコミ映画と同じことをやっている点、設定の説明がほとんどない点で、なんだかアメコミマニアの内輪ウケ映画のようでもある。
赤マントをつけたコッカスパニエルのスーパーワンチャンが可愛かったという点を除けば見飽きた画面の連続で内容にさして興味も持てなかったが、とはいえだからこそその意味を考えるとちょっと面白い。スーパーマンが誕生したのは実に第二次世界大戦前というから歴史の長い話だが、実写映像化されたスーパーマンといえばやはり1978年のリチャード・ドナー監督版『スーパーマン』がその長い歴史の中でも一際大きく輝いている(はず)。この1978年という時代だが、アメリカではニューハリウッドと呼称される時期である。第二次世界大戦後、アメリカにおける映画館の来場者数は右肩下がりで落ち込んでいった。これには郊外住宅地の出現やテレビの普及によるライフスタイルの大きな変化が影響しているそうで、そうした中でアメリカの人たちから次第に映画館に行く習慣がなくなっていったわけである。
こうしてハリウッドメジャーの財政状況は悪化の一途を辿り、配給と製作を一手に抱え自社所属のスターを使って年間何十本も映画を量産するようなスタジオ・システムは維持できなくなってしまった。そして1960年代中頃からのおよそ10年間でハリウッドメジャー各社はメディア・コングロマリットに身売りをすることになる。こうして企業の中身が変わると映画に対する考え方も変わり、どうにか映画館にお客を戻すための集客策がさまざま実行されたのだが、これが奏功して1971年以降、ついにアメリカでの映画館来場者数は右肩上がりに転じ、『ジョーズ』や『スター・ウォーズ』などの特大ヒット作も生まれ、ハリウッドが復活した、ニューハリウッドだ、と言われるようになったわけである。
ドナー版の『スーパーマン』はまさにその時期、ハリウッドが経済的な復興を遂げると共に、アメリカという国自体もベトナム戦争から足を洗って経済的にも政治的にも安定して、ようするにアメリカ人が全体として自信を取り戻したときに公開されたのだが、その2年後の1980年、新自由主義を掲げ、宗教保守を味方に付けた、「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」をキャッチフレーズとする共和党のロナルド・レーガンが大統領に選出される。言うまでもなくレーガン政権は現在のトランプ政権が規範とするものだ(そのためアメリカ政治のトランプ化は1980年に既に始まっていたとも言える)
ドナー版『スーパーマン』がどのような内容か具体的には知らないが、こうして歴史の中に置いて眺めれば、それがアメリカ人の愛国心を鼓舞するものであったことは想像に難くない。なにせスーパーマンはめちゃくちゃ強くて銃で撃たれたりなんかしても全然死なないし、その上で清く正しい正義の心を持ったスーパーヒーローである。それが宇宙のどこにあるんだか知らんどっかの星からアメリカ合衆国にやってきてムキムキの健康優良アメリカ白人の姿になるのである。これも知らないから想像になるが、「スーパーマンはアメリカに飛来してアメリカで育った」というのはスーパーマンのおそらくコミックや映画のほぼすべてに共通する基本設定ではないかと思う。ということは、なんとなくのレベルでもそれを見たアメリカ人はこう感じるんじゃないだろうか。「アメリカは選ばれた国だ」とか。
今回のガン版『スーパーマン』を観て俺が感じたのは愛国的なコンテンツだな~ということであった。というのも、別にアメリカ国内の強盗とかでもやっつけてりゃいいのに、今回は東欧で大国が小国に攻め入ろうとしていて、攻められる方の国の子どもたちが助けてスーパーマンという旗を振るので、全員アメリカ在住のスーパーマン一味が助けてやることにするのである(ついでに大国の大統領を暗殺する)。あきらかにこれはロシアのウクライナ侵攻を戯画化したものなので、これを現実に変換すると、アメリカはロシアを倒すためにウクライナ派兵すべきだ、まぁ派兵しなくても戦車とかミサイルとかの兵器をじゃんじゃか送ってウクライナ戦争に加担し、ロシア兵をいっぱい殺して可能ならばプーチンだって暗殺しちまえ、というタカ派メッセージになる。
この東欧の小国の描写というのはなんか荒野みたいなとこに汚い格好した茶色い人たちが100人ぐらい集まってるというあまりにも想像力に乏しいものなのだが、ガンの映画では『ザ・スーサイド・スクワッド』でもやはりアメリカが軍事介入するおそらくこちらはキューバをモデルとしているカリブ海の島国の描写がまったく粗雑で、所詮アメリカ白人の発想こんなもんやなと思ったのであった。この、アメリカ文化の外にある国のナチュラルな軽視と、そこに対する積極的で軽はずみな軍事介入の正当化という点で、ガン版『スーパーマン』はわかりやすくアメリカ保守僧の映画なのだし、ドナー版『スーパーマン』がアメリカが自信を取り戻しつつ保守化しレーガンを生み出す直前に公開されたことを思えば、スーパーマンという愛国的コンテンツとしてそれは特段おかしなことでもないのだろうと思う。
少なくとも映画に限れば『スーパーマン』が体現するのは強く正しい世界一の超大国としてのアメリカである。現実のアメリカは全然そんなことはないと思うのだが、だからこそというべきか、トランプが大統領に返り咲いた年に、レーガン政権直前に『スーパーマン』が公開されたように、今度もまた『スーパーマン』の新作が公開された事実からは、強く正しく世界一の超大国としてのアメリカを求めるアメリカ大衆の願望が透けて見えるようで、なんだかおもしろいものである。