本当は怖い倒錯映画『魔女がいっぱい』感想文

《推定睡眠時間:20分》

『魔女がいっぱい』っていう邦題なので魔女はいっぱい出てくるのだが活躍するのは大魔女アン・ハサウェイだけなので嘘はついてないのに騙された感がある。まぁこの世界には魔女がいっぱい! っていう意味の邦題だとしたら間違いではないですけどね。そうですみなさんが気付いていないだけで実はこの世界には子供をハイヒールで踏み殺そうとする悪い魔女がいっぱいいるのです。さぁ子供たち! そんな悪い魔女を見かけたらどうする!

…あのラストシーンを見た後にエンドロールの「製作:ギレルモ・デル・トロ」が飛び込んできたものだからちょっと意外だったよね。お前そっちサイドに付くの的な。監督はロバート・ゼメキスだからゼメキス映画として観れば魔女に対するそのだいぶこじらせた攻撃性もわかるところだが、仮にデル・トロが監督だったら絶対ああいう結末にはなってないよな。そこはたぶんね魔女に花を持たせるっつーか魔女も差別とかで大変なんですって風に社会派寓話に持ってくと思うんです。

なんだかんだ言ってデル・トロちゃんとした常識的な大人なわけで、むしろ一般的には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか『フォレスト・ガンプ』を撮った模範的ヒューマニスト監督として認知されているっぽいゼメキスの方が歪みがすげぇ…っていうのは俺も最近になって気付いたことではあるが、これはですねゼメキスの前作『マーウェン』と今回の『魔女がいっぱい』がどちらもさしたる理由も示されることなくハイヒールに執着するというところに端的に表われております。

実在のハイヒールフェチをモデルにした『マーウェン』はともかく『魔女がいっぱい』はあえてハイヒールを出しまくる理由ないからな…しかもそれがまたなんともアブノーマルを感じる出し方で魔女ドラッグでネズミ化してしまった主人公くんを揃ってハイヒール着用の魔女軍団が踏み殺そうとするという…この、下から見上げる魔女の大きなハイヒールの怖さと反面のエロ! それマゾ願望じゃん普通に。魔女映画じゃなくてマゾ映画であったよ。

こんな映画を子供向けとして撮るなんてゼメキス、キテるなー。最後のシーンもですねこのハイヒールフェチを踏まえた上で見るとちょっとドキドキしてしまうアダルティな不穏さ。不穏といえばゼメキス映画随一の不穏度とバイオレンス度を誇る『マリアンヌ』はざっくり自分をセックスに誘うエロい女は信用できないという映画であったから(そうか?)どうやらゼメキスはカギ括弧付きの「女」を欲情しながら恐れていて、その意味では魔女という題材はあまりにゼメキスにぴったりなのだが、ぴったりすぎたので子供映画の枠を密かにしかし確実にオーバーしてしまったのであった。

そういう風に観るととてもおもしろい。子供向けのほんわか映画として観るとたぶん色々食い足りない。ってかハイヒールフェチ云々を抜きにしてもロアルド・ダールの原作ありきとはいえ子供映画としてかなり厳しい。この厳しいというのは出来が厳しいという意味でなくメイン観客であるはずの子供に対して見せる光景が厳しいという意味である。

説明的プロローグに続く主人公初登場シーンは主人公キッズが横転した乗用車の中で意識を取り戻すところで、キッズは「両親は死んだ。ぼくはシートベルトをしてたか生きてた」みたいなことを言って両親の死を観客に知らせるのだが、不可解なことにはよくある子供映画ならその前に家族団らんのシーンを入れるとかして生前の両親の姿とか主人公が両親と過ごした幸せな日々を観客に提示するものだが、この映画だとそれが無いのであたかも両親など元から存在しなかったかのように映る。

この両親不在がより直接的に表われるのは主人公のネズミ仲間のデブくん関連のシーンで、このデブくん両親に助けを求めるのだが母親はネズミになった彼を見て「きゃー!!!!!」と悲鳴をあげるばかりで他に台詞らしい台詞は発さないし、もちろん助けようとかしない。これは子供には厳しいだろ。この両親不在感、母親不信、ハイヒール恐怖、そしてゆーても子供映画だから一応コミカルに表現されるとはいえやってることはかなりえげつない魔女退治と魔女憎悪。

そういえば『マーウェン』で主人公がハイヒールフェチになった理由は母親にあったのだが、今一度振り返ってみれば『マリアンヌ』も『マーウェン』も誘惑する女と得体の知れない母親(『マリアンヌ』では妻が母親になったことが物語の転機になる)が男を狂わせて奇妙で孤独な戦場に向かわせるという…その向かわせ方もまたねじくれているのだが…そういう映画だったわけですが、その点に着目するなら『魔女がいっぱい』のやや唐突で突き放した印象を受けるラストも必然というか、これも要するにひとつの歪んだ戦争映画だったということになる。

大魔女アン・ハサウェイは訛りがひどくどうもソ連とかから来てる人のようなのだが(時代設定60年代)、だとすれば子供を殺す悪い魔女が「世界中にいる!」とプロパガンダフィルムで煽るプロローグの意味は…あるいは主人公キッズは黒人でその保護者のお婆さんはNASAの黒人計算手を描いた『ドリーム』で有名になったオクタヴィア・スペンサーなのだが、このお婆さんも実は魔女に恨みがあったため主人公くんと一緒に嬉々として、というか当然のこととして魔女をぶっ潰そうとする。

当時の時代状況を反映して舞台となるホテル(たしかこれは南部アラバマとかだったはずである)で掃除とかドアマンとかやってるのはみんな黒人という絵面の上で繰り広げられるオクタヴィア・スペンサーの白人魔女ぶっ潰し作戦は魔女モチーフを超えてそのまま虐げられた黒人による白人への復讐に見えるし、スペンサーのキャラクターは温かみよりも魔女と対峙したときのニヒルな表情が印象に残る。

『ドリーム』がお話を美談化するためにノンフィクションの原作をズタズタにして抜き取ったのは黒人計算手の動員があくまで戦争のためだったという点なのだが(原作には「我々がヒロシマナガサキの原爆投下の一翼を担ったことを忘れてはならない」みたいな台詞まで出てくるくらいなのだ)、『魔女がいっぱい』の陰鬱とさえ言える結末におけるスペンサーは、あたかも『ドリーム』が隠蔽した黒人女性の戦時動員の事実を暴露して楽しんでいるかのようだ。

…なんだか本当は怖い○○みたいになってしまった。実際、怖い。魔女こわい。手とか超伸びるし。鼻とかひん曲がるし。でも脇の下を誇示するように大きく開けたアン・ハサウェイはおそろしくも蠱惑的である…ってそこもまたフェチっぽいな~! いや~あれは狙ってるでしょ! 完全に脇の下で勃ってるでしょゼメキス! あと俺!

どんどん尖った映画に思えてくるじゃん。なにこの映画。やっぱりね、ゼメキスはタダモノじゃないですよ。破壊の天才スピルバーグが引き抜いた才能だけあってこの人は正しく倒錯してます。倒錯してますしアメリカ的なるものをわざと裏返しにして知的に嘲笑ってるんじゃないですかね。倒錯監督・嘲笑監督としてそのフィルモグラフィーを回顧するなら『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も『フォレスト・ガンプ』も今までとは違った相貌を見せるに違いない。

『魔女がいっぱい』、そのチャイルディッシュな見た目に反して『マリアンヌ』『マーウェン』に続くハイヒール三部作最終章という大人の倒錯映画であった。

※ちなみにネズミはかわいかったです。しかし、美貌の魔女によってネズミにされる男の子というのもなにやら精神分析的に意味深よね。『マリアンヌ』もヒッチコック風の精神分析スリラーの側面があったからゼメキスかなり意識的にこういうの取り入れてるんじゃないかな。

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やっぱ『マリアンヌ』と『マーウェン』でゼメキスは映画監督としてネクストステージに逝ってしまったんだと思いますよ。

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