映画の観れない大人たち

井筒監督が日刊ゲンダイDIGITALに寄稿した去年のコラムの中でインティマシー・コーディネーター、ネッフリ映画『彼女』で主演の水原希子がおそらくベッドシーン撮影の条件として導入したスタッフに唾を吐いていて、これは絡みを演じる女優と撮影スタッフの仲立ちをして双方の要望を汲みつつ無理なくベッドシーンに反映させる人のことらしいのだが、それで現場が効率的に回って全員変な負担とか感じないで良いものが作れるのならなにもそんなクソミソに言わなくても…と、まぁでも『タクシードライバー』を見て元気になったとか言うような世界観の人だしなとか半ば呆れつつ思った。

かつてのコラムでは秋葉原連続通り魔事件と犯人の加藤智大にブチギれ被害者の方は心から気の毒とか書きながら同じコラム内で「加藤は自分と同類の集う秋葉原を標的にすることしかできなかった」などと怒りのあまり被害者の方も巻き添え的に侮辱してしまった井筒監督だからそのへんはこっちも織り込み済みである。いやあんた事故とはいえ現場で出演者を死なせたこともあるんだから「事故」を減らすためのインティマシー・コーディネーターをどの面下げて批判できんのよとは思うが、思うのだが、とはいえその無理解無神経を含めて井筒節として(最近は「〇〇節」の廃絶を求めるリベラルもいるが俺は「〇〇節」でいいんじゃないかと思う)楽しんでいるのは井筒監督が新作映画を見ては怒鳴り散らしスタジオをお通夜ムードにする伝説的パワハラ映画コーナー「こちトラ自腹じゃ!」の頃から変わらない。

俺は井筒監督の映画知識がめっちゃ雑ということはまだ中高生ぐらいだった当時から知っていたので(ノワール・ジャンルを解説するときにフレンチ・ノワールだけを「ノワール」として解説していたのだ)その映画感想も「そうだそうだ!」と頷くことはまったくなかったが、そこらのオッサンの素朴な映画感想とたかが映画ごときでありえんほどのブチギレっぷりはそういうものと縁のなかったその頃の俺には好奇の対象であったので、世の中にはいろんな人がいていろんなものの見方があるんだなあと楽しみながら人間のお勉強をさせてもらったのだった(もちろん本業の映画の方も面白かったし今も面白い)

ところでその「こちトラ自腹じゃ!」にデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』の回があって、昔ニューヨークのビデオ屋に行ってリンチの映画探したらデヴィッド・クローネンバーグとかと一緒に変態コーナーにあったな~とかリンチの思い出を語ったのちに井筒監督が出した映画の点数(星3つが満点で大抵は0か1)は星ではなく「意味不明」の文字(2021/5/15 追記:コメントで教えてもらいましたがこれは勘違いで「意味不明」が出たのは『インランド・エンパイア』の回でした)。別に貶しているわけではなく(貶していてもいいが)褒めて言っているしリンチの『ロスト・ハイウェイ』が映画好きの入り口になった俺としては生意気にも「シロートだなw」ぐらいに思っていたので何も問題はないのだが、最近その評の意味するものをちょっと考えるようになってしまった。

つまり、「意味不明」というのは視聴者を喜ばせるためのサービスで、ゆーて井筒監督も知識は雑でもバカではないからお話の構造ぐらいはわかってるだろとかこっちとしては考えてきたわけだが、もしかして本当にわかっていなかったんじゃないだろうか。いや井筒監督をディスりたいんじゃないんだよ。井筒監督がどうのっていうか、井筒監督がひとつの象徴となるような高度経済成長期やバブル期の恩恵を受けた昭和世代の一般的な映画好きは、もしかするとなのだが映画の内容をあまり把握していなかったんじゃないだろうか…。

一口に内容と言ってもいろいろあるが俺がここで言いたい映画の内容というのは話の筋ではなくその話の意味することで、赤ずきんちゃんの寓話なら赤ずきんちゃんがお婆さんの家に云々というのがお話の筋で、そのお話の意味するものにはたとえばそのまま比喩としての「男は狼」とか、ほかにもまぁなんか子供にそれとなく教訓を与えるための寓意なんかがたくさん含まれていたり、意図的に含まれてはいなくて読者が勝手に読み取る事柄もたくさんある。昭和の映画好きはとにかく映画のことならなんでも知っているしずっと覚えているのである。あの映画の公開は何年で主演は誰々で共演は誰々で音楽は撮影はロケ地は…といつまでも話し続けることができる(言うまでもなくこれはとりあえず話を進めるためのモデルなので実際に誰かを想定しているわけではない)

ところがそれが何を意味するか、という段になるとほとんど語ることがない。デヴィッド・リンチの映画に対する昭和世代の受容の仕方はその好例で、『エレファントマン』は素朴なヒューマニズムの映画かあるいは単に奇形フェチのリンチが趣味をやりたかっただけとか、『イレイザーヘッド』は空気を楽しむだけの映画と捉えるか育児の悪夢を描いただけの映画と捉えるかといった風な単純な二項対立の枠組みに内容が押し込まれて、それで済まされてしまう。あるいは「意味不明」とか。これはリンチのシネフィル趣味とかニューエイジ信仰を度外視する見方で、事実は当然そんな単純なあれかこれかには収まらないが、作者の意図は脇に置くとしても『エレファントマン』や『イレイザーヘッド』がたったそれだけの内容しか観客が汲むことのできない貧相な映画ということはないのである。

名画座には笑い屋と呼ばれる人たちがいて、これは一種の蔑称だが、展開的には笑えるところがないどころかかなり悲惨だったりするのに、その物語上の展開とミスマッチに思える演出や演技を積極的に笑おうとする主にオッサンの観客のことをこう呼ぶ。なんであれ映画を楽しんで観ることはいいことだ。俺はこういうのは普段気にならない方なのだが、映画版の『愛しのアイリーン』を観た時には(そこは名画座ではなくシネコンであったが)笑い屋に心底腹が立ったものだった。

というのも笑い屋どもがゲラゲラと笑っていたのは主人公の色々溜まったオッサンが田舎の因習にがんじがらめにされた若い女にそれその状況で言われたら法律で言うところの抗拒不能でしかないだろ的な一対一のシチュエーションで「謝るならオ〇ンコ見せろよ!」と女を怒鳴りつける(しかも主人公はその女をほぼほぼ強姦しているし、女が謝罪したのはほぼほぼ強姦「されたこと」に対してなのだ)場面だったからで、そこに勃起している男の滑稽は確かに可笑しいとしても、それは個人的にクスクスと押し殺して笑うべきことで、結果的にとはいえ集団でゲラゲラ笑うとなれば醜悪というほかない。

俺はこの映画の監督は大変才能があるとは思っているがその観客の反応が本当に嫌で、あまりのムカつきに手は震え思考は麻痺し何が面白いんだてめぇらぶっ殺すぞ黙ってろと叫ぶ半歩手前まで行ってしまったので、少なくとも映画館ではその監督の映画を観ないようになってしまったのだが…そのときの笑い屋も含めて主にオッサンで構成される笑い屋がシーンの意味を理解した上であえて笑っている知的スノッブではなくて、むしろ逆にシーンの意味を理解していないからこそ笑っているのだとしたら? と考えるともう救いようがなく暗澹たる気分になってしまう。

急に笑い屋の話に逸れてしまったのは笑い屋のメイン生息地は先にも書いたが名画座であり、たとえばそこで古いアメリカのノワール映画を観たとする、でその「内容」が面白かったのでほかの人はどう観たんだろうとよせばいいのにネット検索でもしようものならもう死屍累々、おそらく先行する映画評論に引きずられてだろうが映像スタイルや演出効果の話ばかりで「内容」の言及がまるでない。

こうした素人評論家は映画のスタイルに関しては微に入り細を穿つ精緻な評論を展開するが逆に言えばそれだけなのであって、いやもう本当にそれだけなのであって、名画座で映画を観てマイ批評をネットに放流するぐらいだから(昭和世代かどうかはともかく…)映画マニアに決まっているのに、本当にそれしか書きたいことがないらしい。いったい映画の何を観ているのだろう? 検索しなけりゃいいだろという話なのだが、こういうケースがあまりに多すぎるので失望どころではない。

たとえばそれを蓮実重彦的なアプローチだとすると(俺は蓮実重彦を読んだことがないのだが)内容を重視するアプローチには町山智浩をとりあえず対置できるかもしれないが、作者の発言をそのまま「真実」として受け取り映画読解の軸に据える町山流と、それとは逆に作者を視界の外に追いやって画面のみを「信じる」蓮実流は、正反対のようでいて懐疑や洞察を欠くという点で一脈相通ずるものがある。これは笑い屋や人間データベースとしての昭和型映画マニア、「こちトラ自腹じゃ!」的な感情の発露を思考よりも上位に置く素朴な下町映画好き人間にも通じるものではないだろうか。

要するに、映画は内容などには切り込もうとせず表面だけ観ていればよいというポストモダン的な見方。蓮実重彦がモダンを経由してポストモダンに到達したり、町山智浩がポストモダンの混乱を目の当たりにしてモダンの秩序を打ち立てようとするのはまだいいが、そうした知的営為の紆余曲折のないツルッツルの単なる無思考が、それぞれの傾向に合わせて蓮見的なものとして正当化されたり、町山的なものとして正当化されたりするのであれば、そういうのを字義通りの意味で児戯と呼ぶんじゃねぇのとか思ってしまう。俺は子供思考の純粋な大人には比較的厳しい方である。

そうした映画との向き合い方がろくでもないのは笑い屋に典型的なようにこいつら基本的に自分の方が映画よりも偉く賢いと失笑ものの錯誤をしている。いや、お前らは単に何も考えてないだけだから。キャストやらスタッフやら作品名やらをずらずら並べてあれより出来は落ちるとかなんとか熱心に格付けしている映画マニアはその内容においてどのように映画の格付けが可能か考えてみたことぐらいはないのだろうか。そもそも映画の出来とは何か? スピルバーグの『カラー・パープル』と『プライベート・ライアン』であれば『カラー・パープル』の方が映画として優れていると答える映画ファンは相当に少ないのではないかと想像するが、そもそも監督名以外に共通要素を探す方が難しいような二つの映画をどう比較できるのだろう。

ここには映画の内容に対する洞察もなければ認識の枠組みに対する懐疑もないわけで、あるのはとにかく映画の表面だけ。映画の表面しか見ることができないのでデヴィッド・リンチみたいな表面だけ見たらわけわからんものは「意味不明」とか「カルト映画」として理解されることになるが、理解なんかされてない。自分たちの無思考を「リンチは奇形が好きなだけだからw」と作者にまで押し付けようとする恥知らずまでいる。持論を作者に押し付けるのならそれがどんなに突飛でアホらしい解釈であっても考えているだけ立派と言えるが無思考の押し付けは映画と作者の侮辱である。

こんな幼児的で怠惰で傲慢で腹立たしい「映画好き」のせいでどれだけの映画が正当にその内容を評価されることなく消費されていったのだろうと思うと俺がサノスだったら衝動的に指パッチンしてる。内容に対する形式の優越はもはや慣行として日本の観客に根付いているが、今では作り手までもが形式に固執して内容に関心を払わない。内容とストーリーはイコールではないとしても影響は互いに与えるわけだから、内容がないところには面白いストーリーも生まれないが、実際日本映画のストーリーは果てしなく凡庸でどこまでもつまらない。それを観客はネタだとか様式美だとかごまかして空虚に消費する地獄絵図。

日本で言うカルト映画、とくに邦画のカルト映画はスタイルのみでそう呼ばれることが多すぎるが、奇異な映像がいくらか混ざっているからといって『怪猫トルコ風呂』の内容が無いことにはまったくならないし、中川信夫の『地獄』を単に見世物的に消費する映画好きはオウム真理教の信者が真剣に地獄を信じ地獄落ちに怯えたりしていたその数十年後の状況を視界に入れて映画を見直すべきで、『恐怖奇形人間』は意味もなく土方巽が舞っているわけではない。それが何かは観客によって異なるとしても、何かがない映画なんかないのである。

カルト映画と呼ばれる邦画に多くマイノリティや周縁文化、またはその論理が含まれるように思われる点は一考に値するかもしれない。その場合、むしろ逆にそれらの映画はマジョリティの観客にとって内容を持つ映画だからこそカルトの烙印を押され、スタイルだけが評価対象とされたとも見えるからである。観客に何も要求しないスタイルを見ている間は日常の秩序は揺るがない。けれども内容は観客に思考を要求するし、それは時に当たり前だと信じてきた観客の日常に裂け目を入れることになるかもしれない。

思えば「こちトラ自腹じゃ!」というコーナータイトルも言い得て妙というか、それは何か反骨精神のようなものをまとってはいるが、その一方で金払ってんだから何言ったっていいだろ的な開き直りと反知性主義は反骨のはの字もないエコノミック・アニマルのカリカチュアにも思える。自腹を切って放言を垂れるのは簡単なことであるし、その逆に自腹を切ったのだからと映画をピカソの絵画ぐらい丁重に扱ってその画面を一言一句漏らさず耳に蓄え目に焼き付けるのも簡単なことで、それが簡単なのはいずれにしても映画の内容を真面目に考えはしないからである。

昨今の映画考察ブームはどれもこれもバカげた考察ばかりでマトモに読めるものなんかなろう小説より少ないが、日本の映画好きは今まで映画の内容なんかろくに考察したことがなかったのだから、急にやれと言われてもできるはずがない。少なくともそうした見方が定着しつつあるだけ前進、と言えるのかなぁ?

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ああああ
ああああ
2021年5月14日 7:47 PM

あまり関係ない話かもですが、映画に限らず漫画とか小説とか諸々の作品について「考察」と称した深読み系の感想がネット上にはたくさんあると思うんですけど、
あれって大半は、作者が意図的に仕掛けた作品内のギミックとか伏線をあくまで作品内の視点から謎解きしようとしてるだけで、「テクストを分析的に読む」ってこととは全く違うよなぁ、と思います。べつになにが問題というわけでもないのですが。
あとはコミュニケーションありきで作品を見てる人も多い印象です。
ある作品をネタ化/ミーム化して、SNSでみんなで盛り上がって楽しむ、みたいな。
作品とコミュニケーションがセットになってひとつのコンテンツになってるパターンが結構あるのかな〜とか考えました。

booby
booby
2021年5月15日 12:09 AM

井筒氏は飽くまで判りやすい例とさわださんがわざわざ断っているのに、こういうディテールが必要か疑問で、ためらいながらも結局書いちゃうのですが、「自腹」の「マルホ」の回、覚えてます。VTRで映画が終わった途端「よし、わかった!」と宣言して、ポカンとしてた横のアシスタントの子に映画の解釈を滔々としてましたね。スタジオで関係者から大まかな解釈を先に聞いていた、と漏らしたような気もするのですが、これは不確かです。ああいう映画を「わかる、わからん」に「必死に」こだわっている様がちょっと痛々しかった。大筋「マルホ」は褒めてたように記憶してますが、その割に後の「インランド・エンパイア」の時に「さっぱり分からん、やっぱりこう言う監督に好きに撮らせたらあかん」って怒り狂ってましたね。

ああいうのは一発芸としては面白いと思いますが、回を重ねるといろいろ主張に矛盾が出てきて見てられなくなります。まあ、おっしゃられる通り映画監督は本人が作るものが面白ければそれでいいんですけどね。