保存したかったら『荒野の処刑』でも観ればいいじゃんという話

投稿日: カテゴリー 妄想喫茶店

今や誰も彼もがLGBTLGBTと祝詞のようにもしくは呪詛のように吐き出すわけだがそもそもの話として俺はこんなざっくりした言葉はさっさと廃止したらいいと思っているし否定派の人間であれ肯定派の人間であれそこに疑問や違和感を抱けないのだとしたらそれこそが問題なのだとさえ言える。つまりLGBTという概念は、まぁLGBTQでもいいわけだが、レズ・ゲイ・バイ・トランスの四つの性属性を単に異性愛を意味するヘテロセクシャル「以外のもの」というだけで同じ括りに入れているわけで、たとえばそれば欧米諸国に対してそれと同等の経済力や技術力を持たない国々を第三世界とかなんとか呼ぶのと構造的に変わるところがない。

第三世界と呼ばれる国々に共約可能なものなんてないでしょ普通に考えて、欧米に経済力や技術力で劣っているっていう点以外に。それはLGBTの場合も同じであって、レズもゲイもバイもトランスもすべて独自の様態や歴史や文化を持っているし、その当事者の経験は言うまでもなく同じ属性であっても千差万別であり、そこにヘテロではないという否定的なマーク以外に共通点なんてない。あたかもそれが一つのまとまりであるかのように扱うこと自体が差別でありマジョリティとしてのヘテロへの従属である。こうしたざっくり概念を用いることで不可能だった連帯が可能になって政治的達成を得られるケースも少なくないかもしれないが、それが常に諸刃の剣であることに気付けない鈍感な人たちが政治人口の大多数を閉めるような国だから、話題の自民党保守政治家による「種の保存」がうんたらという寝言も驚くには当たらない。

いやもうね、苦々しい思いでツイッター見てましたよ俺は。反論は必要。寝言にはちゃんと起きてる人の適切な反論は必要だというのはわかりますはいわかります。わかりますけれども一部の人が生殖しなくても全体として種は維持できるんだとか、むしろその冗長性が生殖の土壌なんだみたいな、確かにこれは反論として正しいのだが反論だからこそ間違っているんじゃないかと俺としては大いに超かなり思うわけで、なぜならヘテロとLGBTの概念の上での従属関係がここにも結局影を落として、ヘテロの固有スキル(トランスは人によって違うのでひとまず保留としよう)である生殖を俺に言わせれば過度に持ち上げ、生殖神話に道を開ける結果になってしまってるんである。

変に賢ぶったりしようとせずに普通に考えてみて欲しいわけですよ。一日の内にあなたは一体何回生殖してどれぐらい生殖に時間を割いてますか? まぁ多い人は二回三回ヤって三時間! とか言うかもしれんがそんな人でもスマホゲームをしている時間がそれより長いということは大いにあり得るし、避妊してヤっているならそれは遊戯としてのセックスであって生殖とは言えない(遊戯としてのセックスならレズでもゲイできるからだ)。

日本人の週平均生殖回数は知らんがおそらく微々たるものである。それ以外の時間を我々は小便をしたり風呂に入ったり仕事をしたりゲームをしたり漫画を読んだり眠ったりネットを見たり掃除したり食事したりとそれはもう様々なことを行っているわけで、その総体が人間の生活なら、生活の大半は仮に生殖と関係するにしても(たとえば恋人と映画を見る行為は生殖の成立に寄与するかもしれない)生殖「ではない」行為によって占められているのである。ゲームの進行の方が生殖なんかより全然大事という人は決して少なくないはずだ。

それなのにどうして生殖スキルごときに特権的な地位が与えられているんだろう。おかしくないすか? ま、みんなおかしいと思わないんだろうな。生殖がかくも神聖視されている理由は不明だがもしかしたら家族の神聖視と関係しているのかもしれない。俺の数十年に及ぶ日本部族のフィールドワークによれば家族とか血縁関係はそれ以外の関係と区別される特別な関係らしくこの特別さを日本語では絆などと呼ぶ。同棲しているカップルが住居を変えずに籍を入れたらまったく同じ生活をしていても次の日からこの二人は家族になる。

だから? 完璧に「だから?」だと思うのだが結婚の副次的な効果である経済的な利点などを度外視すれば(だってそれが結婚のメイン効果なら部族社会とかで男女の婚姻制度が成立することはないので)これはとても意義のあることだと一般には考えられているらしい。昨日と今日でまったく同じ生活をしていてもその間に結婚とかいう低確率イベントが入ると二人の友好度がアップして絆関係が生まれるのである。絆関係になると生殖イベント発生率がかなり上がるから育児ルートを遊びたい人なら是非ともこれは狙いたいところだ。

馬鹿馬鹿しい。そりゃ確かに人間社会なんか法律とかいう紙に書かれた適当な嘘をみんなが本当だと信じる狂気によって維持されているんだから結婚によって人間が変わるなどという虚妄がまかり通るのもさもありなんではあるが…いや、そんなことが言いたいんじゃなくて、生殖幻想の背景には家族幻想があるし、家族幻想の背景には生殖幻想があって、この幻想は互いに傷をなめ合うようにして共依存的にかろうじて維持されているんだとかそういうことが言いたかった。なぜ生殖をするのか。そりゃ興奮したらヤリたくなりますから自然の摂理です。しかしヤリたい欲を満たすのなら避妊しての遊戯セックスでもいいわけだから自然の摂理は「生殖」にあるのではなく「性欲」にあると言った方がいいだろう。この観点に立てばレズもゲイもバイもトランスもみんな自然な存在である。

ところが生殖神聖派はこの分離ができない。生殖と性欲を同一視している。昔々の社会ならばそうだとしても今日では文化の成熟やテクノロジーの発達によってこれは完全分離が可能であるし現にされている。それは娼婦という性欲に特化した職業が成立した遠い昔には既にされていたのであって、昨日今日起こった変化では全然まったくないのだから生殖と性欲を一致させるための性モラルの回復を訴える復古主義の立場に立つならなら邪馬台国ぐらいまで戻らなければならないだろう。戦前回帰とかガチに最近すぎてウケるレベルである。

さて生殖から剥ぎ取られた性欲は存在理由を失うように性欲から切り離された生殖もまた存在理由を失う。気持ちよくない生殖なんてしたい人、いるんすか? 実際は大抵の生殖は気持ちいいわけだが、気持ちよさを追求すればぶっちゃけ生殖目的からはどんどん離れて行かざるを得ないだろう。後ろの穴が超興奮するという人はいても後ろの穴で妊娠できる人はいない。そこで利用されるのが家族なのではないだろうか。家族は生殖によって接続された共同体である。しかし逆に言えばそれだけの接点しか持たない共同体である。それしか接点がないからこそ、家族は生殖を必死で護ろうとする。真核生物に取り込まれて共生を始めたミトコンドリアのように、ここで生殖は自己の必要性を家族にバニラトラックも真っ青のアゲアゲテンションでアピールするのだ。そして生殖は家族の神話になるのである。家族は生殖の居場所になるのである。

現代保守の根源的な不安はこうした家族と生殖のそう長く続きそうもない共依存の関係が、家族は多種多様な家族以外の共同体の誘惑によって、生殖は多種多様なそれ以外の殖行為の参入によって、崩れてきているように見えることに由来するんじゃないだろうか。仮に人間に共同体が必要だとしても家族に代わる共同体は学校の友達とか仕事の同僚とかSNSの相互フォロワーとかオンラインゲームのフレンドとかいくらでもあるし、対面は無理という人でもネットなら簡単に共同体に加わることができる。

生殖の方はそもそも性産業がこれだけ成熟しているのだから家族神話が解体すればそこに積極的な意義を見いだせる人はそう多くはないんじゃないだろうか(大げさに「種の保存」とかバカげたことを言うのも故無きことではない。保守政治家自身がもはや家族神話を信じられていないのだ)と思うが、それに加えてゲームだ映画だ音楽だお絵かきだブログだと人間がやるべきことが山とあるのが現代だし、一世代しか残せない子作りよりも自作の絵や小説なんかをネットに放流した方がうまく行けば時代を超えて自分の文化的遺伝子が残るかもしれないと思えるだけ、生殖「欲」というものがあるとすればリアル生殖よりもこれを満たしてくれるだろう。もはや生殖なんかその程度の地位である。

どうせこの地球でさえあと何万年何億年か経てば地球の宿主たる太陽さんの老衰によって死んじゃうんだから種の保存なる理念にいかなる意義があるのか不明だし、人類の永遠の繁栄を夢想しているのだとしたらたかが霊長類ごときが思い上がりも甚だしい。せめてクマムシぐらいの耐久性能を身につけてから言って欲しいものだ。その意味では保守政治家こそサイバーパンクSFの古典『スキズマトリックス』みたいな人間の物質的改造を積極的に推し進めるべきだろう。自民党なんかは年功序列だし延命技術が発展すればサイボーグ菅義偉とかサイボーグ麻生太郎が何百年先もずっと大臣とかやれて天国なんじゃないだろうか。自民党のサイボーグ宣言にぜひとも期待したい。

さて、とはいえなのだが「でも家族は好きだし生殖も尊い気がするし人類はやっぱり絶滅なんかしてほしくない…」と旧来の共依存関係がもたらしたマインドコントロール的幻想を断ち切れない人はたくさんいるんじゃないかと思う。そういう人に観てもらいたいのはイタリアの残酷マエストロことルチオ・フルチ(!)の『荒野の処刑』という映画で、ニューシネマタッチの異色マカロニ・ウエスタンとして知られるこの映画は四人の脛に傷持つ人間たちが見知った「町」から追放されるという共同体の喪失体験から物語が始まる。性格もバックボーンもまるで異なるこの四人はLGBTがヘテロから区別されることで生じたように共同体からの追放体験のみで繋がっている。

その緩い紐帯は旅の中でほぐれ一人また一人と離れていくが、映画の終盤、どこだか知らんがなんか終末ムードの漂う冠雪タウンに一行がたどり着くと、追放共同体の一員であった腹ボテ娼婦はそこで産気づく。なぜか男ばかりの町の人間たちは彼らにとっては得体の知れないこの娼婦の出産を快く手伝ってやって無事子供が生まれる(と同時に娼婦は死ぬ)と、これぞ神の祝福だと言わんばかりに大喜びするのであった。

生まれた子供は町の男たちがたぶん(たぶん)大事に育てることになるわけだが、これこそが「種の保存」のあるべき光景と言えるんじゃないだろうか。朽ちていく一方の共依存的共同体に決然と背を向けて、多様な世界に自己を開いて受け入れていくことが、結局は生殖とか家族とかあるいは種とかの再生に繋がるのである。LGBTなる道具的概念を用いずともそのことを見事に描き出したフルチはまったく偉大な映画監督であった。おわり。

【ママー!これ買ってー!】


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ジャンル映画はスタイルだけ楽しめばよいというのが本邦における映画ファンの基本的態度なのでルチオ・フルチの映画もまたやたら景気よく血が出て人体が損壊するだけの映画として消費されてきたきらいがあるが、そんな適当に映画を撮る監督じゃないんだからフルチを舐めるのもええ加減にせえよと言いたい。舐めるのならフルチじゃなくてフル…自粛!

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