終末はわりと週末映画『グリーンランド ―地球最後の2日間―』感想文

《推定睡眠時間:0分》

あぁ週末じゃなくて終末だこりゃどうにもならねぇやってんで主人公一家の妻(モリーナ・バッカリン)と息子(ネイサン・ギャリティ)が終末アメリカのドラッグストアに入ると当然のように略奪の真っ最中なのであったがこの略奪者たちが無言で淡々と略奪しているのがなんかすごい刺さってしまった。そうそう、少し前にアメリカの最近の暴動が略奪に発展したときの映像観たんだけどさ、本当こういう感じだったんですよ。

混乱って意外としてない。暴力とかもびっくりするぐらいない。で楽しそうな感じでも怒りまくってるでもなくて無言、無表情、淡々なんですよね。だいたいの人がなんとなく後ろめたそうに視線を伏せながら静かに略奪してて、それで、でもときどき他の略奪者と視線が合うとちょっとしたアイ・コンタクトを交わしたり、あるいは譲り合いが生じたりさえする。グっときますよ。いや別に略奪を賛美してるわけじゃなくてさ、人間が空気に押されて悪いことをしているときの感じこれだよなーって思うんです。やっぱ悪いことをしてるって意識はどこかにあるからヒャッハーな感じにはなれないんだよね。他人に道を譲って妙に善人を気取ったりする。でもイザコザも当然発生したりする。この奇妙な空間。矛盾した人間心理。人間だなぁって思う。

ドラッグストアの略奪シーンに顕著だが全体としてディティールに異様な執着を見せる映画で、まぁお話的にはアメリカ映画のいつものアレっていう感じの彗星接近終末ものだからシナリオはとくにこれといった個性はなかったように思うが、そのくせ俺観測ではアメリカ終末パノラマの金字塔『ゾンビ』に部分的に肩を並べてしまった。やべぇ超おもしれー。いやこれは見事なアメリカ終末パノラマじゃないですか実にー。

最近はディザスター映画のジャンルって中国とかロシアとか韓国がすげー強くてハリウッドはヒーロー映画とかアクション映画にディザスター要素を混ぜたりはしてましたけどディザスター映画自体はそんな大したものを作ったなかったんですよね。だからこんなハイレベルなディザスター…ディザスターっていうかアポカリプスって感じのジャンルの映画ですけど、そういうのが唐突に出てきちゃってびっくりしたのなんの。で同時にアメリカの終末映画の何がすごいかわかりましたよ。やっぱリアリティが違う。絶対に絵空事なんだけど本当っぽく見せる技術がアメリカの終末映画を支えてる。

これは中国とかロシアがまず真似できないっていうか国がさせないものだし、韓国映画の『新感染』は続編も含めて終末映画の傑作だと思いますけど、でもあれはリアルな終末じゃなくて戯画化された終末ですよね。観客は作り物っていうのをあらかじめ頭に入れた上で楽しむ。でもアメリカの終末映画はたとえ部分的にでも一瞬頭から「作り物」が消える瞬間があって、『グリーンランド』はその瞬間がずっと持続してすごかったというわけです。

いやもうだってこえーもん。俺映画観てこえーって思ったことなんかホラー映画観ても基本的にないですからね。でもこれは怖かった。サスペンスの醸成が見事でそこらへんディティールの積み重ねが非常に効いているわけですが、とにかく小出し小出しにするんですよね。それは観客に提示される情報もそうですけど演技とかの面でもそうで。たとえばジェラルド・バトラー演じる一家の夫(妻とは別居中)が予定より早く妻の家にやってくる場面で、バトラーは最初玄関ベルを押して家に入ろうとするんですけど、少しためらってから自分の鍵で玄関を開ける。そのことの意味は明示されませんけどおそらくバトラーはそれが原因で家庭不和が生じた自分の浮気を悔いていて、と同時に自分を突き放す妻に心中密かに不満も抱いていて、ここは俺の家なんだって自分で自分に言い聞かせるためにベルを押さないで鍵を使ったんです。

またその少し後のシーン。バトラー一家はホームパーティの場で大統領アラートというのをスマホで受け取って、これは現代のノアの方船たる核シェルターの入場券なんですが、政府に選ばれた人にしか送られないので当然選ばれなかった人は不満どころではない(なにせテレビの報道によれば地球壊滅クラスの隕石衝突の可能性が出てきたわけだから)。ホームパーティに来ていた近所の人がそのことを知ったときの微妙な反応!

これはめちゃくちゃリアルでイヤァな空気出てたなー。面と向かってバトラーとか妻のモリーナ・バッカリンを怒鳴りつけたりとかは誰もしないんですよね。「え、なんで二人だけ?」とか言うときも明らかに二人に対して言ってるんですけど波風立てたくないから表面上は友達とかに向かって言う。で「ちょっと俺たちも家で確認してみようか」とか言って一旦ノーマル速度で家帰るの。

あるわこれー。めちゃくちゃあるだろこの微妙な感じこれー。うわもうなんか俺この場にいた気がしてきたわー。あー隕石衝突で俺死んで今見てるこの世界は死後の夢なのかなー。この平和ボケフィルターの発動したご近所さんたちもいざバトラー家がシェルターへの飛行機が待ってる空軍基地へ車で向かおうとするとさすがにちょっと理性が効かなくなってきて一緒に連れてってくれとか懇願するんですけど、錯乱までは行かないんだよね。それも例の略奪シーンと一緒で、かなり切羽詰まってきても壊れることのできる人間ってそんなにいない。「どうせ人間堕ちきれるほど強くない」の坂口安吾じゃないですが。

だからそこが切なくてねー。選ばれた人しか乗れないから無理だよってバトラーは同乗をせがむ仲良しご近所さんにごめんなさいするんですけど、それでさ、ご近所さん引き下がるんですよ、力なくグッドラックって言いながら。絶対そう思ってないよね。自分の命がかかってるんだからそんなの内心では諦めきれるわけないんですよ。でもグッドラックって言ってバトラー家をただ見送ることしかこの人はできない。別の人はもっと激しくウィンドウを叩いて懇願したりする。また別の人は遠くから微かに軽蔑の念を滲ませて一家を眺めたりしている。そういう細かい人間描写が本当に素晴らしい。

それから物語はバトラー家のアメリカ終末巡りへと移行していくわけですが行く先々で遭遇する光景の一つ一つが無いんだけれども「あるなー」の連続。終末っつったって目の前に隕石が降ってくるまではぶっちゃけ昨日と風景変わらないわけだからいまひとつ緊迫感が(映画ではなくアメリカの町に)ないっていうのがリアルなところで、遠くのどこかに降り注ぐ隕石をツマミに貧乏アパートの屋上で酒パーティをやってる貧困層っぽい人たちを見れば「俺も終末が来たらこんな感じだろうな…」と思い、バプテスト教会の中から終末に似つかわしくない伸びのいい歌声が聞こえてくれば「俺も終末が来たらこの歌声にふと足を止めているな…」と思い、自分たちは避難対象者じゃないのにシェルター避難者のために淡々と各種の職務をこなしている空軍基地の軍人たちを見れば「まぁでも俺も結局は明日終末が来ても普通に出社してるんだろうな…善意とかではなくて単に惰性で…」とか思い、終末映画のくせに身につまされ感がハンパない。

しかしそこは終末映画ということであるある過多の終末観光にバイオレンスや破壊…それもちょっとやそっとの破壊ではなく都市壊滅規模の破壊である…が突発的に巻き起こる。その爆発力がまたすごく隕石落下もそうなのだが空軍基地での民衆の反乱などごく短いシーンではあったが『28週後…』の防衛線突破シーンを思わせたほど。それがいかにすごいかは伝わる人にだけ伝わればいいので詳述しないが、まぁ要するにさっきまで親身にしてくれた軍人さんたちが銃とか携行してるからとはいえ蜂起市民集団を躊躇なく銃撃し始めるわけですよ。暴力表現自体はマイルドだけれども軍とか国家の本質がそこで一気に露呈して怖かったね。

でも、そんな騒ぎがあったのに基地から車でちょっと離れると街はまったくいつも通りの静けさで、たまに見かける略奪とか空軍基地へと向かう人たち(そのさり気ない見せ方がイイんだよ)がなんとなくの異常事態を知らせはするが、それ以外はやはりいつものアメリカにしか見えない。ディティールの積み重ねによる終末のリアリティと静と動の極端なコントラストが醸し出す終末の日々にあっては何気ない日常風景すら崩壊の不安を煽る恐怖映像と化す。あるい逆に、空に輝く破滅的な彗星の母天体は禍々しさよりもむしろ神々しさを身にまとって、こんな終わりも悪くないと思わせてくれる。

安全なものが危険で危険なものが安全だ。世界はすっかり反転してしまった。終末映画の面白さが見知った世界がまったく違うものに変貌してしまうことの怖さにあるとすればこの映画は見事に成功している。欠点としてご都合主義的だとかある場面での軍人の判断が適当すぎないかという声もあるようですが…いやたぶんね、本当の本当に終末が間近に迫ったらそこは規則より自分の倫理感を優先させることってわりとあると思いますよ。どうせ死ぬってわかってんなら人に感謝されて死んだ方がなんとなく気持ちいいでしょ。東日本大震災の時だって身を挺して避難放送続けた役場職員だかの人がいたわけだし(隕石落下で壊滅した街の映像も真に迫っていて思わず火の海になった気仙沼を連想してしまった)

案外人間そんなもんなんですよ。悪くもなれないし善くもなれない。状況によって悪人になったり善人になったりする。終末の到来に対してできることなんかなにもないからなんとなくの日常を続けながら、ちょっとだけ略奪したりちょっとした人助けをしたりちょっとだけ感傷に浸ったりする。目下のところの関心事はぶっちゃけ隕石よりも家族関係をどうするかとか友人宅でのポーカーとかそんな卑近なものだ。

アメリカのディザスター映画は非日常を売り物にするジャンルであるからこういう日常性をメインに据えた映画は珍しいかもしれない。俺がこの映画を見てロメロの『ゾンビ』を思い出したというのは『ゾンビ』が終わりなき日常としての終末を描いた映画だったからで、その独特の視点が『ゾンビ』をゾンビ映画のスマターピースにしているとすれば、『グリーンランド』もディザスター/アポカリプスのジャンルのマスターピース候補ぐらいにはなってもよい。

とまぁそれぐらい、超おもしろかったのです。あんまバンバン街がぶっ壊れるような映画じゃないのでそういうのを求めると物足りないかもしれないけどね。

※シェルター入場券代わりのリストバンドを白人オッサンが奪おうとする場面があるが、アポカリプス映画では定番展開とはいえこのへん良かったのはいざ終末が近づいてパニックになるのは中途半端に金とか地位とか持ってる白人中間層とかで、一見パニックを起こしそうな元から持ってない貧困層とか逆に超金持ちの連中とかは案外パニックにならないと喝破しているところ。前々回のアメリカ大統領選でもその結果を受けてアメリカ社会の課題として浮上したひとつは没落を恐れる白人中間層であった。

【ママー!これ買ってー!】


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というわけでバージョンがいくつもある『ゾンビ』の中でも最も日常性を重視したこのバージョンを。

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