【ネッフリ】『攻殻機動隊 SAC_2045』シーズン2感想文(ネタバレ途中から)

《推定ながら見時間:全12エピソードトータル15分》

凹んでる。出来が悪かったからではなく出来が良すぎたから凹んでる。もちろん細かいツッコミどころは色々あるだろうがシーズン1に比べたら何倍も面白いし、面白いなーどうなるのかなーとドキドキしながら見ていたところであんなラスト2エピソードを持ってこられたらそりゃあーた凹むしかない。これがつまんねぇアニメだったらケッこんなのポストヒューマンSFの先駆け的なあれのパクリじゃねぇかで済んじゃうけど面白いんだもんなぁ。しかもさ、そのラストって少なくとも攻殻SACの新作はもう作られないだろうってことを示唆するものなんです。最初の映画版と原作版のラストを踏まえて…危ない! ネタバレ領域に入るところだった! まぁ俺としてもネタバレありあり語りたいのは山々だがそれは一応後に回すとして、まずはネタバレなしで一歩引いたところから感想を書いてみよう。

シーズン1よりずっと面白いというのは要はシナリオが遥かに良くなった。カメラワークとかアクション演出もシーズン1に比べて全然洗練されているのだが(どんだけシーズン1ダメだったんだよ!)、それを活かすのはやはりシナリオだ。状況説明と設定開示に終始して全エピソードトータル5時間ぐらいあるのに見せ場らしい見せ場が僅かしかなくしかもそれも面白くなかった(ついでに言えば9課のキャラもなんか前シリーズからズレてるように感じられた)シーズン1と違ってこのシーズン2はおそらく海外ドラマの作劇を相当真面目に研究したんだろう、各エピソードが見せ場に次ぐ見せ場の連続、エピソードごとに視点をコロコロと変えて物語の全貌を掴ませないまま、シーズン終盤の終末戦争の危機へとなだれ込んでいくサマは一気見不可避。

その怒涛の流れの中でシーズン1ではほとんど前景化しなかった「人間を人間と定義するものは何か?」とか、「もし人間よりも高度な知性と倫理観を備えた存在が誕生したら人間社会はどう変化するのか?」といった『攻殻』っぽいテーマが浮かび上がり、かつ、かつ! エモーショナルな人間ドラマの側面まで持ち合わせているのだって大絶賛じゃないですか!! そうだよ大絶賛だよだってシーズン1が本当にさぁ…みなまで言うなだが、その最低期待値からこのレベルのSFアニメを急に持ってこられたらそりゃ熱烈に褒めるしかないから基本的に。

プリビズプリビズとシーズン1を見た時には独特の3DCG表現(須田剛一が『キラー7』とかでやってたようなやつ)をバカにしておりましたけれどもシーズン2は絵のレベル自体も上がったのかもしれないがまぁ、ねぇ、ストーリーが面白いから絵がどうとか気にならないし、それにこのエンディングならこの絵で正解。そうですなぜなら…ダメだこれ以上は我慢できん以下ネタバレあり感想に移行!

ラストエピソードが難しいという声をネットでチラホラ目にした。俺は日本語字幕付きで観ていたのだがたぶんこれが難しいと感じる人は字幕なしで観ていたんだろう。この回の字幕だけ実はちょっとした仕掛けがある。ポストヒューマンの中学生が少佐と話すときに、彼は電脳通信とぼそぼそ肉声の両方で同時に話すのだが、字幕はメイン音声である電脳通信の会話ではなく、それとは異なることを言っている肉声の方を画面に表示するのだ。聞こえてる声は電脳通信、でも字幕に出るのはぼそぼそ肉声。ラストエピソードのキーワードとなるダブルシンク、二重思考とはつまりこれなのである。

伏線となるのはエピソード6ぐらいで突然挿入されるトグサの9課以前の記憶だ。トグサはなんか変な武装した教団みたいなところに潜入捜査をしていて、それがポストヒューマンのガキの見せるヴァーチャルリアリティだと気付いている彼は、あぁそうだそうだこんなことが昔あったよなとか思う。ところがどうも腑に落ちない。潜入捜査がバレそうになったヤングトグサは同じく潜入捜査官の疑いをかけられた別の男を撃ち殺して潔白を証明するよう組織の人間から迫られるのだが、保身のために他人は殺せぬとヤングトグサは咄嗟に機転を利かせて男と一緒にその場から逃げ出す。

しかしどうやって逃げたのかは思い出せない。こんなに強烈っぽい体験なのにどうして思い出せないのだろう。それはおそらくトグサの願望が作り出した模造記憶だからである。そうと明示されることはないが思うにトグサは男を殺して自分の身を守ることを選んだのだ(あるいは男ではなくトグサが森に逃げ込んだ)。そんな嫌な現実は受け入れたくない。だからトグサは男は本当は組織の人間だったという自分に都合のいい別の記憶を作ることを選んだのだ。二重思考。変えられない一つの現実を、そうと認識しながらも、それとは異なる、自分にとってより都合のいい形に認識し直すこと。

ポストヒューマンの基盤となるAIは二つの命令を与えられた。一つは戦争がなく人類全体が繁栄できること、もう一つはそうでありつつアメリカだけが利益を享受できること。この一見矛盾するように思える二つの命令をどう遂行すべきか。まぁアメリカ帝国を作れば解決するじゃんというツッコミもあるが、そのツッコミは読んでいる人に二重思考で消してもらうとして、AI=ポストヒューマンの出した答えは人間の認識を二重化することなのだった。

一人一人が世界を自分の都合のいいように解釈すれば争いなどなく世の中は平和である。俺がテメェ死ねバカといきなり通行人に凶言を浴びせかけたとしても、摩擦係数ゼロの世界では「テメェ死ねバカと言われたような気もするけどでも気のせいで本当は今日も天気がいいですねと言ってくれたんだなありがとう見知らぬ人」とかなんとか認識してくれるに違いない。そもそもそんな世界では誰かにテメェ死ねバカとか言いたくなることもないだろう。俺もまた俺の身に降りかかる様々な災難をストレスのかからない別の形に認識し直してしまうからだ。

なんだか宗教じみていて気持ち悪い世界ですねぇ。でもその世界は確かに平和だ。誕生してこのかた戦争ばかりしていた人類がついに戦争をしなくなったのだから、それは人類の進化なのかもしれない。ラストエピソードにおいて少佐が一人だけ二重思考を回避できた理由はSACらしく情緒的でどうかと思うが、まそれはいいとして、これは原作と映画版のラストの反転構図である。少佐が電子生命体と融合することでただ一人進化を遂げて人間社会を飛び出した原作と映画版に対して、こちらは人類全体が進化を遂げる中で少佐だけは進化を拒む。そしてバトーにこう言い残すのだ。「こんな人間もいたことを覚えておいて」。

二重思考はディストピア小説の大古典、ジョージ・オーウェルの『1984』に登場するタームであり、ポストヒューマン中学生が自身を『1984』の独裁者を指すビッグブラザーになぞらえていたことから、作り手がそこに少なからず否定的なニュアンスを含ませていることは明白だ。だから少佐は最後、二重思考を受け入れたバトーにすべてのきっかけとなったAIのコードネーム(それもまた『1984』のもじりだ)を告げる。その名はおそらくバトーの認識の外にあるだろう。もしそれを認識してしまえば自分が二重思考をしていることに気付いてしまうからだ。少佐は最後の人間として2045年の1984年から去った。けれどもいつか、バトーもその後を追うものと俺は信じたい(たぶん作り手もそう信じさせたいだろうし)

最後まで観てもいくつかの謎が残る作品だったので俺なりの解釈をメモ的に書いておくか。郷愁ウイルスはどうやって9課に入り込んだか。これはたぶんあれじゃないトグサがタバコ屋からかけた電話を通してじゃない。だってネットは遮断されてるけどたった一台の固定電話だけ通じてるなんて嘘っぽいし。

ポストヒューマンが人類より頭がいいのはわかるけどなんであんなに無駄に強いのか。これははいたぶんご都合主義です。元々Windows95の入ってたオールドパソコンを急にWindows10とかにアップデートしても動くわけないだろって思うのでここらへんは米軍の開発してた超先端素材義体を盗んだとかそういう理屈がほしかったよなー。っていうか謎だよね、ポストヒューマンめっちゃ銃弾とか避けるとかそんなの最初の戦闘でもうわかってるんだから漁師みたいに網投げて捕まえればいいじゃん、網。原始的な方法だがたぶんかなり効果あるぞ。原始の知恵をナメたのが今回の人類の敗北の理由だね!

そして最大の謎、Nとは何か。これはあれでしょうあんまり意味とかはない一種のマクガフィンじゃないですか。まぁいろいろなものの頭文字ではあるんでしょうけどね。Nostalgia(郷愁)、Nuclear(核)、Null(空っぽ)、それに多少苦しいがNeoliberalism(新自由主義)。最後のはなんで入れたかっていうとトグサがジオシティの縁日を歩いていたら女子高生に「こいつNぽだ~!」って言われるじゃないですか。あれ俺は生活保護受給者を揶揄するネットスラングの「ナマポ」のもじりじゃないかと思うんすよね、シーズン1で生活保護の話も出てきてたし。

ジオシティに集まったN=レイディストって要は新自由主義テロリストなんですよ。あの人たちは競争原理を深く内面化して自分の利益を最大限追及することしか興味がない、だから一人一つの武器を持って既得権益層なんか襲撃したりする。で自助できずに公助とか共助を求める弱い人なんかは弾圧するわけ。お前は自分の利益を追求してないばかりか他人に寄りかかろうとしてるじゃないか! って感じで。

この人たちはポストヒューマンAIの二大行動原理のうち「米国だけが利益を享受する」っていう面を(抽象化して)象徴する人たちで、でも二重思考を受け入れてるからもう片方の面の「(それによって)人類全体が繁栄する」もまた信じてる。それがNにNeoliberalismを加えた理由。皮肉だよね、新自由主義を極限まで推し進めると『1984』的な全体主義社会ができあがっちゃうっていう。こういうシニカルな社会風刺はSACらしいところだ。

それにしてもノスタルジーとはなんだろう。なぜノスタルジーをポストヒューマン中学生は自分たちの旗印としたのか? そこで閃いたのは原恵一の『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』。あの映画ってほら、ノスタルジーのニオイにやられた大人たちが子供帰りして現実社会を放棄する話じゃないですか。あれだって二重思考の話だし『1984』的ディストピアの話だよね。ひろしがさ…もうあそここうやって書いてるだけで泣きますけど、自分を万博に来た子供だと思い込んだひろしにしんちゃんが「父ちゃん、なにしてるの?」って声をかけるところ、めちゃくちゃツライじゃないですか! 大人の自分なんか忘れてずっとあの頃の記憶の中に生きていたいじゃないですか! だけどそんなもの二重思考なんだって、父ちゃんは父ちゃんなんだってしんちゃんは足のニオイで無理やり思い出させるんだよ!

まぁだからそういうことじゃないすか。現実を後退させるものとしてのノスタルジーをポストヒューマン中学生は二重思考化のカギと見たわけです。シーズン2では新キャラ江崎プリンの思いがけない過去が明かされるが、シーズン2の中ではいささか浮いたそのエピソードは過剰に泣かせる作りになっていて、タチコマがみんなで泣いたりするからそんなもんこっちだって泣くしかないが、ノスタルジーと二重思考の結びつきを思えばこれはある程度作り手の意地悪なのかもしれない。一度死んだプリンは脳殻もない疑似人格の完全義体として再生するが、そのせいで二重思考を植え付けられなかったとポストヒューマン中学生は語る。もしプリンに二重思考ができていれば、彼女は一家惨殺の過去を無かったことにしたんじゃないだろうか。二重思考が本当に必要かもしれない人に二重思考ができない皮肉。それはまたポストヒューマンの目指す世界も完璧ではありえないことを示すものでもあるだろう(どうせ疑似人格なんだから過去なんかデリートしちゃえばいいんだけどさ)

まぁそんなところか。いや~シーズン1を観た時にはこんなにひどいコンテンツの無駄遣いがあるかよぐらいに思いましたけれども二年の充電期間は超無駄ではなかったね。SAC完結編として見事な出来栄え、SFアニメとしても近年屈指の傑作ではなかろうか。そりゃまぁこの世界には米国と日本しかねぇのかよ中国とかロシアとかどこいったんやとか色々思うところもあるけれども、でもいいんです終盤の戦闘シーンは超燃えるしすごいベヨネッタみたいなポストヒューマンも出てくるしね。それは別に評価の理由じゃないよベヨネッタは!

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用語は『1984』に多くを負っている『SAC2045』だが、とくにシーズン2中盤からの展開はポストヒューマンSFの古典的傑作『ブラッド・ミュージック』の影響がかなりあるように見える。ちなみにこれは瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』の元ネタでもある。

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