よくわからんが面白い『零へ』感想文

※予告編は見つからなかったので伊藤高志の初期作品をマッシュアップしたMETAFIVEのPV置いときます。

《推定睡眠時間:0分》

この映画の監督の伊藤高志といえばやはり実験短編の『SPACY』で前衛映画とあまり縁の無い俺でも知っているぐらいだからこれは相当な実験映画なのだろう。わざわざこのページまでグーグル検索とかして辿り着いた人には説明するまでもないと思うが『SPACY』は数百枚ものスチル写真を繋げて動いているように見せた映画で、カメラは体育館の中を後退していく、するといつの間にかカメラの前に同じ体育館のそこからの写真が貼ってある棒が立っていて、あたかもカメラがその写真の中から抜け出してきたように見える。体育館内を周回するように動くカメラの後退はなおも続いて再びカメラは写真から抜け出す、後退して写真から抜け出す、後退、抜け出す…これをどこまでも繰り返す。哲学の言葉に無限後退というものがあるが、まさしくそれを映像化したような感じ。

加えて面白いのは、この映画はすべてのカットがスチルで構成されているため、画面内の体育館に設置された体育館の写真と、それを撮るスチルの間に質的な差異がないことにある。しかし考えてみれば映画というのは静止画を1秒24コマに当てはめることで映像が動いているように見せる技術であり、その本質はスチルなのだから、『SPACY』はなにか特別なことをやっているわけではなく映画とは何かということをきわめて純度の高い形で提示しているに過ぎないとも言える。そしてそのことによって逆説的に、観客は映画とは何か定義することができなくなってしまうのだ。映画の中に映画があり、映画の中にそれを見る観客の視点(体育館の写真)があり、観客の視点の中に映画があり、観客の視点の中に観客の視点がある。映画とは何か? あるいは映画を見るとは何か? 俺の考えるところではそれが『SPACY』の面白いところだった。

その伊藤高志の新作『零へ』は上映が始まるとタイトルも出ずに舞踏家のドキュメンタリーと映画学科の学生のインタビューが出てきてこれはなんだろうと思ったらどうも『零へ』の出演者らしい。その後タイトルが画面に出てそこからはゆるやかなストーリー性を持った劇映画であるからこの冒頭ドキュメンタリーは『零へ』のイントロダクションとして撮られた『零へ』とは別の映像作品なのかと思ったが、どうもそうではなくこれも含めて『零へ』という一本の作品らしい。なるほどここでも『SPACY』から連綿と続くと思われる伊藤高志の主題が顔を覗かせているわけだ。ドキュメンタリーとフィクションの境界、撮る側と撮られる側の境界、カメラの向こう側とこちら側の境界を画定することなどできるのか? というような。

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ストーリー性があるといっても実験映画なので劇映画パートに台詞はないしどんな物語が語られているのかも曖昧な形でしかわからない。まず一人の女子学生がいる。彼女は野球場のスタンドから学生野球かなんかをビデオカメラで撮影していて、趣味なのか課題なのかはわからないが映画を作ろうとしているように見える。これを演じるのは冒頭のドキュメンタリーパートに出てきた伊藤高志の教え子?のような映画学科の学生なのだが、伊藤高志の影響を受けて課題作品にそのイメージを反映させたと語る(伊藤高志はその作品を見て彼女を主役に起用することにしたと映画内インタビューで言っている)彼女の発言は、その直後カットが変わり、インタビューがスクリーンに映写されている光景をカメラが捉えることで、さきほどまで強固だった現実の輪郭が少し歪み、はたして彼女の発言がリアルなものなのか、それともそれさえも台本に書かれたものを読み上げているだけのフィクションなのか、甚だあやしくなってくる。

学生は野球場での撮影を終えると今度は室内に移ってマネキンを撮影し始める。そのマネキンには野球場での彼女の映像がプロジェクターで投影されて、彼女の相棒らしい女子学生?がその顔面めがけてバットを振り抜くと、マネキンの頭部はグシャッとまるで本当に人体を打ちつけたような生々しい効果音と共にぽーんと後ろに飛んでいく。効果音と映像のギャップがこの作品の特徴のひとつで、以降様々な場面で画面内のアクションと似つかわしくない効果音が、その多くは人体の損壊をイメージさせる不吉な効果音がつく。

さて女子学生らしき二人が映画の撮影を進める一方でそれとはまったく関係なく冒頭ドキュメンタリーに出てきたもう一人の舞踏家のシークエンスも始まる。この老舞踏家はここでは写真が趣味の平凡な老人だが、家を出ようとするとゴトっと物音がしてそこを覗くと不気味な女の後ろ姿、その格好はドキュメンタリーパートで映し出された公演で舞踏家がまとっていた衣装と少し似ている。老人はこれをとくに気に留めず散歩に出て、通りかかった民家の風呂場(中では女性らしき人物がシャワーを浴びている)を盗撮したりするが、やがて彼の前に『カリガリ博士』の眠り男チェザーレを思われる風体の女が現れ、老人は怯えてるように遠ざかるが女はどこまでもついてくる。このあたりはホラー映画のようだ。

映画を撮影していた女子学生2人組はいつの間にか一人になっていて、というより、よく見ると衣装はさきほど映画撮影をしていた女子学生によく似ているが、演じる役者は別のようで、彼女はもうカメラを持つことなく、ただ女子学生が通った道を歩いたり、一心不乱に穴を掘ったりする。そこで彼女は老人と遭遇する。はたしてそれは何を意味するのか? まるでスチルのように、カメラは無人の街を捉えていく。それはこの世の終わりのような風景で、『零へ』というタイトルがなんとなく腑に落ちるところでもある。私は誰で、誰が私だったのか。私は何をして、何が私をしたのか。盗撮老人の前に現れる不気味な女の幻影は、あるいは女の前に執拗に現れる不気味な老人の幻影だったのではあるまいか? しかしそのすべては決定不能で謎はどこまでも謎のまま残り続ける。世界が零に溶けていくまで。

ざっと振り返ればこんな映画だっただろうか。長々と書いたが一言で言えば「よくわからない」。でも不条理ホラーって感じで面白かったです。おすすめ。

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こういうソフトってプレミア付いてるんだろうなと思ったが意外にも定価だった。

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