宮崎駿人間宣言映画『君たちはどう生きるか』感想文(ネタバレなしで安心安全)

《推定睡眠時間:15分》

宮崎駿の映画は『崖の上のポニョ』以降観ていなかったので何年ぶりなのかわからないがかなり久しぶりに観てあ~そうそうこれが宮崎駿だよな~と冒頭からちょっと感じ入るところがあった。あの走り。姿勢を崩しながらあたふた走り出してそれが前屈姿勢に変わっていくに従い走る人物の姿勢は固定され速度は増しカメラはそれと一体化して走り出す…これこそ宮崎駿のアニメーションだ。それはストーリーテリングや人物の行動に対しても言え、宮崎アニメの登場人物たちは最初こそどこか足元の定まらないふわふわしたところのある人間として現れるが、その物語の中で経験する様々な試練や次々迫られる猶予なき決断を通して、彼や彼女は足場をしっかりと固める。自分が為すべき事に目覚め、その行動にもはや迷いはない。

それは成長である一方で子供の持つ無限の可能性の喪失でもあるだろう。物語の開始段階では様々な可能性に開かれていたはずの冒険が何かしらの他に選択肢のない対決や決断に速度を増しつつ収斂していく。だから宮崎アニメではどんなに朗らかな物語でも、物語が終わりに近づくにつれて画面が悲壮感を帯びる。それを一言で言い表すなら宿命論的、ということになるだろうか。これは宮崎アニメの多くに高貴な血筋の人物が登場することと無縁ではないだろう。この『君たちはどう生きるか』もカギカッコ付きではあるが主人公は「高貴な血筋」を持つ者なのであった。

そうした面ではいかにもな宮崎アニメと見える『君どう』だが、宮崎アニメのストーリーを特徴付けていたあの悲壮感がどうもここにはない。というのもこの映画では物語の開始時点で開かれていた様々な物語上の可能性が最後まで放棄されることなく維持されるのである。いやむしろ、開始時点ではまぁこんなもんかなみたいな地に足の付いていた物語は、終盤に向かうにつれてどんどん拡散・拡大していってなんかわけわかんなくなっていくんである。ひとつの決断や対決に向けて物語が速度を増しつつ可能性を閉じていく従来の宮崎アニメのストーリーテリングは観客に強い緊張感とカタルシスを与えるが、これはその逆である。緊張もないしカタルシスもない。じゃあ何があるのかと言えば楽しさはあった。夢と戯れるような楽しさが。

やっぱあれだな人間歳を取ると映画で緊張したり興奮したりみたいのって求めなくなるんじゃないですか。それよりも面白い映像やわかりやすいギャグ、そこから生まれるゆるい楽しさ。これはもう古今東西変わらないと思うね。ほらだって黒澤明も新藤兼人もクリント・イーストウッドもデヴィッド・リンチもフェデリコ・フェリーニもさ、若い頃は強いストーリーで映画を引っ張ってた監督だって高齢になったらストーリーなんか二の次でユーモラスなイメージの羅列みたいな映画を撮るようになるじゃないですか。黒澤明は『夢』を撮った、新藤兼人は『ふくろう』を撮った、クリント・イーストウッドは『クライ・マッチョ』を撮った、デヴィッド・リンチは『ツイン・ピークス リターンズ』を撮った、フェデリコ・フェリーニは『アマンコルド』を撮った。これはどれも一般的な意味で緊張感や高揚感は希薄だけれども、素朴な楽しさに溢れたものです。

『君どう』もまたそういう映画だ。たとえばここには伏線などはない。たとえばここには観客に深読みをさせるための仕掛けなどない(でもする人は勝手にするだろう)。絵の面白さ美しさは充分にあるがアニメーションのもたらす快楽は序盤にはあっても物語が進むにつれて薄れていく。ほのぼのさせられるどうぶつはたくさん出てくるが手に汗握る悪党との対決もなければ哲学的な深みもない。そのようなものは血気盛んな若者が撮ればよいし観ればよい、とでも言わんばかり。宮崎駿がこれを最後に引退を表明しているのも分かる気がする。まぁなんだかんだ創作活動は続けていくんでしょうけれども。

終わりも始まりもないようなもやもやした映画が好きな俺なのでかような普通の意味で面白くはなさそうな『君どう』結構楽しめた。途中で寝てもどうせ夢の中をさまようようなお話だから理解に支障がないというのも俺的にポイントが高いところだが、なにより冒険物語っていうのがね。冒険といって勇者のような主人公がバッサバッサと敵をなぎ倒していくような血なまぐさいものじゃない。絵本の世界、メルヘンの世界、不思議と奇想にあふれた子供の想像の世界を旅するのだ。あぁ楽しいな、これはなんだか温泉に浸かってぼーっとしている時のような、リラックスした状態で浮世を忘れさせてくれる冒険物語なのだ。

最後に書いておきたいのはノブレス・オブリージュについて。金持ちハウスに生まれ学習院卒の宮崎駿はなんだかんだ「高貴な血筋」の人であり、『君どう』にはその幼少期の経験も多少なりとも反映されていると考えられるが、これまでの宮崎アニメでは高貴な血筋の人間は何を為すべきか、というテーマが繰り返し描かれてきた。アニメというか漫画だがその頂点はやはり原作版『風の谷のナウシカ』の最終回でしょう。そして『君どう』の終盤の展開は老境に達した宮崎駿のそれに対するセルフアンサーのようにも見える。これはノブレス・オブリージュの放棄ではないだろうか。宮崎駿自身、その出自からノブレス・オブリージュを強く意識してきたのかもしれないと思えば、『君どう』という映画は宮崎駿が大衆を先導し規範を示す高貴なる者の立場から降り、ただそこらへんの普通の人々と共にあろうとする意思表明でもあるのかもしれない。

君たちはどう生きるか、とは上から目線の説教なんかではないのだ。君たちはどう生きるか? という一老人の素朴な疑問なのである。自分はもう正しい生き方なるものを示すことはできないし、示す気もない。世界がどうなるかはわからないし、世界がどうあるべきと思い込むこともできない。それはある意味で宮崎駿の敗北宣言であり、同時に次の世代に希望のバトンを渡すことでもあるんじゃないだろうか。そうかそうか、しょうがないなジジィ、じゃあ俺ももうちょっとだけ頑張るよ。そんな風に観客の背中を少しだけ押すためのジジィからのプレゼントだと思えば、エモい映画では全然ないのだが、まぁなんだかグッときてしまいますわな。

内容に全然触れない感想になったので最後にひとつ内容に関係することを。ポスターになってるカッコいい鳥の正体、お前そういうやつなんだ!? って思いました。

※エンドロールの監督名表記は「宮崎駿」ではなく「宮﨑駿」だった。日本アニメのイコンとしての「宮崎駿」ではなく素顔の「宮﨑駿」が作った映画ですよというささやかなメッセージをそこから読み取るのは穿ちすぎだろうか。

※※少し鈍感であったりあるいは逆に物事を少し深く考えてしまう人のためにこの映画の主題を俺の解釈でネタバレにならないよう短く書いておくと、それは「辛いかもしれないが理不尽な世界から目を背けず、生きていきましょう。きっと楽しいこともあります」ということ。その点は今までの宮崎駿映画と同じ。

【ママー!これ買ってー!】


風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

先に映画版を観てから読んだので映画はあんな綺麗に終わったのに漫画版はこんな壮絶な方向に続くのかと驚いた。

Subscribe
Notify of
guest

4 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
匿名さん
匿名さん
2023年7月15日 4:34 PM

このふわりふわりとしたアニメの中に鈍く光る宮崎駿の存在感はフレデリックバックに通ずるかと思います
派手なエフェクト張り巡らされた伏線とバズワードを合言葉にみんなで推し活!てアニメではありませんがこういうのもたまには見ようやといえる作品ですね

りゅぬぁってゃ
りゅぬぁってゃ
2023年7月16日 4:00 AM

観る生前葬 だと思いました。
「風立ちぬ」でも遺言らしい要素はあったけど、今回はよりメンタルに深入りしてました。