こわいこわい実験映画『STALKERS』(2024) 感想文

《推定睡眠時間:15分》

いったいこれはなんなのか。映画が始まると電車の車窓風景と公園ののどかな風景に続いてどこかの狭くて細長いトンネルの場面になる(ここで画面は4分割のスプリットスクリーンに)。1人の男がそこにカメラを三台置いてなにやら撮影準備をしているようだ。この男は監督の古澤健という人で、以降、映像はこの三台のカメラで撮られたものになる。セットアップが終わると男は三脚ごとカメラをもってトンネルの奥へ向かって歩き出す「1…2…3…4…5…」15まで数えたところで止まるので15歩歩いたのだろうか。そこにカメラを置いて、その向きを歩いてきた側、つまりトンネルの入口側に向ける。光がまぶしい。露出を極端に上げているのかトンネルの外の風景は白い光で潰れてしまって何も見えない。その輪郭は緑や青のかかったぼやぼやっとしたもので、これがなんらかのエフェクトなのかホワイトバランスによるものか、それとも偶然そのように映ってしまったものなのかはわからないが、異様である。

入口側に向けたカメラはトンネル入ってすぐのところに置かれたもう二台のカメラも捉える。スプリットスクリーンはこのためにあったようだ。つまり、この映画は三台のカメラが捉えたトンネル内の映像を同時に一つの画面に映すのだが(4分割のうち一つはコピー)、それぞれのカメラは異なる場所に置かれて向き合っているため、4分割画面のうちのAカメの映像にはトンネルの入り口とBカメ・Cカメが映り、Bカメの映像にはAカメとトンネルの遠い出口が映り、という具合である。「1…2…3…4…5…」最初にAカメをトンネルの奥側へ動かした男は今度はBカメを同じように動かす。どこからか声が聞こえる。子供たちの笑い声や叫び声に聞こえるが、なんなのかはよくわからない。どうやら三台のカメラそれぞれに取り付けられたマイクが拾った音声がミックスされているらしく、同じ音の遠近や大小が入り混じったそのサウンドは、明瞭であるはずなのに不明瞭で音の出所を見失わせる。

「1…2…3…4…5…」トンネルの奥へ奥へと進むうちにカメラの位置関係もわからなくなってくる。もうどれぐらい進んだのだろうか。たまに、男はなにか言う。「〇〇トンネル、××なし」。これもまたトンネル内の反響と音声ミックスによって聞き取り不能。そこで、さきほどまで聞こえていたトンネルの外を通る車の音が、いつの間にか聞こえなくなっていることに気付く。「1…2…3…4…5…」カメラの反転。ゾッとしてしまった。何かがそこに映るような気がするのだ。もちろん反転したカメラに映るのは三台のカメラのどれかと遠くに見えるトンネルの入り口か、はたまた出口なのか、方向感覚が失われてそれもよくわからないのだが、ともかくその二つでしかない。トンネルといっても生活道路のようなものなので時折通行人も通るが、しかしそれだけのはずなのである。

でも、怖い。カメラを反転するたびに、何かがそこに入ってきてしまう気がするのだ。「1…2…3…4…5…」1人の通行人がABCどれかのカメラを横切ったが、見逃してしまったのだろうか、本来なら映るはずの別のカメラにその通行人の姿は見えない。まさか消えたということもあるまいに。「1…2…3…4…5…」遠い外の光から黒い塊が浮き上がって浮遊しながらカメラの方に向かってくる。なんのことはない、それは背中に配達バッグを背負ったサイクルデリバリーの人であった。露出過多の設定で自転車の部分が光に埋もれ、そのために宙に浮いているように見えたのだ。

「1…2…3…4…5…〇〇トンネル、異常なし」ようやく男の言葉が聞き取れた。彼はここで何かを検証しているのである。異常なしと言っているということは確認行為に違いない。しかし何を確認しているというのだろう。男の目が見つめる何かをカメラは捉えることがない。今、この男はどこにいるのか? 今、この男は何をしているのか? 今、この男は何を見ているのか? 長いトンネル探検もいよいよ終わりに近づいているようだ。光がまぶしい。トンネルの外の、まるでこの世のものではないような奇妙な光。そして形を成さない音。「1…2…3…4…5…」男とカメラは光に包まれていく…。

監督の古澤健はこれを編集しながらゲラゲラ笑ってたと言っていたのでその後の展開はユーモアのつもりなのかもしれない。1時間に満たない映画ではあるがトンネルの先に一体なにが待ち受けているのか、そのへんはまぁ伏せようが伏せまいがなんも変わらない気もするが、一応伏せておこう。だいたいそんなのは重要ではない。いや監督的にはそこは結構「これを見てくれ!」みたいなシーンではあったらしが、まぁ後半に関しては寝ているし、俺がこの映画を観て強い印象を受けたところは、そこではなかったのだ。

儀式めいたトンネル撮影、これがやたらと不気味である。イギリスの怪奇作家アーサー・マッケンの小説には神隠しや異界への迷い込みが度々現れるが、この映画にどうしようもなく漂うのはそのエッセンスであったように思う。反復される奇妙な動作を眺め混線したラジオのような環境音を聞くうちに見当識は失われ、トンネルの淡い暗がりの中で少しずつ現実感が消えていく。その先に見えるのがあの禍々しい、禍々しくも神々しい不可思議な光なのだ。俺はそれを見て思う。あの光の向こうにはマッケンが卓抜した仄めかしの技法で描き出した、あるいはタイトルからすればタルコフスキーが『ストーカー』で描くことなく描き出した、人智を超えた異界があるに違いない。そこはこの世とは異なる法則が支配していて、この世では許されないことが平然と行われているのかもしれないが、それは地獄ではなく天国で、人間の認知能力からすれば狂気の、しかし楽園なのだ…。

というようなことはこの映画の中では一切語られないし描かれもしないのだが、観ているとそんな想像を脳みそが勝手にしてしまう、明らかにそれは妄念のたぐいであるが、チャリンコデリバリーが宙に浮いた怪物に見えてしまったように、この映画は脳みそをバグらせ見えもしないものを見せてしまうのである。なんとおそろしい映画! でも撮ってる側はとくにそんなつもりで撮ってたわけではなく、編集でいろいろいじって遊んでたらなんかこんな感じになったとか。その狙っていなさが余計に、なんとも言えない気味の悪さを映画に与えているのかもしれない。なんといっても映像作品でいちばんおそろしいのは、そして同時に魅惑的でもあるのは、偶然撮れてしまったものだ。

脳の錯覚やカメラに偶然映り込んでしまうものをテーマにホラー映画を作る続けるのはJホラーの立役者・高橋洋で、その近年の代表作『霊的ボリシェビキ』は『STALKERS』よりもずっと作為的かつ技巧的だが、画面に入り込んだこわいものの種類はこの映画とよく似ていた(高橋洋はマッケンから大きな影響を受けた監督だ)。手法的にも内容的にもまったく違うものの超絶技巧の全手動コマ撮り撮影で映画マニアに衝撃を与えた実験映画監督・伊藤高志の初期作などもこの映画の画面からは連想させられる。思えばその一本『SPACY』も終わりのないように見える差異と反復の運動で観ているこちらを催眠術にかけて幻覚を起こさせるようなトリッピーな映画であった。

『STALKERS』はぶっちゃけなんも起こらない無予算の実験映画だが、これこれの名前にピンと来る人ならきっとその画面を観て狂うことができるんじゃないだろうか。これはこわい映画だ。ちっともこわくないからこそ、このうえなくこわいのだ。

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