《推定睡眠時間:0分》
映画が始まると二人の老婆が暮らしているその家なのだが、二人がベッドから起き上がって台所に入るとそこにはダビデの星が吊り下げられている(か、貼られている)。ここから分かるのは第一にこの二人がユダヤ教徒だということであり、第二にはこれがユダヤ民族についての映画だということである。『エレノアってグレイト』という邦題および原題『ELEANOR THE GREAT』からは見えないが、これはユダヤ民族の生き方とはなんぞやみたいなものをテーマとした映画なんである。
でこの二人の老婆、仲睦まじく暮らしていたのだがある日老婆の片割れが心筋梗塞かなんかで倒れて入院してしまう。もう片方の残された方がタイトルになっているエレノアさん。この人は物怖じすることなく自分の利益のためにウソをつくことにまったく躊躇いがない豪胆なご老体なのだが、さすがに相方が入院して一人で暮らすのは……ということでニューヨークに住む娘に招かれその息子と三人で一緒に暮らすことになる。
エレノアさんと娘はどうやら確執があるとまでは言わずともあまり仲はよくないようだ。よくあるヒューマンドラマであれば『ありがとう、トニ・エルドマン』のようにここから母娘の関係性の修復の物語となっていくところだが、そうはいかないのがこの映画のオリジナリティ。相方と一緒にこれまで自由奔放に生きてきたエレノアさんなのでお堅い娘とスマホばっか見てる孫との三人生活はなんだか息苦しい、そのうえ娘の方は遠からぬうちにエレノアさんを施設に入れたいらしい。
あーあ、つまんねぇな……他にやることも話す相手もないのでくさくさした気分を抱えて娘に言われたとおりユダヤ・コミュニティ・センター(JCC)に向かうエレノアさん。このJCCというのはシナゴーグも併設した文字通りユダヤ民族のコミュニケーションの場らしく、どっかの歌手が老人相手に慰問公演をやっていたのでこれはニューヨークのJCCの特殊事情かもしれないがデイケア施設的な側面もあるらしい。そこへ行ってもとくに楽しくはないエレノアさんであったが人違いで偶然ホロコースト生存者が体験を語る会に混ぜられてしまう。
エレノアさんはユダヤ教徒ではあるが人種的に言えばユダヤ人ではなく(か、あるいはユダヤ人だけれども両親がユダヤ教徒ではなかった)生まれも育ちもアメリカ中西部、結婚後におそらく夫がユダヤ教徒であったので合わせてユダヤ教に改宗したという人なので、当然ホロコーストを経験してはいない。しかし……ホロコースト体験を語る会で自己紹介と自らの経験を話すよう促されたエレノアさんは咄嗟にホロコースト生存者である相方が以前話していたホロコースト体験を自分の体験として語ってしまう。折しもその場には大学でジャーナリズムを学ぶお母さんがユダヤ民族という少女が来ており、エレノアさんの話に少女感激、以来二人は交流を持つようになるが、エレノアさんがホロコースト生存者であるというウソはいずれバレるに決まっており……。
このジャーナリズムを学ぶ少女、なぜエレノアさんに惹かれたかというと自分もお母さんを半年前に亡くしており、その悲しみをお父さん(非ユダヤ教徒)を始め周囲の誰も癒やしてくれなかったというのがどうもその理由のようだ。お父さんも大学の友達も誰も自分の悲しみをわからない。でもJCCで出会ったホロコースト生存者のユダヤ民族のおばあさんは自分の悲しみを理解して癒やしてくれる。少女がエレノアさんとの交流を通して自分の孤独や悲しみを癒やしていく一方、エレノアさんの方も少女との交流に生きがいを見出していくのだが、ここに見られるのは「ユダヤ人を救えるのはユダヤ人の同胞だけだ」という強い同胞意識、ないしはユダヤ・ナショナリズムである。
演出や展開は通り一遍という感じでとくに目を惹くものはないけれども、冒頭からダビデの星が映し出されるほどに強調されるこのユダヤ・ナショナリズムが面白い。これはあくまでもこの映画の場合はということではあるが、ユダヤ民族の同胞意識はこうも強いのか、というのは身近にJCCもないし私はユダヤ人ですとアピールする人もいないので実生活ではなかなかわからないことだから、なるほど勉強になるところ。ユダヤ人は困ったらユダヤ人に助けを。その繋がりは家族よりも知らない同胞の方が困ったユダヤ教徒の助けになるというほど強いものなのだ。
2023年のハマスによるイスラエルの越境虐殺以降、ニュースを見れば毎日のようにイスラエルの暴走としか思えない周辺国に対する攻撃の報道があるわけだが、それはイスラエルはおろかユダヤ民族マジョリティの生活様式や慣習を知らない俺のような人からすれば、どうしてそんな蛮行をと不思議に思うものである。けれども『エレノアってグレイト』を見ると案外それも不思議ではなくなった。イスラエルの周辺国に対する攻撃は一貫して「自衛」の名目の下に行われているが、それは建前であって建前でないようなところがあり、ユダヤ人を救えるのはユダヤ人しかいないという考えがホロコーストだけではないヨーロッパでの積年の迫害によって民族レベルで定着しているとすれば、イスラエルが傍目には暴走としか見えない「自衛攻撃」を続けるのも当然のことかもしれない。
「ユダヤ人を救えるのはユダヤ人しかいない」のであれば、ユダヤ民族以外の人々と交渉するのは単なる時間の無駄であるばかりか、つけ込まれる可能性さえある行為だろう(と、理解されるだろう)。したがってイスラエルは敵対する周辺国との交渉に関心を持つことがほとんどない。譲歩するという意志もほとんどない。どうせユダヤ人を救えるのはユダヤ人だけなのだから、国家または民族間対立にあっては、相手を屈服させる以外に交渉を行う意味はないんだろう。そのためイスラエルは強硬になるのであって、それはタカ派と言われる現ネタニヤフ政権だけの問題ではなく、「ユダヤ人を救えるのはユダヤ人しかいない」というユダヤ民族の同胞意識、ユダヤ・ナショナリズムによって導き出される必然なのである……という仮説がこの映画からは見えるわけだ。
ナショナリズムというのはまったく厄介なものである。なぜなら、ナショナリズムは悪い! と断言できれば楽なのだが、ナショナリズムは状況によっては明らかに有用だからである。ちょうどこのあいだ読んでいた権左武志という人の『現代民主主義 思想と歴史』にはこんな一節がある。「二〇世紀の近代ナショナリズムは、帝国主義と結合すれば、抑圧と侵略のシンボルを意味し、脱植民地化運動と結合すれば、逆に自由と独立のシンボルを意味するという相反する作用を及ぼしたと言える。だからこそ、近代ナショナリズムは、嫌悪や憎悪の対象にもなれば、称賛と願望の対象にもなるというアンビヴァレントな性格を持ったのだ」(217頁)。
ネタニヤフのようにユダヤ・ナショナリズムに則ってイスラエルの侵略的行動を正当化する人々にとって、ナショナリズムは未だイスラエル建国という未完のプロジェクト(イスラエル政府は現在もパレスチナ・ヨルダン川西岸地区への入植政策を続けている)を完遂するための「自由と独立のシンボル」なのだろうが、そのナショナリズムはイスラエルに侵略や攻撃をされるパレスチナやイランの人々にとってみれば「抑圧と侵略のシンボル」なのだろう。
2025年にイスラエル最大の同盟国アメリカで製作された『エレノアってグレイト』はこのナショナリズムの二側面のうち前者だけを映し出しているという点であまり思想的な深みはないし、ユダヤ・ナショナリズムがイスラエルの他国攻撃の源泉となる中であえてユダヤ・ナショナリズムを肯定的に描き、かつ同情を誘うように描くことは、現在の情勢下にあってはイスラエルの戦争の消極的肯定という政治性を帯びずにはいられない(そのことにこの映画の製作陣がどの程度自覚的だったかは不明である)
そんなわけでそう良く出来た映画という感じではないのだが、ユダヤ・ナショナリズムとは何か、というようなことはこれを見るとアウトラインが掴めるので、社会勉強になるという意味では面白い映画だったとおもう。