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俺が日本のなんか知らんけど偉い映画賞があるとしてその審査員でかつ表向きは民主的に受賞作が決定されるが実は俺には絶大なる権威があると仮定してその絶大なる権威による威圧効果で俺がこれはすごいと言った作品は他の審査員も追随してすごいすごいと評価する恥ずべき反民主的な仕組みが出来上がってしまっているのだとしたらこの映画は俺の一声によって2025年の日本えらい映画賞脚本賞受賞である。単純にめちゃくちゃ笑えるとか日本社会を捉える視線の鋭さというのもあるがその上でオリジナル脚本という点をやはり評価したいところ。昨今のシネコンにかかる日本映画は原作付きではないものを見つける方が難しいぐらい原作ありきなのにこの映画はシネコンにかかる予算規模の商業日本映画なのに監督・坂下雄一郎のオリジナル脚本でしかも社会風刺ネタの悲喜劇ときたもんだ。こんな映画が売れるわけがない! 売れるわけがない脚本でシネコン向け商業映画を一本つくったのがえらいので2025年度俺デミー賞脚本賞なのだ。いつのまにか俺デミー賞ができあがってしまった。
さてお話は金髪である。三十代に差し掛かった主人公のツイ廃事なかれ主義凡人中学教師・岩田剛典はある日学内で生徒たちの集団金髪事件に遭遇。聞けば黒髪以外の髪色の生徒にその髪色が地毛であることを証明する地毛証明書というものを体育教師に要求された茶髪の女子生徒がそれ以来学校に来なくなってしまったことに対する抗議ということでほーんそんなら髪色なんでもオッケーに校則変えたらええんやないのと外野的には無責任に思うわけだが校則を変えるにはいろいろと手続き的なものも必要だというのでただでさえ過重労働の先生たちはやりたくないしあと単純に生徒ごときの要求をそのまま呑むのはムカつくのでやりたくない、主人公もまた同じということでまぁこういうのは一過性のもんでしょとのらりくらりかわそうとするのだが、やがて事態は思わぬ方向へ、たかだか地方の一中学のどうでもいい校則を巡ってネット(ツイッターとインスタ)も世間(ワイドショー)も総理大臣(なんも知らんオッサンの単なる思いつきの放言)も侃々諤々となってさぁどうなることやら、である。
いやはや、もう爆笑。お上の顔色を伺って忖度で物事が決まっていくゆるふわ上意下達の日本式組織の不毛っぷりもさることながらその中で誰もがヨゴレ役を避けようと責任を押しつけ合う光景の滑稽さ、組織がダメならじゃあ個人はいいのかと言ったら当然ながらそんなわけもなく結局のところ自己の確立されていない個々人の幼稚さが大集結したものがこんなしょうもない日本式組織なのだから、組織化されていない生徒たちの金髪ムーブメントもとくに理念があるわけでもなく(たった一人を除いては)みんながやってるからとかそんな程度で世間の流れに応じて流行ったり廃れたりを行ったり来たり、学校組織もダメ、学校の生徒もダメ、それならもちろん学校の土壌たる日本社会がダメでないはずがなく、深刻な顔をしてさも自分たちは世を憂いているのだ人権問題を考えているのだというポーズを取りつつぶっちゃけ誰も金髪ムーブメントになんか関心はなく、そんなことよりもいかにバズるかということに関心があるし、どっかの知らない高校の一校則なんかよりも人気タレントの結婚話の方がよっぽど重要な大ニュースだ。こうも日本という国の全方位にケッとツバを吐かれたら笑わずにはいられないではないか! ちなみにこの映画は主人公のツイ廃のモノローグが多用されるのだがそのモノローグはだいたいこういうテイストである。
はぁ、ため息と苦笑いですねぇ。なんだかこんな風景を日常的に見てる気がするよ。現代日本で何か物事が変わるって往々にしてこういうことで、たとえ理念や信念を持って何かを変えようとする人がいるとしてもそれが共有されるなんてことはなく、なにせ理念や信念の共有というのはそれなりに知力も労力も必要なものだから、誰もそんなことはしたくない、でも「これをこうしましょうよ!」なんて言うと自分では何も重荷は背負う気が無い人たちがワッと集まってきたり一時的にそればかりを話題にして、その無責任な人たちの間で対話も議論も熟慮もなくなんとなく賛成反対の空気が出来上がって、その空気に他の人々はただ流される、そうやって物事が変わっていくのが現代日本社会ってもんじゃないですか。地毛証明書題材の映画といえば『ブラック校則』というのがあってこれも結構好きな映画なのだが、若者たちの正義感と連帯で世界は良い方向に変わっていくんだと爽やかに謳い上げる『ブラック校則』のポジティブさは同じ題材とはいえ『金髪』にはまったくない。世界はたしかに変わっていくかもしれないが、それは正義や理念によってではなく、ことに日本という場では結局のところ空気と同調圧力によってでしかないんである(と、いうのが『金髪』の厭世的な世界観なのであってこれは俺の主張ではありません!)
この諦観が映画のもう一つのテーマである主人公の加齢問題と繋がってくる。かつてエグザイル系のアイドルであった岩田剛典の自分はまだ若いと思い込んでいるが世間的には典型的な汚いオッサンであり自分は良識的かつ先進的な人物だと思い込んでいるが世間的には典型的な事なかれ主義のオッサンであるというこの自意識と現実の痛ましいズレにはめちゃくちゃ笑いながらなぜか涙が出てくるが、加齢とはすなわち諦めるということ、主人公はまだ自分は若くてなんでも出来ると思っているしツイ廃らしく自分が世界の主導権を握っていると思っているが、実際のところ自分にはさして可能性が残されておらず世界を振り回すよりも遙かに世界に振り回される側なのだと認めて受け入れること、それが加齢するということなわけで、主人公は最初それに抵抗しようとするが、金髪騒動によってその現実を突きつけられるわけだ。
切ない映画だ。とくに悲劇的な展開があるわけでもないし、登場人物の誰かがシリアスに思い悩むようなこともほとんどない、あっても喜劇の体裁は崩さないので悲しいシーンなんかないはずなのに、ていうかガッハッハと笑えるシーンばかりなのに、これは実に切ない映画だと思う。でもだからこそ社会と自分の現実を目の当たりにしての諦観の中でなんとなく生まれる本当にささやかな思いがけない交流や連帯意識は胸を打つ、と書けば大袈裟だが、まぁ、沁みる。口には出さないがぶっちゃけ結婚願望はある門脇麦が恋人でありそして結婚の意思はないというか真剣に考えたことのない岩田剛典に投げかける批判なんか爆笑ものなのだが(「てかさ、あのほらなんか名前わかんないSNSずっとやってるけどさ、それぶっちゃけ中年しかやってないからね? 任天堂法務部の有能さで盛り上がってるの中年男性だけなんだよ」)、三十代に入って枯れてきたそこらへんの普通のカップルがなんやかんやありつつもなんだかんだ共に歩いて行こうとする姿は、凡人に徹したふたりの好演もあってほんのちょっとだけ感動的かもしれない。
監督の坂下雄一郎という人は現代日本では数少ない社会風刺喜劇を本領とする人で地域振興映画に浮かれる方々を辛辣に皮肉った『エキストランド』や日本式の選挙と政治家に振り回される方々を辛辣に皮肉った『決戦は日曜日』を撮った人、基本的に辛辣なのでまぁこういうのはとにかく今の日本では絶対にウケないものでありますが、やっていることは『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ』(ノリの軽すぎる邦題だがアメリカの学園選挙文化に中年男性教師の自意識を絡めて皮肉った風刺悲喜劇の傑作)のアレクサンダー・ペインとか『ハッカビーズ』のデヴィッド・O・ラッセルと近く、最初の方に俺デミー賞がどうとかふざけて書いたが、もしこの映画がアメリカを舞台としてアメリカで公開されていたら実際にアカデミー脚本賞にノミネートぐらいはされそうな気配はないでもないので、絶対にこういうものがウケない日本であえてそれをやるという心意気が立派。こういうセンスと世界観を持った人は絶対に日本型組織の政治劇たるヤクザ映画のシナリオが上手いのでいつか『アウトレイジ』みたいなヤクザ映画を撮って欲しいおもうがそれも絶対に売れなさそう!