第39回東京国際映画祭(2026)に雑に行ってきた感想文

毎年、と言っても俺が東京国際映画祭に行くようになったのはほんの二三年前からなのだが、毎年思うのは東京国際映画祭もうちょっとフェスティバル感を出した方がいいんじゃないでしょうか。俺の映画祭参加はおそらく今日までなので最後に見たのはぴあフィルムフェスティバルのグランプリ受賞作上映ということになると思うんですが、上映後に監督(とたぶんキャストもか)登壇イベントがあったのに上映終了後にお客さん誰も拍手をしていなかった。こういう時は俺が最初に拍手をすることにしているが(だってせっかく作った本人がゲストで来てくれてるのに映画が終わって拍手がないというのは可哀相だろう)今回それができなかったのは上映作品が何本になるのかという告知が少なくともチラシであるとか会場の掲示物になかったので何本で上映が終わるのかわからず、場内の明かりが点いても「あれっ、もう一本ぐらいやるんじゃないの?」という感じで、そのまま拍手のタイミングを逃してしまったのだ。

これは上映作品が事前によくわからないとか上映終了後にゲストが来ますよ~という告知が上映前の共通録音アナウンスにしかないので「ほら! 今この会場に監督さんがいるんです!」というのが観客に伝わりにくいという映画祭運営の段取りの問題もあるのだが、それ以前に映画祭全体にフェスティバル感がないのでお客さんの熱量が低いということがやはり根本的な原因となっているように思えてならない。日本はただでさえ映画はむすっと黙って静かに観るべしという文化が根強い国なのだから、そんな国で映画祭をお祭りとして盛り上げたいのなら一工夫二工夫必要だろう。

あくまでもたとえばの話だが点在する上映会場の真ん中あたりに位置する広場かなんかで常時適当なゲストが映画に関する話をするラジオの公開放送をやってもいいかもしれない。夜限定とかになるかもしれないがDJを呼んで映画音楽テーマの屋外レイヴをやってもいいかもしれない。キッチンカーを呼んだり近隣の飲食店とタイアップして映画祭オリジナルの食べ物を提供してもらってもいいかもしれない。もっと手軽には映画祭のマスコットキャラクターを作ってその着ぐるみを着た人に上映会場の入口で手を振ってもらったりしてもいいかもしれない。スタンプラリーを実施してお客さんに上映作品毎の特製スタンプを集めてもらってもいいかもしれない。

これはすべてたった今思いついたことでしかないが、少なくとも言えるのは、映画祭を盛り上げる方法はたくさん考えられるわけで、こうした様々な施策を東京国際映画祭は打っていない、ということである。どういった施策がどの程度お客さんを盛り上げることになるのかはやってみないとわからないけれども、入る映画はお客が入るとはいえ(中国語圏映画などは人気が高いらしい)空席が目立つ回もあったので、一応の国際映画祭として、この盛り上がりの無さはぜひとも改善してほしいところ。みんなで盛り上がるから映画「祭」なのであって、運営者側も観客側も盛り上がりを追求しようとしないのであれば、それは祭りとは言えないだろう。そして盛り上がらないお祭りで得をする人というのは、おそらくほとんどいないのである。

と、一通り愚痴を吐き出したところで映画の感想。今年は7プログラム観てきてコンペ作は内4本。まぁこれも毎年思うことですがどうも東京国際映画祭のコンペ作というのは力強い作品が少ない、テーマなりコンセプト重視のいささかしゃちほこばった映画が多く、「これはスゴイ!」と思わせられる瞬間が観ててあんま無いんだよなぁ。結局そういうのも映画祭全体の盛り上がりのなさに起因するもののように思われるので、東京国際映画祭、来年は40周年の節目でもありますし、もうちょっと頑張って盛り上げようとしてほしい。もう神輿かつげばいいよ来年は神輿。海外からのお客さんも喜ぶだろうし。

魔法の星図(Magic Atlas)

コンペ作、スン・シュン監督。多彩な技法を駆使したアート・アニメで版画になったり切り貼りアニメになったりいろいろする。おそらく大多数手書きなので10年の歳月を掛けたというその労力は凄いなぁとか素直に思うわけですが、ストーリーは案外ありきたりな(それも意図的なのかもしれないが)児童ファンタジー、奇想的な絵の数々は面白いもどうにもメリハリがないというのもあって、見応えはあるけどあんまり面白くはなかったなぁ。

問題だらけの花嫁(The Difficult Bride)

コンペ作、ルバイヤット・ホセイン監督。これ製作国がたくさん書いてあるけど舞台はバングラデシュでいいのかな。結婚式を間近に控えた大金持ちの娘がいて、この映画の舞台となってるバングラデシュ(?)では花嫁は結婚式前の数日だか数週間だか邪気から守るために外出してはいけないみたいな風習がある。でも外出しないとフラストレーション溜まるんで花嫁が心身共にどんどんおかしくなっていく、というボディホラー。最近の映画だと内容的にいちばん近いのは『アグリーシスター 可愛いあの娘は醜いわたし』かもしれない。『スワロウ』とも似てる。で、あぁ、またそれか、と思っちゃった。女の人が受ける社会的な抑圧のメタファーとしての身体変容というのも『サブスタンス』ぐらい吹っ切れていれば映画として面白くなるでしょうが、『問題だらけの花嫁』の場合は単なるメタファーとして身体変容が描かれるので、映画的な面白味がない。ラストも『アグリーシスター』や『スワロウ』と意味するものは同じ。お金持ちの主人公とそのお世話をする下女の経済格差の話もちょっとだけ出てきたりするが物語の中でそれ以上発展しないので、ちょっと安易な映画だと思う。あと虫がたくさん出てきてキモい。

地獄が来たとしても(Even if Hell Came)

コンペ作、サムエレ・ロッシ監督。ファシストとナチスがイタリアを支配していた第二次世界大戦末期1944年冬のレジスタンス=パルチザンの北部山岳地帯での補給なし援軍なし連絡無しの孤軍奮闘の闘争を描くもの、と聞けばタイトルに地獄が入ってるし俺の感覚ではとても面白そうに感じてしまうのでこの映画を観るためだけに有休を取ったほどだが、主人公のパルチザン闘士が川辺で一息つくファーストシーンでのこの人のかなりぎこちない表情芝居にこれは失敗ではないかと直感が告げ、以降も形式的で味気ない会話、怒鳴り合うばかりの単調な芝居、当然ながら主人公の孤独な闘争が実を結ぶラストと、どこを取ってもテレビ映画的なチープさが拭えず、これはあれかなぁ、イタリアの人がむかしむかしこういうことがありましたと確認するための朝ドラみたいなものなんだろうか。なんか、再現ドラマみたいなもんとしてはいいんじゃないすか。

妹兄とマンホールの蓋(Sister Brother Manhole Cover)

コンペ作、ミルチョ・マンチェフスキ監督。全部で15本あるコンペ作の内4本しか観てないのでもしかしたら俺が観てない残りの11本がすべて宇宙映画史上の超絶大傑作である可能性も否定できないわけですが、まぁでもお味噌汁全体の味はお味噌汁の上辺をすくっただけでわかるわけですから、お味噌汁理論に則ればたぶん今年のコンペ作も例年同様あんまり面白くなかったんだろう。そんな中でこれはレベルが違うなおもしれーと思った『妹兄とマンホールの蓋』は北マケドニアのミルチョ・マンチェフスキという監督の作で、北マケドニアの場所もわからないしマンチェフスキという監督も知らなかったが、なんかこの人は1994年だかのヴェニチア映画祭に出品された『ビフォア・ザ・レイン』で金獅子賞ほか10部門受賞という快挙を成し遂げた監督とのことで、それはもうあれだなちょっとフェアじゃねぇっつーか他のコンペ作の監督は大概若手だけどこの人だけ既にデカめの実績のある名監督じゃん。じゃあその新作も面白いよそれは。面白くて当然。そうはもうしょうがないよ。

で内容的には赤貧によりマンホールだの銅像だのを盗んで日銭を稼いでいる妹兄のお話。兄妹ではなく妹の方が先に来るのはこの兄貴は知的障害があって妹が行動を指揮してるから。貧しくも楽しく生きてきたらしい二人だがある日の銅像盗みで兄貴がミスって大怪我をしてしまったから幸せ生活に大暗雲。そこから二人の血と汗と糞尿と精液にまみれた逃避行が始まるのであるが、その描写と展開がなんともパワフル、底辺妹兄の法も倫理も超越した決死の抵抗っぷりには人間の剥き出しの生を見る思いで、悲惨な物語のはずなのだが暗い感じにはならず、陽気なユーモアさえ漂うのであった。ちょっと今村昌平の重喜劇も思わせる世界観の映画だが核にあるのは愛である。ただしそれは平和で安全な愛ではない。主人公と兄の間にある絆は兄弟愛と呼ぶには濃密すぎるので近親相姦を思わせるし、映画の終盤で生じる愛の形は常人と俺にはなかなか理解しがたいものだ。けれども愛は愛なのだというわけで、死体とウンコだらけのドロドロ地べたを這いずり回った末に辿り着く愛もこの世にはあるのだというその映画的ホラ話には、大いに心を打たれてしまうのであった。

雪に埋もれて(Under Snow, 2011)

ウンリケ・オッティンガー特集の一本。むこ投げとかいう奇祭をやってる新潟の雪深い村を舞台にドキュメンタリーと歌舞伎・民話モチーフのフィクションを織り交ぜた作品なのだが劇中スマホを使ってる人が明確には確認できなかったので(ガラケーを使ってる人は確認できた)これいつぐらいに撮られた映画かな、ゼロ年代はじめぐらいか、と思ったら2011年と比較的最近(といっても15年も前だ……)だったので多少意表を突かれた。村での生活風景ドキュメントは面白いんですけどただやってることは基本的にダニエル・シュミットの『書かれた顔』と同じなんじゃないかという気もして、『書かれた顔』は鮮烈な美をたたえた傑作ですけどこちらの方は西洋知識人が求めるベタな「日本的なもの」をなぞることで満足した映画と見えた。それにしても、ウンリケ・オッティンガーという監督はベルリンを想像力の源泉とする都会派の人だと思っていたので、こういうベタなオリエンタリズム表象とか農村ノスタルジーみたいなのやるんだ、とその点ちょっと意外である。都会派の人だからこそ逆に都会にはないものとしてこういう風景を求めるのだろうか?

聴覚(hearing)

ワールド・フォーカス部門、レ・パオ監督。これはなんか凄かった。今年映画館で観た映画はたぶん200本ぐらいなんですけど、その中で一番衝撃を受けたし興奮もさせられた。だってもう冒頭から何やってるのかわかんないんだもん。映画祭のチラシには騒音測定技師の男が主人公とか書いてありますけどそれさえも映画を観てるだけではよくわからない。台詞は切り詰められて説明らしい説明はなく、シーンの繋ぎにはほとんど因果関係がないように見える。いったいこれはなんなのだ。次第に見えてくるのは主人公は母親を殴っていた父親に強く反発しており、自分もまた今は離婚している妻に暴力を振るってしまったことに罪悪感と嫌悪感を抱いているが、臨終が近くなった母親はまたお父さんに会いたいと言いだし……とかそういう人間関係なのだが、その人間関係から予期されるようなシーン運びに全然ならないのがこの映画である。

謎の青いライトが山の猿集団を怯えさせ夜の川ではどんぶらことガメラの甲羅のようなものが流れを遡る、花屋の人々は無言で奇怪なオブジェを作り続けてその近くにある村の飲み屋兼クラブでは老若男女がハードコアなデトロイトテクノ(的な)に合わせて日夜踊り狂う、人々は視線を合わせずゾンビのように立ちすくみ、いったいなんなんだこれはと混乱していれば、一転して山間の畑の時が止まったかのような風景と自然のオーケストラの美しさにうっとりとさせられる……が、これを騒がしい都会を批判し田舎の静寂を称揚する映画だなどと思ってはならない。なぜなら田舎移住しようかなぁなんてちょっと思っている主人公に当の農村の人がこんなことを言うからだ。この畑の静寂をあなたは素晴らしいと感じるかもしれません。でも私はこの静寂が怖い。畑で黙って仕事をしていると家でも黙るようになるのです。だから私たちはよく町のクラブに行って踊る……。

これを(相当偏った)映画史に位置づけるならテオ・アンゲロプロス、小栗康平、ツァイ・ミンリャン、アピチャッポン・ウィーラセタクン、それにデヴィッド・リンチとかに連なる作品ということにおそらくなるだろう。一言で言えば卓抜した映像・音響造形力に支えられた夢の論理が貫く映像詩なのかもしれないが、静寂の美しさと死の予感(そしてときおり挟まれるシュールな笑い)が同じ画面に同居するその独特のタッチにはなるほどへぇ映像詩ですねの一言を許さない迫力がある。SFもホラーもヒューマンドラマもごちゃ混ぜになって次にどんなシーンどんな音が来るのか予想できないから常に面白い映画だが、中でも終盤に登場するピクニックの場面は必見じゃないだろうか。ここはスゴイのだ。主人公の別れた妻が子供たちと見渡す限り何もないような草原でうたた寝をしているのだが、もともと曇天だったのに加えて霧が出てきてしまい、やがて妻と子供たちはその霧に包まれて見えなくなってしまう。平穏なピクニックの光景がポストモーテムの死体写真の如しものへと同じ画面の中で変貌してしまうこの場面のおそろしさは只事ではない。

※もう一つ観てきたぴあフィルムフェスティバル受賞作の感想は他のぴあ入選作の感想と合わせて別の日に書きます。

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