香港ミニ満漢全席映画『七人樂隊』感想文

《推定睡眠時間:0分》

名前を並べただけでクラクラっときてしまう。なんとサモ・ハン、アン・ホイ、パトリック・タム、ユエン・ウーピン、ジョニー・トー、リンゴ・ラム、ツイ・ハークがそれぞれ10~20分程度の作品を監督した香港満漢全席に等しいオムニバス映画である。発起人はジョニー・トーらしいがそういえばジョニー・トーは以前にもツイ・ハークとリンゴ・ラムの三人で90分の物語を30分ずつ分割監督した共作映画『強奪のトライアングル』を作ったことがあったから、みんなでわいわい映画を作るのが好きなのかもしれない。ジョニー・トー、やはり粋な映画人である。

粋なヤツらは肩肘張らないってわけでこの映画『七人樂隊』もユーモアとペーソスとどこか寂しげな幸福感に包まれた珠玉にしてメモリアルな一本となった。アン・ホイとパトリック・タムはともかくサモ・ハン、ユエン・ウーピン、ジョニー・トー、リンゴ・ラム、ツイ・ハーク…と来れば香港のアクション美学と火薬がみっちり詰まったノワール映画のようなものをつい想像してしまうが、そんな映画ではまったくない。各エピソードが終わる度に担当した監督名が出るのだがそこにジョニー・トーの名前が現れた時には映画館の椅子からずり落ちるかと思った。そのエピソードは食堂で三人の若者が延々投資話をしているだけのお話なのだ。『奪命金』! 前にジョニー・トー監督作『奪命金』でそういうの観たぞ!

でもそれがよいのですねぇ。先頭バッターはサモ・ハン監督エピソード、そらまたいったいどんなカンフーな…と思いきや、確かにカンフーはカンフーだがカンフー映画ではない。時は1950年代、どこかの屋上で坊主頭の子供たちが師匠の不在をいいことにカンフー稽古をサボっている。ところがある日のことこれが師匠にバレてしまい子供たちを監督する役割の兄弟子は罰として倒れるまで逆立ちをさせられる。それだけの話なのだが、子供たちの見事な体技を丁寧に切り取っていくサモ・ハンのカンフー愛に溢れた眼差しにはちょっとウルッとくる。

このエピソードはサモ・ハンの修練時代の実話であり、逆立ちをさせられた兄弟子こそサモ・ハンである。この『七人樂隊』はジョニー・トーの当初の構想では七人の監督が香港の1940~2000年代を、それぞれ50年代、70年代など分担して描くというもので、サモ・ハンはその50年代担当(くじ引きで担当年代を決めたというのが微笑ましい)。その頃に自分が経験した忘れられない出来事が描かれているのがこのエピソード『稽古』というわけで、それが傍目から見れば大した出来事ではないとしても、というよりもむしろ大した出来事ではないからこそ、なんとも滋味の深いエピソードとなっているのだ。

『稽古』に描かれるのは今は失われた香港文化の一端である。60年代を舞台とする続くアン・ホイの『校長先生』に描かれるのもまた今は失われた香港文化だ。親密な慎み深さ、ささやかな思いやり、貧しさの中の楽しみ、永遠に続くかに思える静かな時間、決して表に出さぬ片思い。これもまた心に染み入る美しい一編だが、物語の後半、2001年の視点が導入されることで、それが二度と取り戻せないことが淡々と示され、ほのかな哀しさを残す。そしてそれは『七人樂隊』の構成にも言えることであった。

2000年代を舞台とするジョニー・トー編『ぼろ儲け』にはかつてあった香港の人情や粋はもはや跡形もない。誰もが目先の金のことばかりを考え、自分がぼろ儲けをするためなら他人を足蹴にすることさえ厭わない。だが投機的な金儲けとは煎じ詰めればギャンブルでしかない。偶然に弄ばれ株価の上下に一喜一憂する人々の愚かさをシニカルに描き出すジョニー・トーの目には、現代香港社会にはもはや守るべき価値のあるものなどないと映っているのかもしれない。その思いは他の参加監督も大なり小なり共有していたのではないだろうか。

撮影後に亡くなった(クレジットではそのことを示すために一人だけ名前が四角で囲われている)リンゴ・ラムの2018年エピソード『道に迷う』は、そのタイトルからして現代香港社会に対する静かな怒りと、それよりも遙かに大きな困惑が見える。数十年ぶりに香港中心街を訪れたサイモン・ヤムは見慣れた風景が一変してしまったことに苛立ちを隠せない。もうクイーンズ・シアターもシティホールもない。代わりにあるものと言えばどれも同じように見える商業ビルと喫煙禁止の貼り紙ぐらいだ。ここが本当に自分の知る香港なのだろうか?

叙情的で切ない、この連作の掉尾を飾るにはぴったりのエピソードだが、それに続くラストエピソードが人を食っている。なんと舞台は未来の宇宙船みたいな精神科病院、そこで患者と医者がお互いに俺はアン・ホイだいやいやそれなら俺はジョニー・トーだ、ジョニー・トーとリンゴ・ラムなんか同じだろ!…などと基本的には全然面白くはない寄席芸人の楽屋落ちコントみたいのが延々続く。そして彼らを窓の外から見つめるのはこのエピソードの監督ツイ・ハークとアン・ホイだ…ってしょうもないよ!

単なるちょっと切ないイイ話では映画を終わらせずに楽屋落ちコントで観客をずっこけさせて終わらせる…呆れてしまうが、だがこれも考えてみれば今は亡きかつての香港映画らしいところかもしれない。それに、香港の過去から現在を一望する連作の最後にこのエピソード『深い会話』が置かれていることには、やはり深い意味を見出さずにはいられない。

部屋には監視カメラがあり患者と医者は常に監視されている。その隣室には彼らを監視する別の男たち、ラム・シュとローレンス・ラウがいる。彼らによれば医者と患者は実はどちらも患者で、ラム・シュとローレンス・ラウこそ試験的にこのロールプレイ治療を実施した本当の医師なのだという。だがそんな二人も実は…というわけで最後はみんななんとなく警官のような衣装の看護師に連行されておしまい(モンティ・パイソンか!)

今や中国本土でも第一線級で活躍するツイ・ハークではあるが、そうはいっても元々は香港映画人なわけで、昨今の香港のあれこれについては色々と思うところがあるようにこのエピソードを観ると感じられる。見ようによっては自治と共に自由を奪われアイデンティティを失った香港人の混乱を戯画的に表現しているようにも見える。っていうかたぶんそうだろう。本土の映画界で活躍するツイ・ハークがそれを直接的に表現するわけにはいかない。

かつて香港にあったもの、時代と共に香港から失われていったもの、新しく香港に現れたもの。香港を愛した監督たちの珠玉の七編連作は単に美しかったり楽しかったりするだけではない。そこには香港の変化に対する芸術家としての抵抗がある。香港という空間を決して忘れまいとする意志がある。もし香港が中国の地図の上に書かれた単なる一地方に過ぎなくなったとしても、香港人であろうとすれば香港住民はいつでも香港人になることができるという希望がある…とまでは言い切れないが、そう思いたくなる映画だったことは確かだ。

文章の流れで省略してしまったが大胆な色彩設計と男女の機微で魅せるパトリック・タム編『別れの夜』は香港ニューウェーブの製品サンプルの如し小品、カンフー老人と西洋かぶれの孫娘のチグハグな交流を描くユエン・ウーピン編『回帰』は七エピソード中もっとも微笑ましく愉快な一編で、俺はこれが一番好き。良い映画でしたね、『七人樂隊』。

【ママー!これ買ってー!】


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ジョニー・トーが担当したラスト30分で急にドリフのコントみたいになるのでびっくりする異色のノワール。

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