ポスト震災映画『すずめの戸締まり』感想文(やさしい内容解説付き)

《推定睡眠時間:0分》

句点以外は同名の邦画クラシックに続いてこのままではこちらも国民的アニメになりそうな、というか世代によってはもうなっているであろう『君の名は。』を俺は未だに観ていないし観るつもりもとくになく、更に言うなら前作の『天気の子』以外に新海誠のアニメなんか観たことがないのだから『天気の子』と『すずめの戸締まり』の二作をもって新海誠のなんたるかなどということは語れるはずもなく、だいたいそんなものはインターネットの魑魅魍魎が狂ったように日々やっているので俺のような常識人の出る幕もないのだが、「『すずめの戸締まり』の」とカギカッコをつけて新海誠を評するなら、この人は世の中のすべてをフラットにしてしまう人という感じになる。

こんなタイトルだけあって扉を閉めるのがなんとでもないのだがなんとこの映画のメインアクション。扉を…閉める…そんなの全然面白そうじゃない! 実際面白くないのだが、面白いか面白くないかはこの際どうだってよい。見るべきはきわめて地味な「扉を閉める」アクションが少なくともそれよりかは重要なそうな世の中の様々な物事とこの映画の中ではまったく等価になっていることだ。それはたとえば人命救助とか、日常仕事とか、友達とのおしゃべりとか、死者の弔いとか、あるいは恋愛とか喧嘩とか…とにかくまぁなんでもいいのだが、すべてがここでは同じ価値を持っていて、だから「扉を閉める」アクションがストーリーの軸になる。その日常感覚からすれば取るに足らないミクロな行為がアメコミ映画におけるマクロなアクションや世界の命運を決する対決と同等のものとして扱われるわけだ。

なぜそんなことになっているかというのは作品のテーマに直結することなのでなかなかネタバレに厳しい昨今説明が難しいのだが、まぁでも予告編見ればわかるし自然災害、とくに震災の話だからぐらいは言ってもいいだろう。巨大災害に対置される人間の営為として戸締まりがある。非日常に対しての日常。大事に対しての小事。自然状態では扉は必ず開いたものなので、それを閉める行為は非理性の出来事に対しての理性の行使でもある。扉のメタファーが指し示すのはそれら相反する物事が分かちがたく表裏一体になっているということだ。開ければ自然世界、閉めれば人間世界。開ければ災害、閉めれば日常。開ければ味方、閉めれば敵。開ければ死、閉めれば生。

そのそれぞれの状態を俯瞰するならばどちらがもう一方よりも価値があるとは言えない。生の概念がなければ死の概念はないし死の概念がなければ生の概念はない。日常の概念がなければ非日常の概念もないし理性の世界の概念がなければ自然の世界の概念もまた成り立たない。ある概念と概念がお互いを裏付けるという形で背中合わせに存在する時にその二つの概念に優劣などないというわけで、そのように考えを進めていけばそもそもこの世界に単独で存在する概念など一つもないことに思い至るんじゃないだろうか。たとえば、数字の1がもしもある日ひとびとの脳みそから消えてしまったなら、どんな計算式も同時に消えてしまうようにして。

『すずめの戸締まり』の新海誠はおそらくこんな風に考えている。それは理性の範疇を遙かに超える巨大災害という出来事を人間はどのように乗り越えるかと思考を巡らせた果てのひとつの答えで、すべてをフラットにすることで巨大災害の概念が持つある種の権威(恐怖と言ってもいい)を破壊しようとする、一面の自然主義に反してきわめて人間的な企てなのではないかと俺は思う。

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新海誠がどのように世界をフラットにしているかを見るために半ば備忘録的に俺が勝手に考えた非公式リファレンスを置いておこう。異世界に通じるドアから『ドラえもん』のどこでもドアを連想しないことは現代日本人には難しい。主人公の女子高生すずめが出会う戸締まり師の男(日本中の扉を閉めて歩いてる怪人)が椅子に姿を変えて彼女と旅するあたり藤子・F・不二雄的な生活ギャグ漫画の香りも漂い、また藤子・F・不二雄が冷徹といえるほど俯瞰的な視座を持ったSF作家であったことからも、『すずめの戸締まり』が『ドラえもん』をサンプリングしているのはほとんど間違いないのではないかと思う。世界の反転や相反する概念の表裏一体性は初期の映画ドラえもんを強烈に特徴付けるものだ(そして今の映画ドラえもんからは失われたものだ)

東京のパートでは巨大災害の前触れとしてカラスの群れが描かれその一匹には意味深なクローズアップがされる。言うまでもないことだろうが新海誠は写実的な風景描写を得意とする作家であり、この映画でもスティーヴン・キングの小説じゃねぇんだぞと呆れるくらいローソンやらウーバーイーツやらツイッターやら駐車場のタイムズやらとそれはもう膨大な現代日本の日常風景がそのまま登場するが、そうした写実手法の原型は東京の凶兆の前触れとしてカラスを執拗に描いた押井守の『機動警察パトレイバー the Movie』および『機動警察パトレイバー2 the Movie』かもしれない。高層ビルの熱線反射ガラスに映り込む都市の空は『機動警察パトレイバー2 the Movie』にある戦闘ヘリAH-88がビルのガラスに屈曲して映り込むシーンを彷彿とさせるし、都市の地下に隠された廃墟が重要な舞台となる点も共通する(劇伴はなんとなく『イノセンス』っぽい気がした)

すずめが乗り込んだスポーツカー(車名とか知らない)のカーステレオから流れるのは『ルージュの伝言』で謎の魔法猫は人語を話す…とこれはそのまま『魔女の宅急便』のオマージュ。「旅に出るならこの曲っしょ、猫もいるし」と台詞でもそのことに触れられる。宮崎駿作品のオマージュはサンプリングだらけのこの映画の中でも露骨であり、巨大災害を具象化した「みみず」のビジュアルは『もののけ姫』のダイダラボッチを思わせるし、宮崎駿のファンというわけではない俺なのでどこがどうとかは言いにくいのだがなんか戸締まり師が変身するとあたりとか『千と千尋の神隠し』っぽいよね、異世界とか出てくるし。っていうか「みみず」ってあれ『ノロイ』の霊体ミミズだろ! 宮崎駿オマージュに白石晃士オマージュを被せるって敬意があるんだかないんだかわからんなどっちに対しても。

日本各地には霊場のような廃墟があってそこの扉を閉めないと震災が起きるという設定から思い起こされるのは風水に言う龍穴の概念であり、それを一般に知らしめたと思われる荒俣宏の『帝都物語』でもある。その荒俣宏が今のような物知り好好爺(風)ではなくオカルト主義者の前衛であった80年代にはアンチ近代の旗印のもと共同戦線を張っていた中沢新一のエッセイ『ゴジラ対GODZILLA』(『女は存在しない』収録)は、『すずめの戸締まり』の龍穴的霊場およびそこから生じる大災害の理論的な着想源じゃないだろうか。ちなみに中沢新一の大学時代の同ゼミ生であった島田裕巳はこれをオウム事件を婉曲的に論じた中沢新一のオウム論だと(いささか飛躍気味に)書いたりしている。新海誠ならオウム事件をどう語るだろうか。

『すずめの戸締まり』のユング心理学的な側面は図像的には対を成す白い猫と黒い猫に、表現的には黒い猫が人間の普段口には出さない心のカスを話させる点に確認できる。すずめの旅は一言で言うなら死に触れる旅だがその死は普段は合理的思考の外に追い出してしまっているものだ。この死が非合理的な夢を契機としてすずめの日常に回帰する。同様に、黒い猫は思考の外に追い出していた、しかし決して消すことまではできない昏い想いを発露させる媒介となる。そしてそのことですずめや黒い猫に憑かれた人間はなんかスッキリして人間として一回り大きくなるというわけで、これは無意識に着目しつつもその表皮を形成する自我に基本的には価値を置いたフロイトに対して、自我と無意識を分かちがたく同等の価値を持つものとして扱うユング心理学のセッションそのもの、自我と無意識を往還して成長していくというのがユング心理学セッションのコンセプトなのだ。また劇中では東京の空に渦巻き模様が出現するが、渦巻き模様はユング心理学の夢分析においてその代名詞といえるグレートマザーの表象として解釈される重要シンボル。グレートマザーは生と死を同時に司る心象なのでその含意は明らかだろう。ついでだが日本のユング心理学の第一人者である河合隼雄は中沢新一とも交流がある。

ユング心理学はトランスパーソナル心理学のベースとなってアメリカを震源とするニューエイジ・カルチャーに今も深く息づいているが、日本でこれを大々的に取り入れた作品といえばユング心理学の中心概念をタイトルに冠したアトラスの悪魔RPG『女神異聞録ペルソナ』以下シリーズ各作。『すずめの戸締まり』に影響を与えたかどうかは不明だが、日本各地の扉を順次閉めていくRPG的な意匠にしても異世界に続く扉にしても(『女神異聞録ペルソナ』では最終ダンジョンの入り口が高校の図書室に忽然と現れた不気味な扉なのだった)何らかの影響を思わせるところで、更に言うなら『すずめの戸締まり』は宮崎から始まる物語なので古事記から天岩戸を引用して主人公の名字を岩戸とすることに違和感はないが、ユング心理学の文脈で岩戸を扱う…となるとその名もアラヤの岩戸(このアラヤとは仏教の教える阿頼耶識=ユング心理学の集合的無意識のことだ)がラスト一個か二個前の重要ダンジョンとして出てくる『女神異聞録ペルソナ』をやはり想起してしまう。もっとも、ユング心理学と仏教・日本神話の接続は河合隼雄が試みていることではあるが。

日本神話からのサンプリングは天岩戸よりも黄泉比良坂で、死したイザナミをイザナギが黄泉比良坂を通って訪ねるエピソードがアレンジして用いられている。腐ったイザナミがめっちゃ怖かったので現世に逃げ帰ってきたイザナギの穢れから後に日本を治めることになる天照大神、月読命、須佐之男命の三貴子が生まれるというのがイザナギの黄泉探訪の顛末だが、死の世界に触れることで新たな生が生まれる図式はユング心理学に通じるもので、ここでは黄泉への旅がユング心理学的に解釈・変形されていたりする。すずめがなぜ恐れもなく黄泉へと続く扉を渡り歩くのかといえば、それは彼女が無意識的に死の世界を求めているからだ。そのことは遊園地の廃墟のシーンで端的に示される。

黄泉(常世)というより地獄のような異世界の風景は俺もハッキリと覚えてるから東日本大震災当夜の電気が遮断され漆黒の闇に住宅火災の炎だけが浮かび上がっていた気仙沼(→大規模な火災が広がる気仙沼市 巨大地震【読売新聞オンライン動画】)がモデルになっていることは間違いない。気仙沼の火災と並んで東日本大震災時に強烈なインパクトを日本全国に与えたと思われるのが大槌町の陸に上がった船(→消えゆく震災遺構 船乗り上げた民宿、寄付及ばず解体へ【朝日新聞デジタル】)だが、これも『すずめの戸締まり』ではサンプリングされている。リンク記事にあるように今は現実に存在しないこの遺構をあるものとして風景に紛れ込ませてしまうことは、震災を忘れず死を想えというこの監督なりのメッセージなんだろう。それは同時に震災によって忘却された生を記憶することでもあるのだ。

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…とこのように種々雑多な要素が博物館に展示するみたいにまったく等価のものとしていささか節操なく並べられるのが『すずめの戸締まり』である。新海誠の映画を『天気の子』しか観ていなくてその『天気の子』はこいつバカじゃねーかとりあえず道でウンコ踏むぐらいの災難には遭えよぐらい思った俺だがすいませんでした新海誠さんはめちゃくちゃ理論家でしたごめんなさいウンコは踏め。理論的にはこの映画は美しさすら感じられるほど完成されているし、その理論も巨大災害乗り越え術としてまったく正しいんじゃないかと思う。

その意味でこれは見事というほかない映画で、扉の開いただの閉めただのいうどうでもアクションが続く序盤~中盤のつまらなさであるとか、(はいはいお決まりの女は恋愛に生き恋愛で成長するって話なんですね~)と思わせる凡庸陳腐もいいところのキラキラ映画の超定番オープニング(何度も丸括弧を使って申し訳ないが『天気の子』で一番強く感じたのもキラキラ映画っぽさだった)を観客のミスリードを誘うトリックとして用いたりする上、情報のコントロールも抜かりない作劇の巧みさにも思わず唸ってしまった。予告編で腐るほど聞いたのにエモいエンディング曲はそれでもやっぱりグッときて俺はわりと頑張って泣くのを堪えた。新海誠の映画なんぞで泣いてたまるものかという謎のプライドだけが涙腺の支えだった…。

もう絶賛なのだがそれでも何か引っかかるものがあったので俺は俺なりにそれは何かと考えてみたのだが、このあいだ韓国でハロウィンの将棋倒し事故があったじゃないですか。俺あれ自然災害のようなものだと思ってて自然災害ならしょうがないんじゃないって感じなんですけど、でもあれで警察の警備が悪かったとかなんとか韓国市民から批判が噴出して政治問題にまでなってますよね。俺それは理論的には間違ってると思うんですよ。だってしょうがないじゃん自然災害みたいなもんなんだし。警備が悪かったっつったっていくら警備が厚くても起こる時は起こるのが事故なんだから。だいたいそんなこと言ったら危なそうだとある程度わかってその場に赴いた連中にも一定の責任はあるよ。

悲劇には必ず理性で把握できる意味があって、それは善悪に分割可能な悲劇の因果関係の形で現れる…なんていうのは理性を盲信するひとつの宗教であって逆説的に非理性的な態度じゃないか、そんなものは根本的には災害乗り越えの役には立たないよ。俺は韓国のハロウィン事故と韓国市民の反応にこう思うわけですけど、でも、それって理論の話なんだよな。巨大な死に直面したときに個人個人が心をどう壊さずに保つかっていう理論の話で、社会的な実践はまた別じゃないですか。ある事故が起こった時にそれがいかに偶発的なものであれまぁ自然災害みたいなものだししょうがないよねと俺のようなことを言うやつばかりだったら社会は一歩も進展せずしたがって同じような事故を今後防ぐこともできないだろう。世界をフラットに見ることは自分の役には立っても往々にして社会の役には立たない。

セカイ系とも呼ばれる新海誠が近年のポスト・ディザスター作品を通して見事に描き出すものはそんな心の理論なのではないかと思う。その問題点は言うまでもなく災害の一切を個人の心の問題に帰してしまうことで社会の進歩や発展を阻害してしまうことにある。今ここで誰を助けるかという問題がすべてになってしまって今ここで何をすれば今後誰を救えるのかという建設的な問題に取り組むことができない。その意味で「扉の向こうには、すべての時間があった」とのキャッチコピーおよび台詞は常世を表現しようとした作者やコピーライターの意図を超えてこの作品の本質を表している。すべての時間がある場所とは時間が存在しない場所であり、新海誠の世界に実体的な未来は(そして過去も)存在しない。そのことはこれほど見事に構築された『すずめの戸締まり』がその完成度とは裏腹に空虚な印象を与える理由の説明になるんじゃないだろうか。

今このときの個人の心の在り方にしか目を向けない新海誠が超絶技巧を駆使して描き出す巨大災害の過去は大槌町の陸の船にも似てどこかハリボテめいている。博物館になんか置かれたらアートは死ぬと言ったのはボードリヤールほかいろんな人だが、現在は実在しないあの船をその他様々の実在する事物事象に紛れ込ませて作品世界に陳列したときに、船は震災遺構としての内実を失ってしまったんじゃないだろうか。この映画を観てぼんやり東日本大震災に思いを馳せる俺は、逆説的だがそうすることで東日本大震災のリアルな記憶を新海誠が作り出した過去のマガイモノに置き換えてしまっているんじゃないか…などと、いやもうあれこれ考えさせられる映画でございましたよ、『すずめの戸締まり』。薄っぺらいが傑作。

【ママー!これ買ってー!】


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ユング心理学は若者なら一度は通ってその後は黙って抜けるものと思っていたので『ペルソナ』シリーズ大好き人間の俺が言うのもあれですがユング心理学を少なからず摂取した映画がめちゃくちゃヒットとかしちゃったら(するだろうどう考えても!)なんか嫌だよねなんか。ということで思考のワクチンとしてユング心理学のさわりぐらいは河合隼雄のわかりやすいやつで頭に入れておくべし。

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2 Comments
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りゅぬぁってゃ
りゅぬぁってゃ
2022年11月25日 2:09 PM

ディザスターものが三作続いたので、
次回はどうするんだろ? とも思ってます。

初期みたいな失恋モノやって欲しいけど、有名になったら故に「人を選ぶ映画」は作られてくれないだろうなあ?