神学論争映画だった『ウーマン・トーキング 私たちの選択』感想文

《推定睡眠時間:0分》

事件のあらましをイメージショットに近い印象的ないくつかの断片のモンタージュでパッパッパと手際よく説明して開始5分必要最低限の手数でさっそく提示されるタイムリミット3日間、遠く離れた街の警察にしょっぴかれて男どものいない3日間の合議でコミューンの女たちの命運が決するのだと西部劇的緊張感が漂う中で間を置かず始まる女たちの本音ディスカッションにこれぞアメリカ映画! とそのイーストウッド映画を彷彿とさせる見事な活劇の呼吸に心躍るもその後どんどん気分はしおれ映画が終わる頃にはぶっちゃけムカついていた。あまりにも、これではあまりにも現実を蔑ろにしているように俺には思えたんである。

というのもこのだいたい8人ぐらいの女たちはコミューンの100人ぐらいいるらしい女たちの一握り、コミューンで発覚した男どもによる継続的かつ組織的な気配も濃厚な昏睡レイプ事件を受けてコミューンを去るかそれとも残って男どもと戦うかあるいは男どもを赦してしまうかといった意見をそれぞれ代表して語るのであるが、ここには女たちの自主選挙でそれなりの票を獲得した「何もしない」の声を代弁する人間がいない。8人の中の一人によって「何もしないは論外」とたった一言で「何もしない」派の女たちの声は封じられてしまい以降画面に映り込むことさえこの映画は許さないのである。

フェミニズム思想家の草分けボーヴォワールは主著『第二の性』にこのように書いている。

主君である男の家来でいれば、男は女を物質的に保護し、その存在の意味づけまで引き受けてくれるはずだ。こうして女は、経済的な危険だけではなく、自らの目的を独力で見つけなくてはならない自由な存在につきものの形而上学的な危険をも回避する。実際、どんな人間にもそれぞれ自分を主体として主張したいという倫理的な要求とならんで、自由を逃れてモノになりたいという気持ちがあるからだ。だが、これは不幸な道である[…]けれども、これは楽な道でもある。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』 『第二の性』を原文で読み直す会 訳

意識の高い人間は結構なことである。その人たちは奴隷と主人の関係性において奴隷の地位に満足することなく関係の転覆、とまではいかなくとも平等な関係を志向するだろう。しかしそれは知的にも精神的にも強い人間に許された特権のようなもので、大抵の人間が自分の不自由な従属的立場に不満を抱えつつも反乱を起こすまでには至らずその境遇を甘受していることは、仕事の不平不満ばかり言う人に限って今の仕事を主体的に辞めることができないというどこにでもある光景を想像すればすぐにわかることだろう。

女たちの合議がもし自分たちの救済を目的とするものであったなら、そうした弱い人間の声をこそすくい上げる必要があったんじゃないだろうか? そして説得する必要もあったんじゃないだろうか? なぜならこの合議から外された多数の人たちは自分で自分を救うことができないわけである。8人ぐらいの女たちは生まれてこの方コミューン、あ説明忘れてましたが劇中では具体的に言及されないがこのコミューンはメノナイトというアーミッシュと似た禁欲的・前近代的な生活を送るキリスト教異端のコミューンらしいのですが、生まれてこの方コミューンから出たことがなく(メノナイトの教義では女は村を出ることが許されていない)読み書きもできない無学な人たちであるはずが、まるで都会の大学の弁論部のように雄弁かつ理路整然と話してとてもそんな人には見えない。

俺はここに作り手の偽善を感じたわけである。今までずっと自由を封じられてきて学も与えられなかった人ならこんな風にディスカッションをすることは普通に考えてできないし、そしてそもそも自由の概念が知らないわけだから男どもから昏睡レイプ被害に遭っても「何もしない」を選ぶのもごく自然なことに思える。にも関わらずその現実をこの映画は排除する。その代わりに都会的に洗練されたいかにも東海岸リベラルといった風な女たちだけピックアップして話させる。たとえばの話だが、日常的に配偶者からDV被害を受けている妻が自分から被害を声高に訴えるケースが全体として多いか少ないかは統計的に立証することは難しいとしても、突発的な犯罪であるよりは常態的な犯罪であるDVは被害者が沈黙することで成立するのだから、そうしたケースは少なくないと考えられる。『ウーマン・トーキング』がやっていることはそのような犯罪被害者のリアルを無視することのように俺には思われたのだ。

自分たちの犯罪被害について自分たちで考えよう! という映画でどうしてそんな蛮行を…とプリプリしていたのはしかしこれを書いている今からだいたい6時間くらい前までであった。俺の脳に電撃走る。ああ、そうか、犯罪被害について考えよう! という映画じゃないんだ。探偵デュパンは人間の理性はときに自明の真実を隠すものと喝破したが、これとて同じ事なんだろう。8人の女たちが議論しているのは事件についてではなく自分たちの信仰についてであった。偉大なる神さまとそれに従う男たちの言うことを聞いていれば幸せだし天国にも行けるんだとこれまで考えていたコミューンの女たちの信仰に、当然ながら教義に著しく反する男たちの犯罪行為は深刻な打撃を与えた。今まで自分たちは騙されていたんだろうか? 神さまがいるのならどうしてこんなヒドいことを許したのか? もし男どもを赦さないとしたら天国にも行けなくなってしまうのでは?

8人の女たちの合議が次々と論点を作り出すだけでその結論については聖句の暗誦などではぐらかされてしまうのも、というよりもはぐらかしているように見えてしまうのも、これはフェミニズムの映画であるというような俺の先入観がそう見せていただけで、事実ははぐらかしてなどいないし、8人の女たちは自分たちの信仰の揺らぎについて語り合っているだけだったのである。ひとたびそう視点を変えるやなにやらモヤがかかって見えたこの映画も不明瞭なところは少しもない。劇中二度流れる“Daydream Believer”なんかそのまんまである。歌詞の日本語字幕はおそらく定訳で「夢見心地の君」を当てていたが、ここはそんな創意工夫などせず素直に「夢見る信者」とでも訳すべきだっただろう。8人の女たちの一人は語る。「女の作った宗教があればいいのに」。論点が増えるばかりで一向に意見の統一を見ない合議は最終的に賛美歌の合唱で幕を閉じ、その歌声はコミューンの女たちの心を一つにする。こう見れば、ラストシーンでの女たちの選択の意味は明らかすぎるほどに明らかであるように思える。多少ネタバレ気味になってしまうが、それは一度は揺らいだ信仰の回復なのである。

合議の中では事件そのものにはほとんど触れられないこと、男たちの赦しが徹頭徹尾俗世的な「許し」ではなく死後に天国に行くための条件として語られていることなども同様に、この映画が女たちの信仰の揺らぎとその主体的な回復を主題としていることを示すように思われる。フェミニズムの映画ではないのである。父なる唯一神をいただき女は男の肋骨から生まれた男のオマケに過ぎないと説くユダヤ/キリスト教の信仰を昏睡レイプ事件によって捨てるどころかむしろ一層強い形で確信する展開は、伝統的に反キリスト教ないし無神論の立場を取ってきた西洋フェミニズムの観点からすればほとんど考えられないことである。

もしこの映画がフェミニズムの観点から作られていたなら、あたかも女たちには直視することさえできないような巨大権力であるかのように、男どもを不可視の存在とする演出は取らないだろう(カメラは加害者も含めて男をほぼ映さない)。逆にカメラに男どもを招き入れそれが取る足らず恐るるに足らない「凡庸な悪」であることを示そうとするはずだ。その舞台には法廷が相応しいが、この映画では女たちが証言台に立って男どもの惨めな正体を明かすことはない。ウェィキペェイディェアの記事によればこの映画はボリビアのメノナイト・コミューンで起きた事件を下敷きにしたカナダの小説を原作にしているらしいが、その元となったボリビアの事件では100人を超えるコミューンの女たちがしっかりと証言台に立っているにも関わらず、である。

哲学者のジョルジョ・アガンベンはその天使論『「天使」への序論』の中でキリスト教世界の天使は官僚ないし官僚組織として構想されてきたとしているが、それは文字の書けない女たちの書記役となり時には女たちに外界の知識を与える人物が(フェミニズム的に考えるならこの物語に不釣り合いな)成人男性であることに蓋然性を与えるかもしれない。日本を含む非キリスト教圏では女性の姿で描かれることの多い天使は、西洋絵画においては中性的もしくは男性的なものとして表象されるし、そのヒエラルキー(天使は階級制なのだ)は父なる唯一神を超越的な頂点とする男どもによる人民統治のフレームなのである。旧約聖書ではメタトロンという最高位の天使がヤハウェの側面ないし代理人として描かれ、したがってこれは「父」ということになる。

『ウーマン・トーキング』における書記の男は、男でありながらコミューンの女たちを理解し、慈愛の眼差しで眺め、知識を与え、そして彼女たちに「男が全員悪いわけじゃないんだな」と思わせることで、棄教を思いとどまらせる。言い換えれば彼は「父」と女たちを繋ぐ役割を果たしているのであり、聖母マリアに大天使ミカエルが受胎を告げる『受胎告知』に描かれるように、それこそがキリスト教世界の天使の仕事なのである。このこともまた『ウーマン・トーキング』という映画が信仰についての映画であることの傍証になるんじゃないだろうか。

ぶっちゃけ俺はさっきまでなんでこんないい加減な脚本がアカデミー賞で脚色賞なんか取るんだよ舐めてんのかと思っていた。けれども原作はどんなもんか知らないが…仮にこれが、閉鎖的なカルトコミュニティでの昏睡レイプ事件をテーマにした原作を、信仰の揺らぎをテーマとする一種の神学論争ものがたりとして換骨奪胎したものなのだとすれば、その大胆な脚色に対してアカデミー賞で表彰してやろうというのは理解できる話である。なんつってもアメリカはプロテスタントの国ですからね。個人の信仰に対する関心はカトリック諸国よりも強いかもしれない。

歯切れの良い冒頭がいかにもアメリカ映画らしいと書きましたけれども、そう考えればアメリカ映画らしいのは見た目だけじゃなくて中身の方もきっちりアメリカ映画。そしてアメリカ映画といえば題材とする事実にあれこれと原形を留めないほど手を加えて伝説や神話にしてしまうものである。「これは私の母の物語」と枠物語の構成を取って娘に語らせ、実際にあったボリビアの事件を場所も犯人も定かではない(一応アメリカ国内らしい)抽象的な出来事に改ざんする不誠実は、ハリウッドの目と、そしてアメリカのプロテスタンティズムの目から見るなら、不誠実どころか誠実にさえ映るだろう。これはたぶん、そのように観られるべき映画なんである。

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とはいえ俺は非キリスト教徒なのでこういう映画を観ますとなに呑気なこと言ってんだお前らクズ男ども全員殺せと思ってしまいます。そういう人にはこの映画『ウーマン・イーティング』こと『ザ・ウーマン』。ちゃんと男が死ぬししかも食うからスカッとするぞ!

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