アウシュヴィッツのジャンヌ・ディエルマン映画『関心領域』感想文

《推定睡眠時間:0分》

むかしむかしアウシュヴィッツ絶滅収容所の塀一枚隔てたところに平和に暮らすドイツ人一家がおりましたというこの映画『関心領域』のあらすじを聞けば政治哲学者のハンナ・アーレントがホロコーストの総責任者アドルフ・アイヒマンを評して言った「凡庸な悪」という言葉が脳裏をよぎる人も100人に1人ぐらいはいるんじゃないかと思うのだが最近アーレントの『革命について』を読んでいてどうもこの「凡庸な悪」という言葉の持つニュアンスをみなさんはどうか知らないが俺は長い間ちょっとはき違えていたんじゃないかと考えるに至った。

上の命令に唯々諾々と従いお役所仕事的に悪いことをする…これがいわゆる「凡庸な悪」。その具体例としてはアイヒマンの他にミルグラム実験も有名だろう。スタンレー・ミルグラムが『服従の心理』にまとめたこの実験は被験者を一人ずつ個室に入れてあんた教師役ですとウソを信じさせる。別室には生徒役の被験者もいます、生徒役は問題集に解答していくのでその人が間違ったら教師役のあんたは罰としてそこに置いてある電気ショックボタンを押してください。このように実験者は説明するが、これはすべてウソで、実際には生徒役の被験者は存在しないし電気ショックボタンもニセモノ、人は他者に懲罰を与える命令を権威者から受けたときにどの程度従うのか、または従わないのか、というのを見るのがミルグラム実験なのであった。

その結果は押し入れに入れてある(ほんとだぞ!)本を取り出すのがめんどくさいので詳しく書けないが、ミルグラムがショックを受ける程度には高い比率で被験者は電気ショックボタンを押し続けた。そのため命令に従わなかった人の中でもとくに強い抵抗を示した人をミルグラムはこのショッキングな結果に対する一縷の希望として『服従の心理』の中で詳述しているのだが、それはともかく、アーレントの言う「凡庸な悪」にはどうも二つの面があるようだと『革命について』を読みながら俺は思った。一つは自分の意志を持たないことに対する批判、そしてもう一つは自分から「行動しないこと」の批判である。

どういうことか。それはアーレントの主著『人間の条件』を読めば明瞭になるが、この人は「自分の意志で自分から行動する人」を人間の理想だと考えていて、逆に「自分の意志を持たず自分では行動しない人」には軽蔑の眼差しを向ける、というか『人間の条件』ではそんな人は人間だと想定されていないのでそもそも言及されること自体がない。『革命について』においてアーレントは「自分の意志を持たず自分からは積極的に行動しない人」をこのように表現する。

貧困が卑しむべきものであるのは、それが人間を肉体の絶対的命令のもとに、すなわち、すべての人が別に考えなくても自分のもっとも直接的な経験から知っている必然性(ネセシティ)の絶対的命令のもとに、おくからである。
『革命について』速水速雄 訳

ひどく回りくどい表現だが、要するに腹減ったから飯食って飯食うために働いて働いたら腹減ったから飯食うような生き方は人間の最底辺だ、ということである。そりゃあまぁたしかにそんな生き方はお世辞にもカッコいいものとは言えないかもしれないが、だとしてもそりゃあちょっと言い過ぎじゃないの、誰も彼もがアーレント先生みたいに頭が良いわけではないのだから…と腹減ったから飯食って飯食うために働いて働いたら腹減ったから飯食ってる中年アルバイターの俺などはこのへん大いに反感を覚えるところである。

アーレントがアイヒマンを評した「凡庸な悪」という言葉にはこのような含みがあることを留意する必要があるだろう。アーレントにとってアイヒマンはホロコーストの責任者であったから悪いのではなく、「自分の意志を持たず自分からは積極的に行動しない」お役所仕事の人だったからこそ「悪」なのであり、腹減ったから飯食って飯食うために働いて働いたら腹減ったから飯食うような生き方を仮に凡庸とするなら、アーレントにおいて凡庸と悪は同一視されるのだ。だからアーレントはアイヒマンを「凡庸な悪」と表現したのである。そしてミルグラムにおいても、主体的・能動的な抵抗者の称揚という形でその思想は受け継がれている。その抵抗とは決して「自分の意志を持たず自分では行動しない人」のものではなく、「自分の意志で自分から行動する人」のものだからだ。

という長話がどのように『関心領域』と関係してくるかというとこの映画の主人公はアウシュヴィッツの責任者で収容所の隣にマイホームを建てて暮らしてたルドルフ・F・ヘス(ナチの要職にあったルドルフ・ヘスとは別人)夫妻なのであったがこのヘス所長少なくとも映画の中ではじつに仕事熱心な人でどうやったらより効率的にユダヤ人を焼殺できるかなど昼夜問わず真面目に絶滅収容所運営のことを考え役人ながら積極的に提言を行う「自分の意志で自分から行動する人」なのであった。これではやってることは大量虐殺なのにアーレントの善悪基準に照らし合わせればむしろ善人ということになってしまうだろう。

俺は意地が悪いのでこの映画のあらすじを聞いてこれはなんとしてでも今観なければと思った。それは2024年3月11日現在(※先行上映で観た)パレスチナ・ガザ地区を侵攻しているイスラエルがガザ地区の難民支援に当たっている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)にテロ関与の疑惑を投げかけて西側諸国のUNRWAへの資金拠出を停止させ、病院も容赦なく攻撃を行っているためガザ全土で医療施設は機能不全に陥り、同時にイスラエル軍が管理しているガザ地区への検問で厳しい支援物資搬入制限をかけているために、現地視察を行った国連特別報告者によれば数十万人規模の飢餓が現に生じつつあるという文字通りのジェノサイドが進行中だからであった。

絶滅収容所の隣で平和かつ裕福に暮らすドイツ人ファミリーはまことに皮肉なことに現情勢下では他ならぬイスラエル市民に見えてしまう。うーんなんとおもしろい。不謹慎極まりないと思うのだが、今の時期よりもこの映画を興味深く観られる時期はきっと今後ないだろう(と思いたい)。そしてそれが俺にアーレントの悪口を書かせた理由であった。これほどまでに苛烈な虐殺行為を公然と行っているイスラエルは一体なにを考えているのかと一般常識を持った人なら思ってしまうかも知れないが、べつにイスラエルの人は鬼でも悪魔でもないのである。イスラエルの為政者もイスラエルの兵隊もどうやったらより効率的にパレスチナ人を絶滅できるか昼夜問わず真面目に考え積極的に実行する「自分の意志で自分から行動する人」というだけなのだ。

ホロコースト実行者の姿をあくまでもフィクションとはいえ見ることでそれを通してガザ虐殺を実行するイスラエルの心が見えてくる。これはもうなんというか、なんとも形容しがたいすさまじい映画体験である。であるから他の映画ではあまり得られることのない教訓も得られようというものだ。すなわち、「自分の意志で自分から行動する人」が正しいとは限らない。オウム真理教の例などを見ても分かるように、人間はたとえ間違ったことでも「自分の意志で」行動してしまえる生き物なのだ。だから「自分の意志を持たず自分では行動しない人」こそがある状況では正義に反転することもある。

もし今のイスラエルの人たちが急にそんな人たちになってしまったら、これ以上ガザ市民を攻撃することもなく、検問を締めつけることもなく、アラブ社会と対立することもなく、たとえ一時的にでも平穏が訪れるに違いない。それはルドルフ・F・ヘスがもしも収容所運営に不熱心で脱獄なんか平気で見過ごす仕事人としてはダメな人だったらどれほどのユダヤ人がそのダメさによって消極的に救われていたか、と考えればわかることじゃあないかと俺は思うのだ。

さて俺思想の開陳に忙しく『関心領域』という映画のどんなもんやにほとんど触れていなかったわけですが、これはそうだねBFI選出の最も偉大な映画最新版で1位に突如躍り出たことで話題を呼んだシャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に映像スタイルかなり似てた。同じようなところにずっとカメラ置いてヘス夫妻+キッズたちの何不自由ない平凡な暮らしを淡々と綴る作風。隣にアウシュヴィッツがあるので穏やかではないにも程があるが夫婦もキッズもすっかりユダヤ人虐殺環境に馴染んでいるのでパンパンと銃声のようなものが聞こえてもとくに気にすることなく死体焼却炉から立ち上る煙を眺めてあぁ今日も平和だなぁってなもんである。全然平和ではないのだが。

いくらこのファミリーが自分たちがユダヤ人虐殺環境に(そうと知って)慣れきっているとしても直接その死を目の当たりにすればやはり心中穏やかではいられないだろう。ということで無意識的な防衛機制のはたらきによりヘスはともかく妻と子供たちは塀の向こうの凄惨な現実からは目をそらし続け、カメラもまたアウシュヴィッツの敷地内には二三の短いシーンを除いて踏み込まない。この視野狭窄、そしてさまざまな効果音でのみ惨劇を伝える演出法は、これもまた皮肉としか言いようがないと思うのだが、アウシュヴィッツ内でユダヤ人焼却作業をさせられるユダヤ人収容者=ゾンダーコマンドの視点から収容所内の凄惨な現実を捉えたカンヌ映画祭グランプリ受賞作『サウルの息子』の裏返しのようである(『関心領域』もカンヌのグランプリ作)。収容所の中でも外でも、虐殺する側も虐殺される側も、大量虐殺という地獄から目をそらしている。この理不尽をどう理解すべきだろうか?

その点が監督ジョナサン・グレイザーの関心領域だったのではないかと思えるのはインドネシアの虐殺実行犯の心理に迫ったドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』を思わせる展開があり、またセルゲイ・ロズニツァやヴァレンチン・ヴァシャノヴィチといったウクライナの俊英監督たちによる2014年以降のウクライナ東部ドンバスを巡るロシアとの戦争を背景とする作品群の影響が感じられるショットが度々あったからで、そこからは直接テーマとしてはいないものの、ロシアのウクライナ侵攻という前世紀的な異常事態も見えてくる。

想像するに、どうしてプーチンのロシアは今時こんな帝国主義的戦争なんかしているのか? という疑問が、この映画の出発点だったんじゃないだろうか。そして辿り着いたのが関心領域の外から目をそらし続けながら「自分の意志で自分から行動する人」であったんじゃないかと俺は思う。プーチンもネタニヤフも「自分の意志で自分から行動する人」であることがセールスポイントの政治家だが、どっちも戦争の最前線がどれほど悲惨か、その目で直接確かめたことはないであろうから。

いささかコンセプトが強すぎてわざとらしさが感じられるところもあるのでその点ちょっと白けなくもないのだが、とはいえ効果音はもとより平和なはずの家の中終始鳴り続ける体内音のようなドローンサウンドなど音楽・音響設計も素晴らしく、今映画館で観ればたいへん貴重な体験が(よほど鈍感な人でなければ)できるので、そうですねうんたとえばウーヴェ・ボルがアウシュヴィッツ勤務の兵士の退屈な日常をリアリズムのタッチで淡々と描いた静かな衝撃作『アウシュビッツ ホロコーストガス室の戦慄』みたいな映画にピンと来る人であればぜひとも…そんな映画誰も知らない!

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