海外で映画賞獲る方法教えます映画『悪は存在しない』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ヴェネチアで偉い賞をもらったのに上映館が都内でもミニシアター2館という極端な少なさでどうしてだろうと思っていたら最後の5分くらいまで何も起こらないかなりの玄人向け映画だったからというのがそのおそらくの理由でややズルッと椅子からスベってしまう感じだったのだがそんな基本的には面白くない映画がじゃあなんで世界三大映画祭の一つということになっているヴェネチアで評価されたんじゃろかというとここらへんが濱口竜介という映画監督の頭の良いところでまぁこういうのがヨーロッパの映画祭でウケる、こういうのをヨーロッパの批評界隈は海外の映画作家に求めるっていうのをわかってたんでしょうな、と意地の悪い俺は邪推する。

どういう映画かというとこれは長野の山奥の小村にホテルとキャンプ場を合わせたような施設の建設計画が持ち上がって山からいろんなもんを獲って生活してる主人公と村人たちは反対するが…みたいな感じなのだが、ここで描かれるのは長野山奥の村人たちとそこにキャンプ場の建設を(コンサルに唆されて)企画した都会の小さな芸能事務所という異なる「文明」の衝突であり、おおむねジャック・オーディアールがカンヌのパルムドールを受賞した2015年のスリランカ移民題材映画『ディーパンの闘い』ぐらいからの傾向じゃないかと思われるが、ヨーロッパへの移民の流入数増に起因する文明の衝突はヨーロッパ各国で大きな社会問題となっており、そのためか文明の衝突テーマは現在の三大映画祭では非常に高く評価される。

そうしたテーマの面に加えて、これは今村昌平版の『楢山節考』ぐらいまで遡ってもいいんじゃないかと思われるが、ヨーロッパの映画批評筋はある種のオリエンタリズムでもって日本映画に人間と自然の共存を期待する向きがある。そこですぐさま想起されるのはやはり河瀨直美で、伝統的というか主流の欧米的価値観では自然は人間によって分析・管理・解体されるものであり、こうした価値観とは異なる価値観をヨーロッパの批評筋は高く評価するので、奈良を拠点に自然と人間の交感を描くニューエイジャー河瀨直美がヨーロッパで高い評価を受けていることをそのなんかよくわからないしおもしろくない作品を観て不思議に思う人もいるんじゃないかと思うが、それは河瀨直美の人間が自然と一体化する世界観がヨーロッパの批評筋の求める「反ヨーロッパ的なもの」と上手くフィットしているわけである。

かつて押井守はヴェネツィア映画祭かどこかに『立喰師列伝』を持ってった時に審査員にこう言われたという。「どうして日本は戦後ものの映画を作らないのか?」。勝てば官軍ということで欧米映画界においては連合国の歴史記述や価値観がスタンダードであり、ドイツやイタリアの場合もドイツはファスビンダーなどニュー・ジャーマン・シネマで、イタリアはデ・シーカやロッセリーニなどがネオ・リアリズモで敗戦後の社会の現実を描いて三大映画祭で高く評価されたわけだが、こうしたことの下地には俺の妄想力によればスタンダードではないものを評価したいという批評筋の欲望がある。ハリウッドなどは観客の価値観を揺さぶらない作品こそ高く評価するが、批評家はふつう当たり前でない価値観をもった映画、観客にショックを与える映画を評価するのだ。

『悪は存在しない』という映画を観ると濱口竜介がそのことにきわめて自覚的であるように俺には思える。ドミニク・モルの『悪なき殺人』を意識したかのようなタイトルを持つこの映画はタイトルの時点で三大映画祭好み、なぜなら欧米のスタンダードな価値観ではキリスト教の悪魔概念が象徴するように「悪は存在する」ものだからだ。まぁ欧米と言わずどこの国でも基本的にそれはそうだろうなのだが。悪が存在しないならなぜ人々が対立するのか? といえば、ここから「文明の衝突」というこれまた三大映画祭好みのテーマが出てくる。キャンプ場建設を巡る意見の対立は企業側が悪いのでもなければ村人側が悪いのでもない。企業には企業の慣習があり、村人には村人の慣習がある。その慣習が相反するときに誰が悪いのでもなく文明の衝突が発生するわけだ。

こうした視点は昨年日本公開された2022年のクリスティアン・ムンジウ作『ヨーロッパ新世紀』にも見られたもので、この映画は降雪地帯の小村が舞台であったり住民説明会が物語的な見せ場となるなど『悪は存在しない』とは共通点が多いが、こちらもカンヌでパルムドールを争った作品なので、もし濱口竜介がこの映画を観ていればそこから三大映画祭で何がウケるか学ぶところがあったかもしれない。まこのへんは邪推の邪推だから気にすんな。

というような映画の外側の駄話はいいとして内側の話をするとつまんないけど面白かった、面白かったがつまんなかった、総じて別に大した映画じゃない、ってなもんだった。ワンカットワンカットが長く省略をしないことで会話の間に緊張感を生じさせる演劇的な手法は面白いが(住民説明会の張り詰めた空気は最高)それを多用すると単純に映画のテンポが悪くなるしストーリーが面白いわけでもないのでシーン単位では面白いが全体としてはつまらない、とだいたいそんな感じ。

元々はシンガーソングライターの石橋英子という人とのコラボ企画から始まった映画とのことで音楽は石橋英子なのだが、それが上手く機能しているかといえばそんな感じも別にせず、クリアな撮影は美しいが身も蓋もなく言ってしまえばそれはそもそもロケ地の自然が美しいからなので、まぁ普通だな…普通というか、なんか若くして早くも濱口竜介による濱口竜介の縮小再生産になっている観もあるので、わりと残念寄りの普通ではある。それまで続いていた大きな話が終盤とつぜん脱線してパーソナルな話になる展開はどこに向かうかわからないコワさがあるとはいえ、これも『寝ても覚めても』でも『ドライブ・マイ・カー』でもやっていた濱口竜介のいつものパターンなので、意外であることで逆に意外性がなくなってしまったようであった。

オマケとしてちょっと不思議なラスト近くのシーンを俺なりに解説しておこう。鹿は普段は人間を襲ったりしないが手負い時は襲いかかることもある、という主人公の台詞がある。これは件のシーンで腹に銃創のある鹿(近くの山では鹿狩りが行われている)が登場する伏線であり、その意味するものの説明でもある。村人たちは自分たちの生活が脅かされなければ何も他人に食ってかかったりしない。それはキャンプ場を企画した芸能事務所の方も同じで、本業で充分に食えていれば(どうもコロナ禍で系映画厳しくなったらしいような描写がチラッとある)どっかの田舎の山にキャンプ場をぶっ建てようとはしないわけだ。

そしてまたこのシーンは、芸能事務所との対立や普段の生活の描写の中で山と共存しているように見えた主人公や村人たちも、実は芸能事務所の二人と同じように山には受け入れられていなかった、主人公が住民説明会の場で語るように「住民だって全員よそ者」だという事実を突きつけるものでもある。俺は濱口竜介の前作『ドライブ・マイ・カー』を観たときに、この映画は一見さまざまなバックグラウンドを持つ人々が出てくるので多様性尊重の映画のように見えるが、そのじつ全員が協調して物事を進めることができるという点で実は多様性のない世界を描いたものであり、ホームレスの排除された渋谷のように表面的な多様性によって共同体の本質的な同質性を覆い隠すという意味でなかなか狡猾で、それは原作の村上春樹の世界観にある程度は由来するかもしれないが、親密な会話劇を得意とする濱口竜介自身も、やはり本質的には「閉じた世界」を好む保守的な映画監督なのだと思った。そしてその言ってみれば臭味のない隠蔽された保守性が、作品に(観客にとっての)心地よさを生んでいるのだと思った。

手負いの鹿が「村人だって全員よそ者」と主人公に突きつけるラストは、そうした濱口竜介の保守的な心情が、悲観的な形で表出したものだと俺は思う。人間と自然の境界や国籍人種の壁をいささか神秘主義的に取り払い地球も人類もみなひとつと言外に宣言する解放の映画監督である河瀨直美と反対に、濱口竜介はある領域と別の領域の交差や混じり合いを信じない。たとえ人と人が分かり合えているように見えてもそれは『ドライブ・マイ・カー』の演劇のように、社会的な事業の中で共通の話題を介して繋がっているだけであって、共通の事業がなければ人々は心を通わせることができない。村人たちが一丸となるのが住民説明会で芸能事務所の二人に敵意を剥き出しにするときだけというのはその傍証である。

濱口竜介の映画は黒沢清の映画に範を仰いでいるように見えるが、それは演出面だけのことではなく、人間観にも及んでいる。そして濱口竜介はそれをベースに黒沢清の映画にはない人間の集団活動を描くが、ハンナ・アーレント風のこの保守思想は、それ自身の重圧によって破綻する。集団の関わる話が終盤で急にパーソナルな話に脱線する、という濱口竜介映画の黄金パターンはそんな思想から生まれたんじゃないだろうか。俺の世界に入ってくるな! 『悪は存在しない』の謎めいたエンディングが意味しているのはまぁそんなことではないかと俺は思ったりしたね。

※それにしても住民説明会での住民たちの詰め、これはリアルに嫌な日本の田舎が詰まっていて見事でしたなぁ。

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