脳内混乱映画『彼女のいない部屋』感想文

《推定睡眠時間:5分》

なかなか感想を書きにくいタイプの映画なのでダイナミックに映画と関係のない話から書き始めてお茶をスクリューで濁してしまうが彼女のいない部屋といえば三十余年恋人がいたことのない俺の部屋である。今もこうして彼女のいない部屋で映画の感想を書いているのだがこの映画はそんな俺の人生初デートで観た映画となった。デートなら普通もっと話題にしやすい映画を選ぶのではないかと思われるがそこらへんはプロ独身者のこだわり、ここで『ブレット・トレイン』を観に行くのは簡単だが、しかし、しかしですよ! みなさんそれでいいんですか! デートだからと自分を安易に恋愛市場に売り渡してはいませんか! 妥協してるんじゃないかそれは人生に対して!!

なにかプロ独身者たる所以がわかるような書きっぷりだなと自分で思うわけですが、それはともかくとして彼女のいない部屋に暮らし続けてきた俺にも積極的に恋人を作ろうとしていた時期があった。しかし悲しいかな、ASD寄りADHDの俺なのでコミュニケーションがかなり一方的となってしまい、仲良くなろうとした女の人全員から拒絶され、相手の方は基本的にバイト同僚だったりしていたので俺とバイト先で顔を合わせるのが嫌でさっさと辞めてしまったりしたのであった。

その蓄積は半ばトラウマ的体験として意識に結晶し俺の恋愛意欲を劇的に減衰させた。そうか俺はそんなに女の人に嫌な思いをさせていたのか、みなさんすいませんでした、俺はみなさんに今後は害を与えないように彼女のいない部屋でひっそり過ごしますからどうかみなさんの方はお元気に外の世界をエンジョイしていただいて…ASD寄りADHDでもしょせんは生体コンピューターの人間なのだから経験から学習してその性格や思考は日々修整される。若かった頃はわからなかった相手の気持ちも経験によってエミュレートされ、そうして俺的恋愛積極期に多発した拒絶体験は歳を重ねる毎に恋愛感情そのものに対する罪悪感へと変貌していったのであった。

ところがそのことを最近友人と話していてこんな思考が脳内に像を結んだ。俺がASD流の貧弱なコミュニケーション能力により好きになった女の人たちに結果として迷惑をかけたことは間違いないが、なにも相手は『真・女神転生』シリーズの悪魔よろしく俺の属性が弱点になっていて俺が好意をもってぐふぐふと気味悪く話しかければ即座に死亡、というプレスターンバトル方式では当然なく、人間なのだからそのときの気分とか状況とかによって俺の行動に対する反応は変わってくるはずである。

とすれば拒絶とはこれを数値化するならば確率の問題であって、俺の連続恋愛拒絶体験も要するに偶発的なものにすぎない。俺はそれを100%俺の問題であるかのように捉えていたのだが、そのことの意味を考えるに、おそらく自分ではどうにもならない偶然という恋愛成就の重要ファクターを、考慮したくなかったのではなかろうか。なぜなら偶然を恋愛成就の重要ファクターとして受け入れてしまえばどんなに自助努力をしても(していなかったが)無駄ということになってしまう。恋人ができるかできないかは運に過ぎず、できるやつは秒でできるし、できないやつは一生できない。

これは恋人がいたことのない人間にとっては絶望的なアイディアであるから、俺は罪悪感と引き換えに、俺の性格やら見た目やらなんやらを改善すれば確率論的にではなく機械的にいつか必ず恋人はできるはずだ、という幻想を受け入れることにしたのである。それは恋愛の成就を永遠に先延ばしし、実質的に不可能の領域に置くことに他ならない。不可能だからこそそれはいつまでも可能性として存在し続ける。恋に恋する、とは思春期キッズの発情状態を指してよく言われるが、それとは別の意味で俺は想像上の恋に思弁的に恋することを選んだのである。もっとも、最近はそうした自分の思考メカニズムがわかってきたので想像上の恋を捨て、結果とりあえず現実のデートにこぎつけることができたのであるが。

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さて、まだこの感想を読んでいればみなさんもういい加減に「何の話だよ!?」とキレかかっているかと思いますが、何の話かといえば『彼女のいない部屋』いやマジこういう映画だったのよホント。確かにこの映画は恋愛の話ではないしどういうあらすじかと言えばある日突然おかーさんが家を出ちゃって残された夫と二人の子供は母親の喪失を何か他のことで埋め合わせられないまま成長していく…というどこに俺の恋愛無理話が関係するんだよと一見して思われるものなのだが、そのね、ほら、まぁ、観ればわかるよ! 観ればたぶん俺が自分の恋愛無理話をかなり意表を突く形で引き合いに出した理由がわかるはず!

もう少し核心に近づいて書けばこの映画はデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』とちょっと作りが似ていた。なんか今度は急に近づきすぎたような気もするがそのへんは持ち前の鈍感力で気にせずタイプを進めると、最初に何枚もの裏向きのポラロイド写真を神経衰弱みたいにひっくり返す主人公のおかーさんというシーンが出てくるわけですがそれが映画の構成を暗示していて、時間軸は切断され現実と虚構はランダムに繋がってしまうから観ていて何がどうなっているのかよくわからない、そのシーンで描かれているものがいったい何なのかわからない。

そうしたシーンの繋がりの中で少なくとも二つのストーリーがおぼろげに浮かび上がってくる。そのストーリーが「自分にはどうにもならない偶然」によってひっくり返る終盤、あぁ、そういうことだったのか、と腑に落ちる人もいれば、その「自分にはどうにもならない偶然」は主人公の心象風景なのでは? と更なる思考の迷宮にはまり込む人もいるだろうが、まぁ俺はですね上に書いたような自分の思考の変遷がありますからあぁこういうことあるよねって思いましたよ。

マチュー・アマルリックの演出はウェットな出来事も淡々と捉えて観客に安易な同情や感動を抱かせない。ポラロイド写真のように静かな画面は一見すれば冷たい印象を与えるけれども、その静けさがストーリーの変転する終盤に至って一抹の優しさを帯びるのが良い。ポラロイド写真は変わらないが人は変わる。最初は受け入れがたい「自分にはどうにもならない偶然」も、いずれ受け入れられるようになったときに、静けさの意味も変わるのだ。

なんだか非常に迂遠な感想になっているがまぁだいたいそういう感じ、トリッキーな構成に加えて指を離しても鳴り続けるピアノなどの画面と音のズレを多用した演出も面白い(これはこの映画を理解するヒントでもある)、端正な画面構成は滋味を感じさせて…となかなか見応えのある良い映画でしたねこれは。

【ママー!これ買ってー!】


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ハリウッド女優の人って大変ですねという映画。

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