《推定睡眠時間:0分》
誰が言っていた話だか覚えていないがその昔たしか1970年代ごろ、他の映画会社にこれはウチでは映画化無理ですねぇと断られた脚本をある脚本家が東映に持ち込んだら企画にオッケーが出てしまい、えっ大丈夫なんですかと聞くとプロデューサーから「東映はなんでも映画化できる。ただしクオリティは期待するな」と言われたという。完成度など二の次三の次で荒削りでもいいからとにかく目新しさのある企画ならばさっさと映画にしてしまうのが70年代の東映という会社であった。
代替わりしてもその社風はなんだかんだ受け継がれているのか東映配給のこの映画『宝島』、表面的なストーリーは戦後アメリカ占領下の沖縄で嘉手納基地から物資を盗んで貧民たちに配っていたものの米兵に捕まってから行方知れずとなった伝説的な義賊を巡る大河ドラマだが、テーマとしては現在の日米地位協定問題や辺野古基地新設問題の源流は何なのか、なぜ沖縄では基地や米兵について住民と沖縄の対立が生じているのかというもので、現在のメジャー邦画では政治的にセンシティブなテーマゆえ少なくとも積極的には扱われないたぐいのもの。それを低予算ではなく今年の東映を代表する上映時間191分(!)の超大作として作ってしまうのだからさすが「なんでも映画化できる」東映である。
しかし「クオリティは期待するな」もまた東映映画であった。何も質が悪いということではないのだがたとえば今大ヒット中の『国宝』なんかと比べると良いところは良いけど悪いところはわりと悪いみたいなデコボコした作りになっていて、『国宝』みたいな優等生映画じゃあない。ストーリー的には1952年~1958年ぐらいの戦後沖縄を描く前半が第一部で本土では学生運動の高揚期であった1968年~1970年を描く後半が第二部という感じなのだが、コザ暴動をハイライトとする第二部は相当面白いものの、第一部のとくに序盤は邦画というか予算(と経験)の限界を感じさせる描写や冗長に感じられるシーンが多く、最初の方はうわーこれを3時間観るのか~、これなら米兵が間接的にしか出てこない『沖縄やくざ戦争』の方がよほど戦後沖縄の抱えたアメリカと本土に対する感情や搾取構造をうまく捉えてしかもちゃんと娯楽していたよな~とか思ったものであった。
ましかし第二部は傑作だ。傑作と言い切ってしまおう。第一部は伝説的な義賊(演じるのは永山瑛太)の仲間や恋人など関連人物がこいつを失ったあと刑事とか教師とかヤクザとかそれぞれの道を見つけていく過程が描かれるのに対して第二部はかくしてバラバラになった感じの義賊関連人物が運命の糸によりコザ暴動に集結、そこから一気に義賊の残した謎が明かされていく展開なだれ込むのだが、このコザ暴動のシーンは今の時代の邦画でよくぞここまでやったという出色の出来、これがサイコーなので傑作認定が降りてしまう。
なにがサイコーってエキストラを200人ぐらい集めて暴動の風景を誤魔化しなく見せている点もさることながら考証がたぶんかなりしっかりしている。米兵によるひき逃げ事件に端を発するコザ暴動だが最初はおいおいおいみたいな感じで野次馬が集まっている程度で暴動の気配なんかぜんぜんない。それが些細な衝突の積み重ねによってどんどんと野次馬たちの不満と怒りが高まってついに爆発、やがてジェラルミン盾で完全ガードした機動隊がやってくるのだがコザ住民にとったら日頃から米兵にぞんざいに扱われている自分たちは被害者の側、それが逆に警察に排除されるというのだから火に油を注ぐ結果になるわけで、そこから暴動は制御不能な爆発的展開を見せる…と暴動の発生から最高潮に達成するまでをじっくりと見せるわけで(この映画の構成自体、コザ暴動の前振りとして第一部があるような感じである)、こういう本格的な暴動シーンは邦画史上にもほとんど存在しないんじゃないだろうか。
劇画作家・映画監督の石井隆は1968年の新宿騒乱にたまたま新宿で映画を観てきた帰りに巻き込まれてしまい、暴動に参加するつもりはなかったのだが機動隊に活動家と誤認され、機動隊員に人間の盾として利用されながら活動家たちには石とか火炎瓶を投げつけられたそうだが、『宝島』のコザ暴動ではエキサイトしている人たちはイエロープレート(米軍関係の車両を示す)の車を片っ端からひっくり返して即席で火炎瓶を作ったりしているものの、「はい通りますよ~」とタバコを頭上に上げて人の群れから知らん顔で出てくるサラリーマン風情のオッサンもいたりする。このリアリティ! こんな人も存在する一方で群衆にチラホラ混じった白ヘルメットの学生活動家(ちなみに白ヘルは一般的には中核派のヘルメット)たちはさすが直接行動に慣れているだけあって一般の暴動参加者より明らかに無駄のない素早い動きで投石や火炎瓶投擲を行っていて笑ってしまう。暴動とくればいろんな人がそこには存在するわけで、そうした暴動の多層性をここまでしっかり作り込んだ邦画というのも以下同文である。
映画の中でもそれまで米兵相手の水商売という仕事の都合本土復帰反対派だったバーのママ瀧内公美が暴動の熱にやられてひっくり返った車の上に登るとやっちまえコラァ! とその場で転向していて笑えたが、俺もこのシーンのアナーキーな高揚感にはすっかりやられちゃったね。68年の学生運動があれだけ盛り上がったのもわかるよ。こんなエキサイティングな空気が体験できるんならたとえそれほど政治に関して意見がなかったとしても参加しない手はない。圧倒的攻撃力&防御力を誇る機動隊、そして統治主体であるために圧倒的な権力を誇る米兵たちを、なんの武器も権力も持たない大衆がブチ切れパワーによる数の力ひとつで突破してしまうのだから、まるで夢のような話ではないか! ま、夢だから翌朝にはもう醒めちゃうんだけどさ(その儚さもまた直接行動の魅力なのかもしれない)
さて物語はこのコザ暴動を経て義賊の残した謎、なんでも義賊は姿を消した日に嘉手納基地から「予想外の戦果」を得たということで、この「予想外の戦果」とはなんだったのかという話になっていくわけだが、あくまでもネタバレでなく抽象的に言うならば、それは沖縄の抵抗運動のスローガンとなった「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」であった。これ、単なる謎の答えってだけじゃなくてこの映画と原作のメッセージでもあるんじゃないすかね。アメリカと本土の一方的な都合を両方向から押し付けられて太平洋戦争では多くの民間人死者が出、戦後もまぁ物質的な豊かさは戦前より向上しただろうが第一部のターニングポイントとなる1959年の宮森小学校米軍ジェット機墜落事故(映画内ではこの事故をモチーフにした別の事故に変えられているっぽい)に象徴される米軍による犠牲者が絶えない。
そうした中で登場人物たちはニヒリズムに陥ったり本土復帰運動に打ち込んだりとそれぞれの答えを出していくのだが、その最後にみんなでたどり着くのが「命どぅ宝」。なるほどデコボコした作りの映画には違いないが、このオチの付け方は素晴らしいと思うし、なによりそれを言うために191分もかけてしまう作り手の真剣さにハートを打たれる。監督の大友啓史は『影裏』という東日本大震災の余波を描いた映画も良かったけれど、社会問題との向き合い方がとても信頼できる監督だと思います。
役者さんについても触れておくと主演の妻夫木聡もいろんなものの板挟み状態で何もできない無力感や苛立ち見事に表現していて熱演だったし義賊の恋人役の広瀬すずも男たちが表面に出さない悲しみを一手に引き受けてがんばってたとは思うもののやはりのやはり、沖縄ヤクザの窪田正孝が今年の日本俺デミー賞助演男優賞受賞。もうねすごいよこのリアルに人殺しそう感。虚無のオーラが半端ない。拳銃を撃つところなんて腕時計見て時間確認するぐらいのトーンで撃つから一人だけ北野映画から出張してきたのかと思ってしまった。北野映画も『3-4×10月』とか『ソナチネ』は沖縄が舞台だしな。窪田正孝の放つヤバさはなにせ191分もあるからさすがに冗長なこの映画をかなり引き締めてくれていたんじゃないだろうか。
あと米兵闇討ち隊の尚玄も出番はわずかだったけれども良かったね。ぶっちゃけ登場人物のほとんどが1950~1960年代の沖縄人にはまったく見えない(ただし窪田正孝のみ1960年代沖縄のやくざ抗争を描く『沖縄やくざ戦争』に出ていても違和感なし)この映画なのだが、尚玄は前にも『あなたの微笑み』で沖縄の怪しい社長を演じていたし、てか元々沖縄の人なのでなんかやっぱ存在に説得力があった。塚本晋也も第一部にしか出てこない中年刑事役でイイ味を出してたり瀧内公美も迫真のバーのママっぷりを見せていたりと脇を固める人たちが面白い映画でもあったなぁ。
ま、そんな感じすかね。観る前は191分とかなにかの間違いではないかと驚きながらふざけんなバカてめぇ巨匠気取りかコラと心の中で暴言を吐いていたが、観終わった今はええもん観せてくれてありがとうの気持ち。暴動シーンの作り込みもすごいし今へと続く戦後アメリカ統治下の沖縄史を辿りながらその裏側に作家の想像力を忍ばせるスケールの大きさも現代の邦画では稀有なもの。とても見応えのある力作でございました!