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英米系の白人男性スパイがカッコよく世界を救い女にもモテモテという明らかに昭和のコンテンツであるところの『007』シリーズは次の展開に向けてどこだか知らんが権利持ってるところが伝統維持かそれとも革新かいやでも革新し過ぎちゃったら『007』の意味がないしなぁと頭を悩ませているだろうが俺としてはウェス・アンダーソンに監督をやらせたらいいんじゃないかと思ってて、それというのはいつからかウェス・アンダーソン映画の基本的な図式が富裕層であるとか高学歴であるとか天才であるとか何かしらエリート層に属する白人男性が持ち前のリーダーシップで多人種チームを率いて危機に立ち向かうなどする、という白人マッチョなものになったからで、これは『ライフ・アクアティック』でオマージュが捧げられた1980年代のカルト映画『バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー』(万能の天才バンザイ博士がチームを率いて世界を救う話)をウェス・アンダーソンが偏愛しているためと思われ、この『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』も世界的大富豪のパワーエリート白人(演じるベニチオ・デル・トロはプエルトリコ出身だが)ザ・ザ・コルダが紛争の絶えない中東の架空の国フェニキア国を救うための事業を立ち上げ各国を巡って有力者から資金集めをするというストーリーに留まらず、ザ・ザ・コルダなる国籍不明な珍名称にも『バカルー・バンザイ』の影響が感じられる。
しかも今回はアクション編だ。基本的に少なくとも見えるところでは人が死なないウェス・アンダーソン映画には珍しく映画開始即胴体真っ二つになってザ・ザ・コルダのお付き死亡。世界を股に掛けて集金する超国際的大富豪ゆえザ・ザ・コルダには敵が多く至る所で常に暗殺の危機。しかしさすがは超国際的大富豪、撃たれようが刺されようが爆破されようがまるで意に介さず泰然自若、しかも勇敢なので最後は悪人と一騎打ちで戦うのだ! ザ・ザ・コルダはあくまでも超国際的大富豪であってスパイではないのだが、ウェス・アンダーソンを次期『007』の監督にというのはこの映画がウェス・アンダーソン流のスパイ・アクションの趣もあるからなのであった。暗殺者のみならず国連みたいな各国の代表者っぽい集まりによる妨害工作とも戦いフェニキア国を救うために奔走する我らがザ・ザ・コルダ。俺にはこれと『007』とか『ミッション:インポッシブル』の間にさほど距離があるようには思えない。
そんな映画なので近年良くも悪くもマンネリ感のあったウェス・アンダーソン映画の中ではちょっと新味があって面白かった。でも同時に空虚だなぁとも思ってしまう。これ前にも書いてると思うんですけどウェス・アンダーソン映画って昔はエリートなんだけど人格的な欠点のある屈折した人が悩みながら進んでいくみたいなところがあって、それがたぶん『ファンタスティック Mr.FOX』ぐらいから無くなった。で同時に外でロケしなくなって、まぁ『ファンタスティック Mr.FOX』ってストップモーション・アニメだからその経験が影響してるんじゃないかと思うんですけど、スタジオの中に建てたセットの中でほとんど全部撮るようになったんだよな。それまでは結構ショボい悩みを抱えたりと地に足がついてたから共感の余地があった主人公が『ファンタスティック Mr.FOX』以降は現実と接点を持たない共感できないエリート・ヒーローになっちゃって、映像的にはスタジオ内で全部コントロールするから外に出なくなってっていう、そういう二重の絵空事化がウェス・アンダーソンの映画に起こって、なんか、つまりですね、松本人志が結婚してから金髪になって筋トレ始めて保守思想を語るようになったと同時にかつてのような奔放でありつつ庶民感覚を持ったお笑いができなくなったみたいなことがウェス・アンダーソンにもあるんですよ。
そりゃ貧しくて紛争絶えず大変らしい中東のフェニキア国を救うというのだからザ・ザ・コルダは良いことをしてるのかもしれないが、このフェニキア国の貧困や紛争の現実が画面に出てくることは一切ないし、そもそもフェニキア国って架空の国じゃないですか。そのうえ計画の進展はプラモデルみたいに画面に図示されるし、結局最後までフェニキア民衆は出てこないし、要するにフェニキア国っていうのは白人エリート・ヒーローたるザ・ザ・コルダによって指導され計画され救済される対象としてのみ存在するもので、あくまでも白人エリート・ヒーローをカッコよく飾り立てるための道具でしかなく、この映画の中でウェス・アンダーソンは現実の中東問題とか貧困問題とかにコミットする気はまったくない。
これはやはり空虚と言わざるを得ないんじゃないすかねぇ。その膨大な富によってあらゆる国家の指図を受け付けず独断で自分の考える正義を実行する10人の子どもの父ザ・ザ・コルダのプロファイルはスターリンク衛星をウクライナ政府に提供することで戦争協力を行い14人の子どもを持つイーロン・マスクと被るところがあるのだが、まるでこの映画はマスクの思い描く夢のよう。自分がヒーローになりたいという願望だけがあって、現実に困っている人々を助けたいという気持ちは持ち合わせていない人の発想だ。だからこそ箱庭ここに極まれりで面白いのだけれども、その幼児性や無責任は今や巨匠だからと臆することなくちゃんと指摘しといた方がいいだろう。それにね、こんな空虚なウェス・アンダーソン映画よりも、人間的な温もりのあった『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』ぐらいの頃のウェス・アンダーソン映画の方が、ぼかぁ好きなんだよ。