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アメリカ人はマスクをしないというのはコロナ禍でよく見聞きしたものでマスク大好き日本人の一人としてはそもそも毎年春となれば花粉症でマスク必携なわけだしとくにマスク着用に抵抗感もなくアメリカは変な国だなぁとか思ったりしていたが、そんな俺でもコロナ禍におけるマスク着用圧力に異様なものを感じたことは何度かあって、そのひとつは「映画館で映画を鑑賞中にもマスクを着用しろ」というものだった。これはコロナ禍初期~最盛期には映画館(おもにシネコン)側が新マナーとしてマスクの着用を打ち出したためなのだが、科学的に考えれば当然わかるように映画館で映画を鑑賞中にマスクを着用することにはほとんど意味がない。
そもそもなぜマスクを着用すべきなのかという話なのだが、主たる目的は飛沫感染の防止で、飛沫というのはクシャミをしたり咳をしたり声を出すことで生じることは言うまでもないとして、新型コロナの主要な症状は咳や全身倦怠感や高熱であり、クシャミは新型コロナウイルスの場合はほぼ出ないことが統計的に明らかになっている(COVID-19_MSD家庭版)。そして咳が出る場合はまぁ人にもよるだろうが体調不良の場合は映画館などに行かないで下さいと国からも劇場側からも周知されていたので、映画館での映画鑑賞時におけるマスク着用はもっぱら会話による飛沫感染を防ぐためにあると言えるが、日本の人は欧米の人に比べて映画を超しーんと黙って観ることは映画館に何度か行ったことがある人ならまぁ言うまでもなくわかりますよね。
つまり、そりゃまぁ一応大爆笑コメディとかは例外と言えなくもないかもしれないが、日本の人は映画を観ながら喋らないので(それにコロナ禍中は人と人の距離を離すために一席開け、いわゆる市松模様の座席販売をシネコンは行っていた)、映画館でマスクを着用する科学的・医学的な意味や根拠はなかったのである。にもかかわらず、映画館ではマスクをつけろと恫喝するような意見を俺はコロナ禍当時にツイッターで何回か目にしたことがあるし、マスクをつけずにスーパーに入店しようとして店員に止められたインフルエンサーが炎上したこともあって、あのころ、コロナ禍の日本において、というかこの映画を観れば察することができるが、たぶんアメリカを含めた世界の多くの国において、国民の間に科学的・医学的な根拠に基づくマスク着用要求ではなく、「みんなが着けてるし政府も着けろと言ってるんだからお前も付けろ」という、科学や医学とは無関係のもっぱら感情的な同調圧力によるマスク着用要求が蔓延していたんであった。
『エディントンへようこそ』の主人公である田舎町の保安官ホアキン・フェニックスは喘息で呼吸がしにくいからというのと田舎町で近くには誰も感染者(に見える人)がいないことから郡のマスク着用指示にゆるく反発してノーマスクを続けているのだが、そんな彼を町の人々は煙たがり、なんでマスクを着けないんだと日々小さな衝突が起こっている。かねてより妄想気質だった母親の影響で精神不安定となった主人公の妻(エマ・ストーン)は長引くステイホームで母親につられてYouTubeの陰謀論動画ばかりを見るようになり夫婦仲は冷え、しかもデータセンター誘致を引っさげて再選を狙う現市長とは確執があってこれも気に食わない、と主人公の不満はたまる一方。ちくしょうこんな世の中おかしいだろ! どげんかせんといかん! てなわけで政治経験なんかなんもないのに主人公は市長選に立候補。だがそんな折、ミネアポリス警官の過剰制圧によるジョージ・フロイド死亡事件が発生。ブラック・ライヴズ・マター(BLM)デモが燎原の火の如く全米を覆い、ミネアポリスからずっと離れた田舎町エディントンでもBLMデモが勃発して選挙事務所化した保安官事務所と鋭く対立することになると、事態は思わぬ方向へと転がり出すのであった。
これはコロナ禍がいかにアメリカの分断を決定的なものにしたか、ということの寓話である。映画の冒頭は浮浪者が誰にも届かない怒りに満ちた独り言を言いながらエディントンを歩いている場面だが、この浮浪者と同じように、劇中の人物はごくごく一部を除いてほとんど全員(主人公だってむろん例外ではない)が自分たちだけが絶対的に正しいと思い込んで意見の違う他者と対話をしようとせず、そればかりか敵と見なして時には暴力を行使してまで排除しようとするんである。なぜそんなことになったのか、というのは少し考えようとさえすればそう難しいことではないように思える。あのコロナ禍で世界中の人々が教わり、また実践したのは「他者は潜在的な敵であり悪であり、自分を害す存在である」という思想だからだ(言うまでもなくそれを加速させたのはツイッター等のSNSである)。ソーシャルディスタンスがなぜ必要かと言えばそれは新型コロナの感染を防ぐためだが、その意味するところは「他者は自分を害す(ウイルスを保有している)可能性がある、よって遠ざけるべきである」ということだし、より露骨なのは空港検疫で、新型コロナ禍においては国を跨いだ人の移動が厳しく制限されることになったが、それは抽象的には「他国の人間は自分たちを害す(ウイルスを保有している)可能性がある、よって排除すべきである」という意味に他ならない。そして新型コロナ禍では、それを非常に多くの人が疑問もなく受け入れたんである。
といっても感染症の場合、防疫のためにはこうした対策はやむを得ないわけで、他者のせいで死ぬか他者を切り捨てて生きるかの二択を突きつけられて前者を選べというのは酷な要求ではある。だからたぶん問題はそこではなく、そうした人々に他者を敵視するよう仕向ける施策も時には仕方がないことではあるが、決して理想的でも道徳的なものでもなく、あくまでも一時的な緊急措置であるということを、しっかりとみんなに理解してもらうべきだったのだ。ところが現実にはそう明言することのできた指導者や医学者はいなかった、かどうかはわからないが、少なくとも俺は知らない。だから今でも自分がコロナ禍に「他者は潜在的な敵であり悪であり、自分を害す存在である」と教わったことに気付いておらず、そのためにその思想を保ったまま、という人は少なくないように俺には見える。あのころ誰もが排外主義者だった。そう認識して思考をある程度性善説の方に修正していかない限り、今は分断の時代などと言われるが、分断が埋まることは決してないように俺としては思う。これは右翼とか左翼とか保守とかリベラルとか関係なく誰もに言えることなんじゃないだろうか。
『EDDINGTON』とシンプルに町名だけの原題はコーエン兄弟の『ファーゴ』やアルトマンの『ナッシュビル』を思わせて、実際内容も犯罪と選挙絡みの群像劇ということで『ファーゴ』と『ナッシュビル』を合わせて同じくアルトマンの『ショートカッツ』のエッセンスも加えたような感じだが、姿の見えない敵(それは新型コロナウイルスのメタファーでもあるでしょうが)と主人公の戦いにシフトしていく後半は、そのためにそれまで渦巻いていた町の人々の不満や不信が醸し出す不穏ムードがどこかへ飛んでいってしまって、絵面は派手だが物語としては弱くなってしまった。これなら『ショートカッツ』の方が人死には少ないけど全然絶望的で終末感あるよな。手も足も頭も秒で吹き飛ぶ情無用バトルは『ブルータル・ジャスティス』などのS・クレイグ・ザラー作品を思わせて面白かったけれども。
ともあれ今こういう映画がアメリカ映画の比較的有名なスタジオと有名な映画監督の作として出てきたのは価値のあること、なんせアメリカなんか狂った国なので政治思想が自分と異なるとかいうどうでもいい理由だけで右派も左派も銃を手に取り人間を一人ぐらい平気で撃ち殺してしまうわけである。「他者は潜在的な敵であり悪であり、自分を害す存在である」と信じてSNSで自分と同じ考えの人とだけ繋がり考えの違う他者を排除にかかる行動があまりにも一般化してしまっているように見える現代アメリカに釘を刺すのだから立派なもんじゃあーりませんか。しかもあのオチ爆笑だよね。庶民たちが愚かにも殺し合ったら結局誰が得をするのだろうっていう。これも、現にアメリカはそうなっている、ということをそのまま映しているだけだが、でもどれぐらいの人がこの映画をそういうものとして理解してくれるのだろうと思うとそれなりに暗い気分にならないでもない。大抵の人は主人公がキモいとかムカつくとかそれぐらいで終わっちゃうんじゃないすか。今は共感の時代だってんで共感を呼ばない主人公の出てくる映画など主人公だけじゃあなく映画丸ごと嫌われてしまうものだ。
それもまた「他者は潜在的な敵であり悪であり、自分を害す存在である」の思想を未だ多くの人が心に持ったままであることを示す傍証かもしれない。どうせ他者は自分に害を為す存在なのだから、そんな他者を理解しようとしたりそこから何かを学ぼうとする必要なんてあるだろうか? あのころ誰もが排外主義者だった。そしてたぶん今でも、まぁ誰もとは言わずとも、たいていの人が無自覚な排外主義者なんである。