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最近Netflixで『攻殻機動隊』の新アニメシリーズが始まって『攻殻』が映像化されるのはこれで何度目かわからないのだが今回の売りは士郎正宗の原作の忠実な再現にあるらしい(Netflix入ってないから観られてない)。よく知られた話かもしれないが士郎正宗の原作版『攻殻』と押井守の映画版、およびその強い影響下にある各種の『攻殻』は、キャラクターやプロットは概ね原作に準拠しているものの、作品のトーンはだいぶ異なり、原作の方はギャグ要素も多い80年代的なサイバーパンクSFなのだが、映像版の方はギャグ要素をほぼ廃してハードボイルド調になっているのが特徴である。
ところで、そのどちらが良いとか悪いとかそういう話ではないのだが、もし原作に忠実な形で1990年代に『攻殻』がアニメ化されていたら、おそらく『攻殻』という作品がこれほど大きなインパクトを与え、『マトリックス』を初めとして様々な以降のSF映画に影響を与えることはなかったんじゃないだろうか。というのも原作版の『攻殻』は80年代のサイバーパンク・ムーブメントの中で描かれた時代現象的な作品なわけで、ニューエイジ思想を初めとして押井版ではほぼ一掃されたとさえ言ってもよい同時代的なセンスやモチーフが横溢しているわけである(と断言してしまったが実は原作を通しで読んだことはない。すいません明日買って読みます)。だからそれを90年代にそのまま映像化したなら時代の最先端とはならず、ちょっと古いSFにさえ見えたかもしれない。
それに、一般論として、漫画を描く仕事と映画を作る仕事はまったく別である。原作者本人が映画化してかなり面白い作品になっていた『THE FIRST SLAM DUNK』のような例外もたまにはあるとはいえ、基本的に漫画を描くプロは少なくとも漫画ほどは映画を巧く作れないし、逆に映画を作るプロは映画を作るほど漫画を巧く描くことはできないだろう。その好例となるのは映画版『クレヨンしんちゃん』なのだが、そのシリーズ2作目か3作目の時に、原作者の臼井儀人は当時映画クレしんを手掛けていた本郷みつると原恵一に対して(自分への)脚本提出と確認などはいらないので自由に作ってくださいと告げ、そのために映画クレしんは原作から離れ、とくに原恵一監督時代には監督の趣味が全開になったし、原作には決して登場しないような大胆な演出も可能となったのであった。その結果生まれたのが日本アニメ史上に輝く『オトナ帝国』と『戦国大合戦』なわけだ。
何の話かと言えば、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』、それはもうインターネットで大好評なのだが、SNSで大絶賛している人たちはだいたい「原作そのままで素晴らしい!」ということを言っているんである。これに限った話ではなく最近の原作ものアニメ映画は大抵「原作に似ているか否か」で良し悪しが語られる傾向にあるように思われるのだが、上に書いたような理由で、その評価基準はぶっちゃけ映画のタメにはならないだろう。たしかに原作そのままの映画を作れば原作ファンは喜ぶかもしれないが、それは裏を返せば原作ファンが喜ぶだけで、新たなファンを獲得したり原作ではできなかった方向へと映画が成長していくような発展性はないということかもしれない。
俺がこの映画を観て思ったのは映画としての物足りなさだった。それは平板なカメラワークであるとか、アクションの単調さであるとか、そこに何かしらの美意識を見出すことの難しいまるで生成AI製のような背景であるとか、なのだが、どうもこうしたことは原作の持ち味を壊さないように壊さないようにと配慮した結果のように思える。それでお客さんが入っているのなら興行的には正しい判断だったのかもしれないが、この映画がクラシックとして十年二十年先も見続けられるかといえば、たぶんその無個性さからいって、あまり見込みはないだろう。もっとも、それを望む人は今のアニメ映画ファンにはほとんど存在しないかもしれないのだけれど(それを言ったら昔からそうか)。
オリジナルの面白いキャラクターが出てくるわけでもないし面白いアニメ表現が出てくるわけでもなく、アニメーションとして特筆すべき点がない以上はお話について語るしかない。この映画は『ちいかわ』初の劇場版らしいが、内容的には番外編というか、ジャンプの連載漫画なんかだと日常回と日常回の間に長編の「○○編」というのをやったりするが、その「○○編」にあたるらしい。いつものようになんかしてるちいかわたち(何をしているのか不明)のもとに怪物討伐してくれたら大金贈呈おいしい食べ物もいっぱいあるヨのチラシが届く。さっそくちいかわたちはチラシに書かれた島に行くがそこにはセイレーンと人魚が棲みついていて、コイツが村人を食ったりするので村人たちは怯えてちいかわたちに助けを求めたらしい。
しかし話を聞いてみるとセイレーンが島民を食うのにはワケがあった。今のセイレーンは二匹の人魚と暮らしているが元々は三匹おり、一匹はどうも島民の誰かに食われてしまったらしい。人魚の肉というのは食うと不老不死になると言い伝えがあるので不老不死を望む誰かが島にいたんだろう。ということでセイレーンは怒って人魚を食った犯人が出てくるまで島民食い続けまーすとやって、それまではセイレーンの歌声で島の作物はよく育ち、育った作物で作ったおいしい料理を島民がセイレーンに差し出すという良好な関係性が築かれていたのだが、そのエコサイクルは見事に崩れ去ってしまったわけである。
こうあらすじを文字に起こしてみれば誰でもとは言わずとも大抵の人は思うんじゃないだろうか。じゃあ人魚の肉食った犯人探せばいいじゃん、って。ところがそういうことは一切しない。セイレーンと島民の板挟みで悩むちいかわ……みたいな描写があったりするのだが、どっちの気持ちもわかるナァどっちか一方だけ悪者にしたくないナァと思うのであれば私が犯人を捜して裁判受けさせますからどうかその間は島民食わないでとセイレーンを説得し、一方で島民たちにはセイレーンが怒ってるのはこういう理由なのでどうか犯人捜しに協力してくださいそれで万事解決ですと説明すればいいだけの話じゃないだろうか。
インターネットでこの映画を検索すると、いや検索っていうかBlueskyの映画フィードなんか見てるとここ数日ちいかわちいかわちいかわで検索しなくても強制的に見させられるのだが、「どちらが正義でどちらが悪だったのか……」みたいな感想をつぶやいている人は結構いる。でももしこの物語の中で適切に犯人捜しが行われ、適切な裁きが行われていれば、そんな禅問答は生じなかっただろう。こっちも何%ぐらい悪いしあっちも何%ぐらい悪い、どっちも悪いのだからお互いに非を認め合ってまぁなんとか共生していきましょうよ、とこういう結論になったかもしれないし、現実世界で起こる様々な衝突というのは得てしてそういう感じで決着がつくもんである。
なぜ犯人捜しが行われず、そのために島民とセイレーンの対立が調停されないのかはよくわからない。単にそっちの方がアクションとか入れられるし面白いからかもしれない。しかしそうだとすれば、それはちょっと苦手な感じである。だってなんか露悪的じゃない。普通に犯人捜しをすれば平和に解決するのに、あえてそれをしないことで悲劇的なムードを演出するのだとすれば、それはお涙頂戴のために現実をねじ曲げる扇情的な手法ってもんでしょ。それで「どっちが正義でどっちが悪だったのか……」とか極端な問いをさせるわけでしょ。すごいツイッターっぽいなと思うよこういうの。ツイッターって一般的にはこうですとか現実にはこうですっていうのを無視した非現実的な極論ばかり飛び交う空間じゃないですか。だからこのセイレーン編に『ちいかわ』っていう漫画のエッセンスが仮に詰まっているのだとしたら、あぁなるほどね、ツイッターでウケそうな漫画ですねって、そういう感じになっちゃうのよ俺は。
そんなものは作者だって充分すぎるほどわかっているだろうとは思いつつ、自然と人間ののっぴきならない対立を見て「どっちが正義でどっちが悪だったのか……」とか禅問答をしたいのであれば『もののけ姫』でも観ればいいわけで、『人魚の島のひみつ』は『もののけ姫』の切実さの入口にさえ立てていないように思える。それに、こんな展開は昔のアニメなら珍しくなかったわけで、たとえば映画ドラえもんの『のび太とアニマル惑星』は世界戦争が勃発した星から科学者が動物だけを近くの星へと避難させ、そこで動物たちが平和でエコな文明を築いていたところに、世界戦争により荒廃した星で地獄のような生活を送る人間(ニムゲと呼ばれている)たちが安住の地を求めて侵略にやってくる、という物語だが、映画の最後、生活が苦しいからといって平和な文明を侵略するなんてけしからんとこちらが思っていたところで、ドラえもんたちの奮闘もあってお縄を頂戴したニムゲの頭目が、その防護マスクを外すと、そこから現れたのは凶悪面の野蛮人ではなくひょろっとした普通の人間であった。
彼は深呼吸をすると少し悲しげに、同時にどこか満足したように、「良い空気だ……」とつぶやく。そこで不意にこちらの価値観は激しく動揺させられてしまう。たしかにニムゲは動物の星を侵略した悪いヤツらかもしれないが……でも、先人たちの世界戦争の被害者でもある彼らを、本当に我々は悪だと糾弾することができるのだろうか? ちなみに、このニムゲの頭目は藤子F先生の原作だと野蛮人のような悪人面であり、それが普通の人間に変更されたのは映画版の創意である。これもまた映画のプロと漫画のプロの幸福なコラボレーションの結果だろう。
総じて言えば、『人魚の島のひみつ』という映画は、結局のところファンアイテムに過ぎない作品かもしれない。だから当然ファンは喜ぶかもしれないとしても、映画としてそれでいいのかなぁ、とかは『ちいかわ』初学者の俺としては思うんである。
逆にファンアイテムとして考えたときかなり出来がいいな、というのがちいかわええかげんウォッチャーとしての意見でした。
ドラえもんやしんちゃんに見るような映画と漫画の幸福なコラボは無くとも、この大きさのコンテンツで不幸なコラボを一切生まないという徹底のされ方はあっぱれと感じるのでした。
(しんちゃんもドラえもんもビッグコンテンツだろというのはさておき)
あと後ろの席から子供の声で「怖かったー…」と聞こえてきて良かったです。
でもセイレーンとかせっかくならもっと怖さマシマシにしたのも観たかったかもしれない。ギャン泣きする子供がいなかったのである種いい塩梅だったのかも?
原作ファンが多いしキャラクター人気が高いから変に映画っぽい工夫をしなくても原作の絵をそのまま動かすだけで充分商売になるという。そういう意味ではマリオ映画とかと近いものがあったかもしれません~。セイレーンはあの怖さでもいいですけど、せっかくならちゃんと島民を食べてるところを出したらもっと良かったかもしれません笑
ちいかわに興味ない私には正直100ワニとの違いがわからんしワニが誹謗中傷され、ちいが絶賛される理由もわからなかった。
そういう意味では自分とは関係のない他人の書き込みによって自分の脳内の評価が決まってしまうという まさにSNS映画って感じで 映画の内容というより、大衆に病理を感じるコンテンツだと思いました。
あと攻殻はネトフリ限定じゃなくどこでも見れるし相当出来いいので一話だけでも是非。
あとマジで話は変わりますが 新作のバイオの実写映画、ラクーン事変に巻き込まれた一般市民でスプラッターマシマシなグレース編っぽさがあって、さわださんめっちゃ好きそうでした笑
ワッ!SARU版『攻殻』ネッフリ限定じゃなかったんですね!訂正して観てみます!
バイオの新作に関して言いますと、これまでバイオの映画はポール・W・S・アンダーソン版全作と『ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』、あとCGアニメ版を1本観てますが、全部面白かったので、新作には逆に期待してないというか、どうせ今度も面白いに決まってるよな、みたいな感じです~
そもそもお互いが「話し合えば(裁判すれば)平和的に解決する」見たいな発想すらないって言うのは映画を観るだけでも分かるでしょう、良くも悪くも脳筋キャラばかりな訳ですから
それにセイレーンは確実に犯人にあの”罰”を受けさせたいと思っている訳ですから「それぞれどれくらい悪いか分かれば納得する奴」というタイプでもないですし
一応言葉喋ってますけど、あれはクマに『子殺しを見つけますからその間、人を襲わないでください』っていうようなものですよ
その前提を抜かして「展開が現実的ではない、感動ポルノ的な話をするな」というのは「怪獣映画で映像面を派手にする為だけに無駄に破壊描写(怪獣が暴れるシーンを)出すな」と言っているくらい野暮すぎる話です
このレビューの着眼点は自分でも思いつかなかったですからそれは参考になりましたが
批判点としては正直ズレているなと思ったので書かせていただきました
「その前提」というのは自然に出来上がるものではなく、作者が意識的に作るものであって、「Aさんは必ずこうする、Bさんは必ずこうする」みたいな仮想的な前提を作れば、どんな非現実的な展開も作者は思いのままに作れてしまうわけです。
俺が言っているのは、その作為がお涙頂戴的だし露悪的である、ということで、たとえば、あなたはセイレーンは「確実に犯人にあの罰を受けさせたいと思ってる」と書いていますが、それは本当にそうなんだろうか?と俺としては思うのですよ。いろんな話し合いとか感情のぶつかり合いの中でもしかしたらセイレーンも心変わりするかもしれないし、その心の機微を描くのが「ドラマ」であり、心変わりするのが現実だと思いますが、この映画にはそうしたドラマや現実性が希薄で、作者に(あるいは読者にも)都合の良い「その前提」ばかりのように感じたのです。
ちいかわ含むナガノ作品は本来、クトゥルフ的な人間の言葉や理屈の何ら通じない謎の生物とそれに翻弄されるかわいい小動物、みたいなフェチズムを追求したものだと思います。映画になった部分は大衆ウケをかなり意識したのかセイレーンが言葉を明確に喋ったりしてますが、普段のナガノ作品の敵っぽいキャラはもっと意思疎通不可能な感じなのでセイレーンも本質的にはそうだと思います
過去に作者が「カマキリのメスがオスを食べてしまうような自然界の容赦の無さが好き、生き物らしさを描きたい」と仰っているのでこれはほぼ確実でしょう
なので人間社会の倫理や善悪というものをハナから描くつもりは無く、それが通じない自然や宇宙への畏怖がテーマだと思うんですね
だからセイレーンは理屈が何ら通じないキャラと捉えるのが正しくて、むしろそんな恐ろしいキャラの見た目が「かわいい」という所にこそ魅力があるのではないかと(それはちいかわや島民たちもベクトルが逆なだけで理屈が分からないのは同じ)
なぜか「考えさせられる……」「泣ける……」みたいな風にやけに人間的に受け取っているのが好意的な感想の人にも多いですが…
うーんなるほど。それは蒙を啓かれました。ちょっと思いついたことがあるので後でnoteにでもまとめようと思いますが、そうしますと、どの程度ナガノさんが意識しているかはわかりませんが(してないかもしれません)、やはり宮崎駿作品との対比で考えてしまいます。
というのも『ナウシカ』にしても『もののけ姫』にしても『ポニョ』にしても、宮崎作品って人智の及ばぬ自然に属する存在と人間との相克がよくテーマになるじゃないですか。で、その時に宮崎駿はナウシカのナウシカやもののけのアシタカのように、意思疎通がおそらく不可能な、それゆえに対立するものの間に入って、2つの世界の架け橋になろうとする人をよく主人公に立てますよね。
それは結果的にあまり成功しないのですが、たとえ成功しなくてもトライはしてみる、というのが宮崎作品のヒューマニスティックな特徴だとすれば、映画ちいかわでは最初からそれが放棄されているように見える。俺は古い人間なので、最初からそれを諦めていいの?とか思うんですよ。
ちいかわ本編では、ちいかわが一時的に家族として過ごした擬態型(かわいらしいが本性は凶暴なモンスター)を薄々そうだと感づきつつも討伐されるのから守ろうとする、という話があったりはしますね
あとあの世界のちいかわ族は何らかの理由ででかくて強いやつに変異してしまうらしく、ちいかわ族たちが「自分もそうなったら力に溺れて友達や同族を平気で襲うかもしれない」と不安がるシーンもあったり。
若干話は反れますが、ナガノさんは自然・宇宙の無慈悲さを美しいと心の底から感じている方なんだと思います。ラヴクラフト作品ですら精神病恐怖や醜形恐怖によって書かれたんだなとメタ読みできるものが多くありますが、ナガノ作品にはそうした偏見や恐怖というものは読み取れず、それらについて皮肉や冷笑をするでもなく、どこまでフラットに「かわいく」描かれている印象です。元祖以上に純粋なラヴクラフト宇宙観を描いているように自分は思えます。
それはそれとしてさわださんのnote楽しみにしています!ちいかわ本編の漫画を読んだ感想もいつか読んでみたいです
すべてをフラットに、かわいく、というのは村上隆のスーパーフラットに通じるものですねぇ。さくらももこの漫画とも近い世界観というか感覚かもしれません。
note記事はこちら→(https://note.com/niwaniwaniwaka/n/n4cd68aaebf93)ですが、SNSコンテンツのポルノ化現象という感じで書いてしまっているので、お気を悪くされるかもしれません……が、ポルノ的だからダメだとか排除せよとか言いたいわけではなくて、たとえば『コマンドー』みたいな筋肉映画や『13日の金曜日』みたいなスラッシャー映画も記事内の「ポルノ的」定義ではポルノ的で、そういうものは大好きなわけです。ただ俺は『コマンドー』を何か人生で大切なことを教えてくれる映画だとはまったく思わないので……みたいな感じです。
漫画版の方は、これも記事内にありますが、俺はあんまり漫画を読まない人で……なんかの機会にチラ見するとかはあると思いますが、あまり期待なさらないでください~。
ちいかわは「ファンシーなキャラクターが残酷に苦しめられてる様子を見るのが楽しい」という悪趣味なコンセプトが根底にありますからね。どちらかというと『ファニー・ゲーム』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に近いコンテンツだと思います。
こんなの観るぐらいなら『すみっコぐらし』の方がまだ良いでしょう(一時期、やたらと誇張された感想がSNS上で流れてましたが、普通に子供向けの良い話なので)
まぁ、減るものではないですし『ちいかわ』も『すみっコぐらし』もどっちも観たらいいかもしれませんが、子供向けアニメ映画ならやっぱり『ミニオンズ』みたいな、ただ騒いでるだけの無邪気なやつの方が好きではありますねぇ。F先生時代の映画ドラえもんみたいにジュブナイルSFなのに大人向けSFよりもハードな倫理的問いかけ(『雲の王国』など)を行っている、みたいなのもなんだかんだ大好物なんですが
『ミニオンズ』は正直、無邪気に振りすぎている気がして…w
私はピクサーや原恵一時代のクレしん映画出育ったせいか、「子供向け映画でもメッセージ性は必要」と思ってしまう世代なのかもしれません。
このまえBlueskyにも書きましたけど、従来の児童向けアニメというのは何らかの教訓や問題解決策(ケンカをしたら仲直りしようとか)がほとんど例外なく織り込まれていて、それが児童アニメのメッセージですし、そうしたメッセージがあるから児童アニメとおそらく分類されていて。ミニオンズが参照するルーニーテューンズなんかでさえ「世の中上手い話はなかなかないもんだよ」ぐらいのメッセージはあって、それが児童アニメを作る上では当たり前だったんですよね。
もののけ姫は当時宮崎駿目当てで観に来た大体の子供も大人も凄いけどよく分からねえで終わっちゃったけど、今回みんな誰が良くなかったんかねえみたいに話してるところ観るとやっぱり映画化した価値あったんじゃないんかな。客入りも良いみたいだし
この感想文で何を書いているかというと、「誰が良くなかったのか」という答えのない極端な問い立てをするために、物語から「ちいかわたちによる犯人捜し」という一般的で理性的な問題解決の展開を消去してしまうお話作りは、扇情的だしご都合主義的であまりよろしくないんじゃないの、ということなんですが、これはもしかすると俺があまり漫画を読まないからそう感じるのかもしれません。今の漫画はたとえば異世界転生とかデスゲームものみたいにアイデア重視で突飛な設定が珍しくないと思うんですが、そういうリアリティを無視したご都合主義が当たり前の物語作りにあんまり慣れてないので、違和感を感じるんです。たまに読む漫画もストーリーものとかじゃなくて『ねこだらけ』みたいなギャグ4コマとかですし……
「ちいかわ」は存在だけ認知している者ですが、世評につられて映画観ました。最初、入るシアターを間違えて、「だぁれかさんとアソぼ?」を5分くらい観てましたが、「ちいかわ怖かったて聞くけど、こういうこと?ここからアニメになるの?」と思いながらも、確認のため外に出て間違いに気づき、冒頭を見逃すというボーンヘッドをやらかしてしまいましたが…。「ちいかわ」初心者ですが、映画はそれなりに楽しめました。しかしながら、おっしゃる通り「もののけ姫」と比べると、切実さが足りないというか…。セイレーンは島民を食べなくても生きていけるわけですし、辛抱強く待っていれば、周りの島民が寿命で亡くなるなかで、不死になった島民だけ生き残ることで犯人が分かるでしょうし。人魚側にも島民側にも、生きていくためには犯さなくてはならない悪(島民を食べる、人魚の肉を食べる)というような感じがないんですよね。ラストについても、肉を食べた二人がもとにいた島を離れていった理由がよくわかりませんでした。
それはなんかレアな映画体験でちょっと羨ましいんですが笑
切実さという点で言うと、なにも根本からシナリオを変える必要はなくて、もう少しそれぞれのキャラクターがそうせざるを得ない理由を掘り下げるだけで良かったんだと思います。あるいは表情のアップとか何気ない仕草でそうしたものを仄めかすとか。そうしたことをやってないので、なんかちょっと雑に見えてしまったんですよ。