映画原作『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』を読む

映画版の感想→否定も肯定もできない『否定と肯定』(ネタバレ乱舞注意)

ユダヤ史およびホロコースト学の泰斗、デボラ・リップシュタット教授の思想信条を、T・S・エリオットを引き合いに出しての次の一文が端的に表していたように思う。

広い世界でどれほど高く評価されていようとも、反ユダヤ主義者が悪党であることには変わりがなく、人は悪党に妥協してはならないのだ。
『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』p.110

どう書き始めようか相当悩んだが、回顧録の感想なのだからまずは著者の視座を明確にしておいた方がいいだろうという判断。
しかしそれでいいのかと思うところもあるわけで、結局、一人の人間をたった一文で言い尽くせるものでもないし、だとすればこの回顧録に一貫した見通しを与えようとする企てには別の意図も混じってはいないかという話になる。

率直に言えば俺はリップシュタットという人が嫌いであるし、リップシュタットが嫌悪丸出しで言動を記述する(5年近くも下らない裁判と戯言に付き合わされたのだから当然だが)アーヴィングの方に興味とシンパシーを抱くものであるから、そういう人間が先の引用文をリップシュタットの人となりを説明するものとして文頭に置くのだとすれば、公平な書き手ではないとしてその著作の信憑性に多少なりとも疑問を抱かせようとする意図が意識的にせよ無意識的にせよあったのではないか、と言われても否定するのは難しい。ああ。

実際、テクスト論だなんだと持ち出すまでもなく『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』という本は裁判の一方の当事者の手による回顧録なのだから公平でも中立でもないし、そうあるべきものでもないだろう。
だが言い訳がましいのは承知の上でリップシュタットの思想における独特の偏りをまず指摘したかったのはこの回顧録を原作とする映画版が、映画というのはだいたいいつでもそうだが中立を装うものだったし、正義の執行の見世物であったし、それがフェイクニュースだとか人種差別主義だとか不寛容の蔓延する世の中に無批判的に受け入れられていたように見えたからで、なんとなればその消費様式こそ差別主義とフェイクニュースに染まった層に見られるものではないかと思ったからだ。

結審後、それまで法廷で散々醜態をさらして完全敗北を喫したにも関わらずアーヴィングはリップシュタット側の勅選弁護人リチャード・ランプトンに「ナイスファイト!」とかなんとか言って握手を求める(たぶんバカなんだろう)が、原作ではおざなりに応じたと書かれている(p.496)この場面は映画版ではランプトンが握手を無視したことになっている(はずだが、違ったら教えて下さい)

こんな変更は取るに足らない些細なことだろうか。誠にとっても超些細なことだとは俺も思う。けれどもリップシュタットの法廷闘争がどのようなものだったかというと、歴史家を僭称するアーヴィングの杜撰な仕事っぷりをつまびらかにするためにその記述や発言を片っ端からファクトチェックにかけていくと要するにそういう「些細」を見逃さないで地道に刈り取っていくものだったわけだ。

なぜそうする必要があったかといえばこれはリップシュタットがアーヴィングに名誉毀損で訴えられた裁判であった。

英国では名誉毀損の被告にはさまざまな法的選択肢があるとのこと。例えば、原告が問題の文言を誤解していると主張する方法。しかし、これは本件にはあてはまらない。アーヴィングはホロコースト否定者だ、ヒトラーのシンパだ、右派のイデオローグだというわたしの批判を、向こうが誤解したわけではないのだから。また、それらの言葉は名誉毀損にはあたらない、相手の信用の失墜を狙ったのではない、と主張する方法もある。しかし、わたしの言葉は明らかにそれを意図していた。
-p.78

残る手段は正当性の主張というもので、たとえ相手の名誉を毀損する文言であっても事実ならば名誉毀損にはあたらない。
英国法では名誉毀損の立証責任は被告側にあるので、従ってリップシュタットのリーガルチームはアーヴィングが名誉毀損の根拠としたリップシュタットの著作における「(アーヴィングは)馬の目隠しをかぶった盲目的ヒトラー信者」「史実を歪曲し、文書を改竄し……歴史的な定説にまっこうから反する結論を引きだすため、データに間違った解釈を施す男」(ともにp.18)などの記述が事実であると証明する必要があったのだが、なんとなく簡単に見えてこれは容易なことではない。

人を「盲目的ヒトラー信者」であると決定付ける何かなんてあるんだろうか。たとえば、「わたしは盲目的ヒトラー信者です!」と本人が宣告すれば「盲目的ヒトラー信者」と言えるのだろうか。
これが映画の台詞だったらその俳優はたぶん「盲目的ヒトラー主義者」とは見なされないだろうが、じゃあそれ以外の場ではどうかと言うと、どのような場でも「わたしは盲目的ヒトラー信者です!」の宣告を誰かから強要されたとか、そうは言うつもりがなかったが間違って言ってしまったとか、いかようにも言い逃れは可能だし、その言い逃れが言い逃れであるか判断するにはまた別のレベルの証拠も必要になろうというもの。

逆も考えてみればいい。アーヴィングは法廷で「私はヒトラー主義者ではありません!」と何度も宣告するが、その一言でアーヴィングがヒトラー主義者でないということにはならないだろうっていうかならないという本だし映画だったでしょこれは。

人の傾向を判断することがどれだけ難しいことか。あるいは、たった二時間の映画で実在人物の傾向をそれらしく見せることがどれだけ危険なことか。または、安易に内容と同化して軽はずみな正義で溜飲を下げることがどれだけ悪趣味か。
悪趣味というかリップシュタット風に断言すればそんなものは悪以外の何物でもない。こういう内容の映画で、こういう作劇が為されることについて、なぜおおっぴらに反対の声のひとつも上がらないのかと俺としては大いに不満であるし、劇中で描かれるフェイクを暴くための膨大なリサーチを含む法廷闘争に多少なりとも感動を覚えるのであれば、敬意を表す意味でももう少し批判的になってもいいんじゃあないのか、というどこから目線の説教的愚痴で既に2000字を超えているからあの映画の不誠実さについてはまだ言い足りないがここからは本の感想です。

いや、アーヴィングもほんとよく言うんだよ、歪曲と思い込みと捏造を法廷で指摘されるたびにそれは単なる間違いで、些細なことだと…。

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リップシュタットの人となり説明としてもう一つ印象的だなぁ思ったのは次の部分で、リップシュタットの法廷代理人アンソニー・ジュリアスと勅選弁護人リチャード・ランプトンが脱構築について議論するところなんですが、ここで各人の立ち位置の違いもわりと明確になる。
脱構築とはなんぞやというのはリップシュタット教授の竹を割ったような説明を聞いた方がよいと思われるので多少長くなるが脱構築の説明部分から引用。

これはテキストに究極の意味を持たせようとする試みに異議を唱える文学理論のこと。言語の分析という手法を用いて、文学・歴史・哲学のテキストを形作っている観念的な偏りを“脱構築”していく。
ランプトンはアンソニーに、脱構築主義は懐疑主義のひとつの形に過ぎず、とくに興味を惹くものでも重要なものでもないと思うが、そう考えてはならない理由があるなら説明してほしい、と言った。
アンソニーはこれに反論して、懐疑主義の一形態かもしれないが、同時に、テキストを読み解くための統制のとれた手法でもある、と述べた。
わたし自身は、もっとも単純なレベルで言うなら、“このテキストの意味はこうだとわたしが考えれば、それがテキストの意味するものである”という態度を脱構築主義が助長してきたのだと思っているが、議論には加わらなかった。
-p.456

裁判ものとしてこれ以上なくわかりやすいキャラ説明である。あれはあれだろうが自明の熟練プロ弁護士ランプトン、あれはこれとも読み取れると問いかける若手批評家でもあるジュリアス、あれはあれであるべきだと主張する歴史学者リップシュタット。
裁判映画でこの最わかりやすいキャラ紹介エピソードを省いた脚本家はダメなのではないかとまた映画版の悪口が出そうになるのを我慢するぞ俺は。してないが。

その映画と違うところは当然たくさんあるわけですがとくに、プロローグとエピローグを削ったのが映画の大きな変更点だった。ということはそこが原作のおおきな読みどころ。中でもここ映画でも見たかったというのはプロローグにあたるヤング・リップシュタットの大冒険だ。

訳者の人もあとがきで書いてましたが映画みたい、映画みたいっていうかインディー・ジョーンズみたい。絶対スピルバーグ製作総指揮で映画化すべきだとおもう。
この大冒険を通してリップシュタットはユダヤ人としての自分に目覚めて反ユダヤ主義の対抗者としての自己を形成していくわけだから、裁判映画に特化した映画版では完無視されたがリップシュタットの回顧録を読むに非常に重要なポイントじゃないだろうか。

映画の方でもうんざりさせられたバカ論破裁判は原作の方だとより執拗により手加減なくより完膚なきまでにオーバーキルなので読み応えがあるとも言えなくもないが疲労度高過ぎ。
審理を担当したグレイ裁判官が少しでもアーヴィングに配慮した発言をしたと見るやリップシュタットはすかさずグレイ批判に走る。アーヴィングが何か言うやいちいちバカに見せる修辞で飾る。

映画でも描かれたようにリーガルチームの方針であえて法廷での発言を禁じられていたリップシュタットだから不満バリバリだったんだろうな。どれだけの言葉をゲロることなく嚥下したことか。
いやそれはわかるが当時の記録を基にした回顧録だからそれで良いと思うんだが良いとか悪いとかとは別にとにかくそんなわけだからひたすら疲れる読書になったということが俺は言いたいんだ…その感想の自由ぐらいはあるだろう…。

確かに為になる読み物ではあるがそれにしても疲れる読書である。そして最後まで読んでもリップシュタットやっぱ嫌いである。アーヴィングがバカでクソというのはわかるがバカとクソの反対側に立っているからバカとクソではないわけではない。それが疲労のおもな所以。
リップシュタットはバカでもクソでもないが面倒くさい人であり厄介な人ではある。否定の反対に必ずしも肯定があるわけではないだろう、と言ったところでリップシュタットには忌まわしき相対主義的脱構築主義的無責任無学バカ扱いされるのがオチではないかと思われるので何を読んでいるんだという気分にさせられる。

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俺の倫理感覚で言えばこんなことを平然と書く人間は間違いなく面倒くさい人であり厄介な人ということになる。

アーヴィングは次に、わたしに対して文句をつけた。わたしがユダヤの国際的陰謀に“自分から進んで加担”し、“アーヴィングはイスラム指導者ルイス・ファラカン師、パレスチナのテロ組織ハマスとヒズボラの代表者たちと共に、ストックホルムの会議に招待された”などとでたらめを書いているというのだ。
じつは、わたしも著書が出版されたあとで、この情報が誤りであることを知った。裁判前の法廷への提示で、その点を争う意図のないことを示すため、わたしたちはこの攻撃には対応しないことにした。
-p.150

お前も適当な風説流してるじゃねぇかとツッコミたいがその前の部分でユダヤの国際的陰謀なるアーヴィングの妄想がスパークしてしまっているのでどちらにも同調できず微妙な感じになる。ふたたび、疲労。
更に疲労させられる一節を挙げようか。次の引用部は本の後半、裁判後の余白というべき部分だが、初版が2005年ということを考えればこの疲労はズッシリ重いよ、もう。

イスラム世界で勢力を増している歴史の歪曲はホロコースト否定説だけではない。ヤセル・アラファトは、ユダヤ民族とイスラエルの地の歴史的結びつきを繰り返し否定している。
-p.539

続けてこうなる。

イラク戦争が始まろうとしていた時期には、ヨーロッパで別の種類の歴史歪曲が起きていた。ジョージ・W・ブッシュ大統領とイスラエルのアリエル・シャロン首相をグロテスクにもヒトラーと同一視することで、ナチスの犯罪が糊塗される結果となった。
また、それに劣らず厄介なのが、イスラエルの政策を攻撃する際にナチスのモチーフが使われることだ。ノーベル文学賞を受賞したポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴは、パレスチナの状況をアウシュビッツのユダヤ人になぞらえた。
ガザにガス室があるのかどうかを尋ねられると、「そうでないことを願いたいが……あそこで起きていることは、多かれ少なかれ似たようなことです」と答えた。
英国の詩人トム・ポーリンはヨルダン川西岸に入植したユダヤ人のことを、“ナチスのような連中で人種差別主義者……銃殺すべきだ”と言った。
-p.540

サラマーゴの発言とポーリンの発言が果たして同列に並ぶ種類のものか、俺はその判断基準をもたないが、さながら正義と悪の、光と闇の単純な対決に落とし込んだ(ように俺には見えた)映画版の存在を考慮に入れれば重疲労要因にはなるわけであると隙を突いては飛び出す映画版批判。どんだけ嫌いなんだ。いや嫌いじゃないんだけど倫理的ツッコミはあるべきという話ですよ、どんな映画であれ。

でもよい読書になったと思いましたよ俺は。リップシュタットのキャラクターは嫌いだし思想にも共鳴できないが部分的には倫理的にやはり正しい、一方のアーヴィングはキャラクターには共感するし面白いから好感度はリップシュタットより全然高いが倫理的には全面的に間違っているのでこういうバカに歴史家を名乗らせてはいけないし政治とかアカデミックな領域とかに入れてはいけないというのがよくわかる、し、そういうバカのいなし方もよくわかったつーのが全部読んでの一般向け常識的感想なんですがー、なんでそんなアーヴィングの好感度高いかってリップシュタットが面白おかしくアーヴィングを書くわけである。で、そこが個人的にはよかったという話。

リップシュタットの視点からアーヴィングを見てみる。どうせつまらない小物バカだろうと思われるリアルアーヴィングにはまったく興味がないのであくまでリップシュタットの描写するアーヴィングだけを見る。

アーヴィングは一九三八年生まれ。母親は本の挿絵画家、父親は英国海軍士官で、一九四二年に彼の乗り組んでいた艦が魚雷に撃沈された。命は助かったが、家には戻らず、残された妻と四人の子供は、アーヴィングの話によると、“ひどく切り詰めた暮らし”を余儀なくされたそうだ。
アーヴィングはロンドン大学に入ったが学位取得には至らなかった。大学を中退し、ドイツのルール地方の製鋼所で働き口を見つけた。この時期にドイツ語をマスターした。
一九六〇年代初めにイギリスに戻ったアーヴィングは、ドイツのことを記事にして生活費を稼ぎはじめた。彼の話によると、わずか二、三ヶ月で大金が入ってくるようになったので、学位をとる気をなくし、歴史関係の執筆の道へ進む決心をしたとのこと。
-p.54

こうして若干24歳で出版したドレスデン爆撃本を皮切りにベストセラーを連発する売れっ子作家になったアーヴィングだったが結局はちゃんとした学術訓練を受けていない落ちこぼれの人だからアカデミック風なだけでその中身は信憑性のあやしいエンタメ歴史本しか書けない。
主流派の歴史学者があまり触れないかもしくは触れにくい連合国批判系のニッチ分野に潜り込んで、オタク的執念でもってどこからか貴重な史料を発掘してくるが、その信憑性はもちろん分析力もゼロなのでオカルト的エンタメ以上にはなりようがないのだった。

当然、これ事実と違うじゃんの声が出る。それもひとつがふたつではなく出る。アーヴィングはその度に名誉毀損だなんだで裁判を起こしてだいたい負けてたまに勝ったりするわけだが、「こうした挑発的な著書と訴訟のごたごたのおかげで、十年もしないうちに、アーヴィングは悪名高き作家となった」(p.56)らしい。元祖炎上商法である。

炎上商法の人らしく基本戦術はヒット&アウェイであるから直の討論となるとからきしだ。アーヴィングが主張するのはホロコースト全体の否定というよりはガス室の否定と殺害人数の否定と収容所の地獄環境の否定とヒトラーの関与の否定(どころかヒトラーはホロコーストに心を痛めており止めようとしていたとか言う)なのだがそれ結局ホロコーストの否定じゃねぇかみたいなツッコミはひとまず置いておくとして、それに関してランプトンとのこんなやりとりがある。

アーヴィング:イギリスの法律の原則をあなたに申し上げるのは僭越ではありますが、人は有罪と証明されるまでは無罪です。そうですね?
ランプトン:ヒトラーが裁判にかけられているわけではありません。
アーヴィング:ヒトラーはこのフェアプレイの原則から除外されるわけですか。

わたしは椅子からころげ落ちそうになった。
-p.210

歴史修正主義だとかネオナチ連中だとかの集会で(まともな連中は講演に呼んでくれないので)ご高説を垂れて大歴史家を気取るアーヴィングであったがそのひとつで熱狂的な聴衆が壇上のアーヴィングに「ジーク・ハイル!」を連呼してしまうハプニングがあった、との情報が審理の最終局面で法廷リーク。

リップシュタットのリーガルチームの手際の良さに関心するが対するアーヴィングはいかなる事情からか弁護士も雇わず自分で弁護していたので(たぶんバカなのに自信過剰だったんだろう、それに裁判費用もリップシュタット側ほど潤沢ではなかったんだろう)、場は絶対に笑ってはいけない英国法廷24時と化す。

アーヴィングはその叫びから自分を切り離そうと必死だった。次に起きたことは、ひょっとするとそのせいだったのかもしれない。自分は叫びを止めようとしたのだと繰り返したあとでグレイ裁判官のほうを見たのだが、発言する際にいつもなら「裁判官」と呼びかけるはずが、ここで「マイン・フューラー(わが総統)」と言ってしまった。
-p.476

ブラックフェイスどころではない。

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どうしてこう面白く書いてしまうのか。その答えは裁判後にメル・ブルックス版『プロデューサーズ』とチャップリンの『独裁者』を見ていたリップシュタットがふと思い出した、脱構築いいじゃん派のアンソニー・ジュリアスの講義草稿にあった。

敵を打ち負かして葬り去るのもひとつの手。だが、敵に道化の衣装を着せて芝居をさせるという手もある。敵にはこのほうが大きな打撃となる。永遠の命を得て、無力な自分をさらすことになるのだから。
-p.541

これを受けてリップシュタットは次のように回顧録を結んでいる。

敵を倒したとしても、究極の勝利が訪れるのは、彼らがいかに理性に欠けているかだけでなく、いかに情けないかを実証したときである。
-p.543

俺が個人的にこの本から受ける印象はまったく逆であって、アーヴィングはリップシュタットに倒されるどころか救われているのではないかとおもう。
草森紳一はナチスドイツのプロパガンダ分析の中で次のように書いているが、これは『帰ってきたヒトラー』のような映画を頭に浮かべれば、痛いほどにアクチュアルで的を得た指摘ではないだろうか。

たしかに、反ナチス陣営の各国は、ヒットラーを蛇蝎化し、その偶像破壊を、マンガの上でも、しきりとはかった。ナチス側からすれば、ヒットラーのマンガ化は、まさにただで宣伝してもらうも同然であったといえる。
ヒットラー個人は、それを見て不快であっても、偶像としての「ヒットラー」は、風刺されることによって、大戦の終わった今日までも「大物」のイメージが、世界中の人々の心にのこっているのである。
草森紳一『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ4』-p.124

裁判は次第にアーヴィング個人対イスラエルの様相を呈してくる。いくらアーヴィングがクソでバカだと知っていてもその思想にまったく同意できなくても、こうなると少しはアーヴィングを応援したくもなってくるし、アーヴィングならびにアーヴィング支持者のヘイター連においてはまさにこのことがイスラエルという巨大権力と単身戦った悲劇のヒーローの虚像の土台になってしまうんだろうなぁと思わされる。

今ではその伝説がネットを介してどこまでも何度でも拡散可能なわけで、本の中でリップシュタットは完全論破に浮かれているが、これが勝利かといわれれば、2005年の時点では短期的には勝利だったとしても長期的には敗北か少なくとも分断的痛み分けでしかないように思う。
わりと多くの人々は理性的で立派な人間よりもバカで情けない人間の方がたとえ間違っていると知っていても好きだった。本の書かれた10年後には道化の衣装を自ら着込んだツイ廃バカ富豪が核ボタンの大きさをツイートできる時代になったわけだから。

逆にそこがこの長大な裁判記録兼リップシュタット回顧録の大いなる救いだったと斜に構えたい。こんなに嫌いな相手のことを人はこんなに長々と面白おかしくしかし大真面目に書ける。嫌なやつは即ブロックあるいは主張も読まずに全否定がベターなネット時代にあっては尊い行為に違いない。リップシュタットはえらかった。
ネットではしばしば嫌いな相手を粘着ウォッチングするアンチがウォッチング対象そのものに似てくるように、これまで見てきたガチのシオニストっぷりを考えれば思想が著しく偏っているというその一点でリップシュタットとアーヴィングもやはり似たところがある。

しまいには自らが道化になってしまうリップシュタットに、何度も言っておきたいが俺はやはりこの人は嫌いなのだが、映画版にはまったくなかった否定も肯定も及ばないバカとの対話の、というよりも啓蒙とか治療と言った方がよいかもしれないが、ともかく一条のかなしさを帯びた相互理解の可能性を感じてたいへんよかったが結局最後は映画版ヘイト!(あれやっぱダメな映画だと思います)

ある日、気晴らしがしたくてビデオをレンタルしに出かけた。気晴らしを求めていたのを忘れてしまったのか、わたしが衝動的に選んだのは、チャーリー・チャップリンの『独裁者』とメル・ブルックスの『プロデューサーズ』だった。二作品ともアドルフ・ヒトラーを思いきり茶化した映画だ。
意外なことに店員がどちらの作品にも詳しくて、わたしに尋ねた。「コメディが好きなんですか? それとも、ヒトラーが?」
わたしは肩をすくめて、ややためらいがちに、「たぶん、両方ね」と答えた。
-p.541

※2018/1/7 すこし修正しました。

【ママー!これ買ってー!】


否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

これだけ感想書いたんだから買ってください。買え!

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