死者は生者の教師です映画『サッパルー!街を騒がす幽霊が元カノだった件』感想文

《推定睡眠時間:50分》

葬儀屋のオッサンが「死者は生者の教師、生者は死者の生徒」って言うんですけどこれ良い台詞だよね。欧米先進国の文化的影響を強く受けてる日本とかだと死者っていうのは欧米先進国に倣って視界から排除されるものになってるじゃないですか。人が死ぬっていうのは単なる生理現象であるし、なにがなんでも避けるべき絶対悪とされてるから(そりゃ俺だって死にたかないんだけれども)、生きている人間が死から得るものは何もないっていう意識がこういうところではたぶん基本。ところがこの考えには副作用があり、こうして死が無意味なものとされるとなると、どんな人間も少なくとも今の医療技術の下ではいつかは必ず死ぬわけだから、死は「お前の人生結局なんも意味がないんだよ」と冷たく生を嘲笑う。死を視界の外に追いやってそこから意味を剥ぎ取ってしまったがために、逆に死は絶対の恐怖として生者を蝕むようになったわけだ。

こうした考えに対立するのは宗教的な死の認識で、とくに調べたわけではないけど死に意味づけを行わない宗教というのはたぶんきっと存在しないだろう。いやむしろ、死に意味を与えるために宗教は存在しているとさえ言えるかもしれない。そこでは往々にして死は生との連関の中で捉えられ、生が死を必ず孕んでいるのなら死もまた生を孕んでいるとして、無意味な絶対悪などではなく、逆に新たな生を生み出すものとして肯定的にさえ理解されるわけだ。宗教が促す死と生の相対化は必然的に個人の自由な生をある程度束縛せざるを得ないし、場合によっては自己犠牲を強いることもある。そのため脱宗教化され個人主義の強い欧米先進国のような地域では宗教は個人の自由を奪う危険なものとして半ば生理的に忌避されるが、とはいえ、そうしたからといってすべての生きる人間の前から死の問題がなくなるわけでは残念ながら決してないんである。

この映画は仏教国タイの映画だがいくらタイが仏教国といっても都市部住民の死生観や自由信仰はおそらく日本と同じように欧米先進国とほとんど変わらないんじゃないだろうか。カジュアルに人が死にカジュアルに幽霊が出てカジュアルに人が霊界探訪に行くタイの田舎を舞台にした一風変わった脱力系の日常映画、生と死が水木しげるの『河童の三平』みたいにのんびり同居する世界を描いたものというわけで、多くの現代タイ人にとってこうした光景が馴染みのないものだからこそこの映画はタイでヒットしたのかもしれないし、「死者は生者の教師、生者は死者の生徒」はそんな観客たちにある種の癒しを与えたのかもしれない。絶対に勝てない死との戦いを自由という名の孤独の中で常に続けなければならないことは、かなり大変に違いないのだ。

だからジャンル的には荻上直子の『かもめ食堂』とかああいうやつかもしれない。疲れた現代人に贈る的な。面白いか面白くないかでいったら展開が弛緩しすぎていてあまり面白くないが、まぁ死んでも幽霊になったり冥界で暮らしたりできるしなということで些細な悩みがどうでもよくなってくるこの空気感にはグッと来る。それにいろんな奇祭的お葬式が見られるのも楽しかった。主人公の友人は葬儀屋の息子なのでいろんな人のお弔いをするわけだが、そこで披露される見たこともない習わしの数々に気分はウルルン滞在記。だってあなた死体を入れた祠みたいなのに向けてロケット花火を打ち込んで死体を破壊(燃焼?)するお葬式なんて考えたことが人生で一度でもありますか? 俺はないので目からロケット花火でした。ガーナなど西アフリカでは棺の形状に趣向を凝らす文化があるというし、現代社会ではお葬式のスタイルも画一化されてしまっているが、昔はきっと地域独特のいろんな面白いお葬式が世界中にあったんだろう。

鐘の衝き方も知らない無気力な若手仏僧はタブレットでネットを見ながら韓国製のVRゴーグルと日本で飯屋を開いて一儲けの夢を見る。主人公は死んだ恋人と会うために夜な夜な冥界を訪れ生気を吸い取られていくが同居する祖母は知ってもまったく意に介さない。幽霊が出るのは当たり前なので村人たちは怖がりこそするもののとくにどうしようともしない。『霊幻道士』からカンフーとドタバタギャグを抜いてオフビートにしたような映画といえば伝わるだろうか。おおらかでのんびりでぐだぐだでゆるゆる、悲しいことはあっても深刻や孤独はほとんど存在しない、なんだかとても、俺のような根っからの都会人には響いてしまう映画であった。

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