ポスト史劇映画『最後の決闘裁判』感想文

《推定睡眠時間:20分》

リドリー・スコットという映画監督はずっとポストの人だと思ってて『ブレードランナー』はポストモダンの映画だし『エイリアン:コヴェナント』はポストヒューマンの映画だし『G.I.ジェーン』はさしずめポストフェミニズムの映画と言え、じゃあ『最後の決闘裁判』はポスト何かと言えばポストトゥルースなのかなぁとか、あえて言うならやはりそうなるんじゃないかと思っていて、なんかのインタビューでリドスコが『羅生門』をイメージしたとかなんとか言ってただけあって一つの強姦事件とその前後の出来事を被害者の夫、その戦友の加害者、被害者の三者三様の視点で三章に分けて描く構成がポストトゥルース感を醸し出すわけですが、ちょっと以外だったのは俺の予想と違ってこれは三章それぞれで話の内容が食い違うわけじゃないんだよな。

どの章のどの人物の視点が事実かわからないという話じゃなくて、三章それぞれで同じ出来事が反復されるので強姦事件は事実であることが繰り返し観客に提示されるんですけど、何が違うかと言えば三人それぞれが本人しか知らない事実・出来事がそれぞれの章で描かれて、あともう一つは同じ出来事の感じさせ方がそれぞれの章で違う。たとえば、加害者の章での強姦シーンでは被害者の抵抗する叫び声は意図的に小さく絞られて、その抵抗の動作は静的な構図を作るカメラのフレーム外に置かれるわけですけど、これが被害者の章になると叫び声は逆に増幅されて、カメラは同じ出来事を荒々しくドキュメンタリー的に捉える。

これは映画の冒頭に置かれた戦闘シーンも同じで、ここでは被害者の夫と加害者が同じ出来事を見ることになるわけですが、被害者の夫の章では先陣を切って突っ込んでいった被害者の夫が敵軍を斬り殺していく場面が血の上に血を塗りつけるような凄惨な筆致で描かれて、一方これが加害者の章になると同じ光景もほとんど血の気はない。被害者の夫と加害者の見る世界の違いがその差異を通して表現されているわけで、これは同時に二人の性格や境遇を端的に表す描写でもある。

監督本人が『羅生門』と言うからそういう映画かなと思って観に行ったらちょっとズレがあったように、予告編からフェミニズム題材の映画だろうと思ったらそこもズレはあって、このへんはおそらくベン・アフレックとマット・デイモンとニコール・ホロフセナーが書いた脚本のストレートにMeToo的な意図とは少し違うリドスコの世界観なのかなと思うんですが、人によっての世界の見え方の違いをフラットに並べて見せているので、そういう意味でポストトゥルースの映画なんだろうとか思うわけです。

ポストトゥルースというぐらいだから人の世を俯瞰して眺めるようなところがある。実際これは冷たい映画で基本的に登場人物の誰にも同情しない(肩入れはする)のがかなり特徴、でしかも決闘といえばリドスコの長編映画デビュー作は『デュエリスト』、その後のリドスコ映画でも決闘モチーフは様々な形で変奏されるわけですが、そこにあったロマン主義的な志向からも今回はというか…ここ最近の映画でのリドスコは自ら距離を取っているように思える。

それが顕著なのはクライマックスの決闘シーンで、被害者の夫と加害者の死闘をパリの貧民たちはそれはもう超大盛り上がりで熱狂的に観戦するわけですが、その様子をこの映画は人類って愚かなんですね~みたいな冷笑的なスタンスで撮るし、雄々しい決闘の後に残る汚らしい死体処理の風景を淡々と見せることで決闘を単なる殺し合いでしかないと喝破する。それもヒューマニズムの観点からではなくて単にそういうものですって感じで撮るんだよな。勝者と敗者はいるが普遍的な正義はなくて、人類は所詮その神の正義には辿り着けないとでも言いたげ。それこそ感じ方の違いだが俺はここからむしろMeTooムーブメントに対するほのかな嫌味すら感じてしまった。

広告

被害者の章ではカトリック教会がその頂点に君臨する男性優位社会の中で女性が財産として扱われることの残酷さと、その一方でこの被害者が経営者として抑圧的な夫のいないところではめきめき頭角を表していく希望の感じられる過程が描かれるが、面白いのはその抑圧的な夫も消耗品として戦場に駆り出されるだけ駆り出されていらなくなったら捨てられる程度の人であることが被害者の夫の章で描かれ、加害者にしても貧しい生い立ちからほぼほぼ出世の道の閉ざされていたことが強姦だろうが偽証だろうが脅迫だろうがなんでもござれの屈折した人格を生み出したことが加害者の章で描かれ、要するに三人とも神聖なる14世紀フランスではモノでありゴミだった、とこの映画は捉えるのである。

もちろん決闘に熱狂する大衆もゴミだから闘技場に押しかける大衆を眺める被害者の目には何の感情もない。ここはゴミの社会であってゴミに何かを期待してもそんなものはするだけ無駄だ。別視点の全三章を通してパズルのように組み立てられていく事件の全容は、そもそもの初めからこの社会では誰もが(領主さえも!)社会の中で救われる道はなかったのだと観客を突き放す。そのような観点に立ったときに被害者が最後に取った行動(というかエピローグ)の意味が理解できるのではないかと思う。

人間社会なんてゴミ社会でしかないという諦観はある時期までリドスコをロマン主義的な世界に向かわせていたように思うが、最近では同じ諦観がポストヒューマン表象の中でなにやら非人間的な希望に転化しているように見える。人間なんかどうせゴミだからさっさとサイボーグにでもなっちゃえばいいんだよっ。『最後の決闘裁判』はその意味で風刺SF的な色合いもある。エイリアンやレプリカントの目から見た人間社会はきっとこんな風に冷たいに違いないが、それはそうした非人間の眼差しの方が人それぞれ違った風に世界が見える人間よりも、世界の姿を正確に写し取っているからなのである。

※ところでリドスコ映画には強く自立した女性主人公がよく登場するが、リドスコの非人間志向からすればそうしたキャラクターは人間としての女性というよりは非人間の範列に属する一つのバリアントとして、エイリアンや人造人間と同列に扱われているように俺の目には映る。リドスコの女性キャラに対する同情なき肩入れとそれに反するような女性キャラに対する苛烈な暴力は、いくら非人間になりたくても結局は人間の男という属性から抜け出すことのできないリドスコの苛立ちと憧れの入り交じったなかなか複雑なものなのではないだろうか。

【ママー!これ買ってー!】


テリー・ギリアムのドン・キホーテ(字幕版)[Amazonビデオ]

『最後の決闘裁判』で加害者の方を演じたアダム・ドライバーがCM出身のビジュアル派映画監督とかいう微妙にリドスコの経歴と被る主人公を演じたテリー・ギリアム監督作。ギリアムといえば『ブレードランナー』初公開版ラストシーンへの当てつけで代表作『未来世紀ブラジル』に悪意丸出しの『ブレラン』パロディを組み込んだり、リドスコは予算超過しても会社が金を出してくれるのに自分が予算超過すると会社から金は出ない! と、とちばっちりにもほどがある恨み節を折に触れては述べていたりするリドスコのライバル(とギリアムが一方的に思ってるだけ)だが、『ドン・キホーテ』が中世の騎士に憧れる憐れな愚者の物語であったことや「決闘」からの逃避がギリアム映画を貫く裏テーマであることからすれば、なにやら『最後の決闘裁判』はそれに対するリドスコの回答とも見えてきて、ここにもまた決闘が…。

guest
6 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
匿名さん
匿名さん
2021年10月20日 3:58 PM

ポストトゥルース映画とは斬新ですね! まさに慧眼だと思います。また、言われてみれば確かにMeTooとはちょっと違う感覚がこの映画にはありました。ジョディ・カマーは息子にすら冷淡さがわずかにあり・・・MeTooなら抱っこしてるシーンではないかと。
中世のリアリティもすごかったです。古い、汚い、寒い、くさそう・・・。「イったら妊娠」「レ○プでは感じない」という疑似科学を公然と語る滑稽さもひどい。
ジョディ・カマーは「自分の命もかかってると知ってたら、訴えなかった」と言いますが、命がけのプライドというものは女性には理解しがたいものなんでしょ~か。青ジャケットのルパン三世で、フジコがルパンと殺し屋パイカルを両てんびんにかけた結果、元も子もなくすという話があるのですが、フジコは男のどっちが強いかと言うプライドが命がけであることを見誤り、なすすべもなく殺し合いを見守る羽目になるんですよね。
しかし邦題はせっかく堂々と「ラスト」と使用するチャンスが来たのに使わぬとは・・・カタカナにすると「ラスト・デュエル」・・・なんか遊戯王っぽいから「ラスト・ファイターズ」かな? う~ん、いまいち!

匿名さん
匿名さん
2021年10月27日 5:52 PM

はじめまして。
以前からこっそり楽しく拝見してました。
リドスコの人間嫌い、腑に落ちました。あとMeTooから距離を置いてるという点も、なるほどなぁと思いました。
女の自分が結構楽しんでしまったのでもやもやしてたのですが、にわかさんの記事で少しほっとした部分もあります。
ありがとうございました。

匿名さん
匿名さん
2021年11月6日 2:13 AM

いつも楽しく拝読しております。私も、Metoo的な観点からこの映画が激賞されていたり批判されていることに少し違和感があったので、さわださんの感想を読んで凄くすっきりしました。

ところで、私も原作本を読んでみたのですが、読んだ後だと脚色部をどうしても下衆の勘繰り的な目で見てしまいますね。ワインスタイン騒動で批判に晒されたマッド・デイモンとベン・アフレックが、それを総括するような目的で脚本を作り上げたと勝手に妄想していたのですが、それだとワインスタインに対応するル・グリの脚色ってこれでいいのか……?ってちょっと思ってしまいましたね。さわださんがTwitterで指摘されていたように、原作では従者が強姦の現場で手伝いをしていたのに映画では追い出していたり、オリジナルで付け足された会話や会釈のシーンによって、(心の奥底では自分の醜悪極まる行為を認識しているが)強姦ではなくある種の強引な恋愛行為だったと歪曲して認識してしまう男みたいな、これワインスタインのこと擁護しつつ自分たちもエクスキューズしてない?みたいな邪なことを考えてしまいました。原作との脚色比較は色々考えることができて面白いですね。