チキン食って自由に生きろ映画『リンダはチキンがたべたい!』感想文

《推定睡眠時間:0分》

文化人類学者の山口昌男がたしかフランスに留学してた時に通りかかったかなんかした面識のない子連れの母親にちょっと用事あるからこの子預かっといてくれない? とか言われて一時間ぐらいその子供の面倒みてたみたいなことをどこかに書いていて、山口昌男が留学していた時代というから1950年代の遠い昔のことだろうと思われるが、それにしたってフランスの子育てはいい加減である。団地映画というのは最近のフランス映画の頻繁に作られるサブジャンルと化していてこの『リンダはチキンがたべたい!』も終盤は団地映画になるのだが、フランス産団地映画を観ているとまぁガキどもが団地の至るところでガチャガチャと遊んでてやかましい。キッズの猿どもを家に置いとくと面倒臭いからと外にほっぽり出しておくこんな放任主義は日本では遥か昔に絶滅してしまったので、まるで昭和の光景なのであった。

こんなタイトルの映画なので主人公はリンダという女児(小学生)かと思っていたが映画の序盤を回していくのはその母親。父親が何年か前に死んでしまったので今は姉の手をわりと頻繁に強引に借りながらシングルマザーとして子育てをしているのだが、この母親というのが最近の日本映画や日本アニメに出てきがちな母親像とは全然違う。猫は放り投げるし娘はビンタするし免許無携帯運転はするしスマホで会話しながら片手運転するしあと食材を盗む。いいのかそんなことをして! …まぁいいんじゃない? どうせ映画の中だし。

そんな母親は日本映画やアニメであったらさぞダメな親、今風の言葉で言えば毒親として否定的に描かれるというか、そもそもそれ以前に登場しないので、なんだかとても新鮮である。と同時に、これが新鮮に感じられてしまう日本映画やアニメの母親イメージのなんと窮屈なことかと思った。たぶんこれは日本だけの問題ではなく韓国映画や中国映画、そしてハリウッド映画でもそうなのだが、映画の中とはいえどうして母親というだけで理想的な人格者であらねばならないのだろう。

母親だろうが父親だろうがしょせん人間なのだし、子供を産んだぐらいで人間は別に変わったりなんかしない。そして父親はダメな人であることが結構肯定的に描かれたりさえするのに(なんか真面目主人公の凝り固まった心をほぐす的な)、日本や韓国、中国やハリウッドの映画では、母親がダメな人として肯定的に描かれることは、少なくともわりと映画を観ている方の人である俺が思い出すことに苦労する程度には無い(※ハリウッド以外のアメリカ映画ではたとえば『フロリダ・プロジェクト』などがあります)

まぁ他国のリアルな文化については知っていることよりも知らないことの方が多いのであえてここは日本に限定するとして…日本で映画やアニメを作っている人は母親を神聖視なんてしないでいいし、日本の母親をやってる人はもっと雑に子育てしたっていいんじゃないだろうか。ほら子供なんか草でも食わせとけばとりあえず育つから。なんか外とか出しとけば最悪雑草食って勝手に育つから。それは虐待だろ! まぁでもね、メシぐらいはコンビニ買ってきたやつとかでいいから用意してやった方がいいと思いますけど、そんな気合い入れて子育てダー!!! ってやると途中でメンタル折れますよ。

日本は少子高齢化で核家族が当たり前になったから、たった一人の子供だってんで親は無駄に子を大事にしちゃうんだろうな。それなんか良いことみたいに思われがちですけど、親の過保護って親も子も消耗するものだし、親の子を大事にする気持ちがかえって子供にとっては抑圧となってしまうこともある。どこで書いていたか忘れてしまったが上野千鶴子もゆーとったよそういうことを。母親は母親で子供を立派に育てねば、そのためには立派な母親であらねばあらねばっていう意識で自縄自縛になってしまう、すると子供も子供も親の期待に応える立派な子であらねばと窮屈な思いをすることが日常になり、いちばん近い大人が日本の場合は多く母親であることから、その表面的な立派を大人の標準だと思ってしまう。

そして俺が思うに、それが「立派でない母親」を嫌悪し咎める現代日本の風潮を生んでいる。これが男児なら女はこうあるべき的な面倒臭い男に育つだろうし、これが女児なら常に自分が立派でないことの罪悪感を感じながら生きる自罰的な人になってしまうだろう。ようするにこんな「母親たるもの立派であれ、そして子供を大事に育てよ」の風潮は親も子も周囲の人も誰も得なんかしないんである。そんなことを俺は『リンダはチキンがたべたい!』を観ながら思った。この映画の母親は日本映画やアニメに出てくる理想の母親と違ってべつに優しくないし窃盗もしているので犯罪者だが、その子供であるところのリンダはめっちゃヤンチャで相手してるとかなり疲れそうではあるとしてもちゃんと元気に育ってるので、こんぐらいの雑子育てを日本の人も推奨してくべきなんである。そっちの方がみんな楽なんだからさ。

さて母親が主役となるのは中盤までで、そこからはヨガ講師の姉やら警官やらなんやらいろんな人を巻き込んで団地を舞台にてんやわんやの騒動となっていく。母親の雑子育てもようにはとても日本の昭和を感じたものだが、団地てんやわんやの顛末はまるで長屋ものの江戸落語。今をときめくフランス映画界の喜劇王フリップ・ラショーのおそらく日本初紹介作『世界の果てまでヒャッハー!』を観てからというもの俺の脳みそには「フランス=昭和」説が濃厚に渦巻いていたが、『リンダはチキンがたべたい!』によってその説が確信へと変わっただけではなく、更なるポケモン的進化を遂げて「フランス=江戸」説にまで至ってしまった。やはり浮世絵が美術界に一大ムーブメントを引き起こした国、国民性が江戸なのだろう。

チキンを巡る団地落語のクライマックスは夭逝の天才ジャン・ヴィゴの『新学期 操行ゼロ』を引用したと思われるガキどもの反乱。現代の、とくにコロナ禍以降の日本からは失われて久しい自由の空気を大いにスクリーンから吸引して俺満足。雑に生きるとは自由に生きることの言い換えだ。丁寧な暮らしとかやさしい配慮なんてぇのは牢獄暮らしを正当化するための囚人の美辞麗句に過ぎない。

いや、そんなことを言いつつ点字ブロックの上に自転車が倒れていたら目の見えない人が危ないから脇にどける程度の配慮は俺だってするが(逆に丁寧に生きているっぽく見えるみなさんこそそんなものを見て見ぬふりして何もしなかったりするものだ!)、それはあくまでも「さすが俺! 良いことしたな~!」と俺が悦に入るためにやっているわけで、立派でなければ、配慮をしなければ、丁寧でなければ…なんて強迫観念からぎこちなくやっているわけではないのだ。この映画に登場するやさしさだってまた同じ。別に誰も義務でなんかやってない。ただそのときの気分でなんとなくやっているだけのこと。そんなもんでも案外社会は回るのだ。もしかするとSNSポピュリズムによって善意が義務化した今の日本よりもずっと潤滑に。

監督はキアラ・マルタ&セバスチャン・ローデンバックで、このローデンバックという人の前作『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』は最小限の線とモノクロに近いカラリングで童話の世界に隠れた残酷さを炙り出していたが、今回は一転して即興的な線、粗い塗り、そして豊かな色彩で魅せる。その軽やかな映像世界は動くラウル・デュフィの絵画のようだ。ほとんど脈絡なく挿入されるシュールでナンセンスな楽しいミュージカル・シーン(お菓子の歌が最高)はゴダールやトリュフォーの初期の映画にあったヌーヴェルヴァーグの開放性を感じさせてくれる。これはほぐれる映画だね。メンタルがほぐれて外の世界にパカーっと開く。物語上もチキンを食べることがイコールでリンダの父親の幻影からの解放を意味している、人間を自由の世界に解き放つ映画が『リンダはチキンがたべたい!』なのでした。ちなみにですが鶏は死にます(食うので)

Subscribe
Notify of
guest

2 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
よーく
よーく
2024年4月18日 1:38 AM

「立派でない母親」を描いた日本のアニメというなら真っ先に思い浮かぶのはいしいひさいちの『となりのやまだ君』(現『ののちゃん』)を映画化した高畑勲の『ホーホケキョ となりの山田くん』と『あたしンち』ですね。
サザエさんもみさえも原作やアニメ初期ではとても模範的とは言えない等身大な母親だったけど、国民的アニメとして丸くなっていくにしたがって理想的な母親像が強くなっていったと思います。その描写の変遷の記録とかあったらすごく興味深いだろうな、とか思っちゃいますね。
ちなみに『あたしンち』は再アニメ化されるらしいのであのお母さんが今どのように描かれるのかちょっと楽しみにしています。