図解!これが新自由主義世界だ!映画『我来たり、我見たり、我勝利せり』感想文

《推定睡眠時間:45分》

主人公の父親らしい大金持ちの投資家が出資した事業の落成パーティみたいのに呼ばれてステージに登壇するとスピーチ前に踊ってみせるというシーンがあったのだが欧米の大金持ち全般のやりがちな仕草なのかどうか、これと同じようにスピーチのために登壇してまずダンスというのをテスラ社のイーロン・マスクも前にやっていた。トランプ政権発足時に歳出の大幅カット役として閣外起用されその後政権を離脱すると大規模減税を含む本年度の予算案をこれでは歳入が少なすぎ歳出は多すぎると猛批判したマスクは非常に典型的な新自由主義者だが、神の見えざる手を信仰し市場原理(という名の万人の競争状態)にすべてを委ねようとする新自由主義は、必然的に創造的破壊=イノベーションを引き起こす英雄的な個人を称揚する。

それがどうこの映画と繋がるのか。創造的破壊によってこそ世の中は前進し人々はよりよい生活を手にすることができるのだというニーチェ的なニヒリズムと裏表の関係にあるモダニズムに通じるこの立場からすれば、抜きん出た破壊者は抜きん出た創造者でもあるため、その破壊行為はそれによってたとえどれだけ多くの犠牲が出ようが倫理的に肯定されることになる(だから、こうした人々が語るのは常に現在ではなく未来なのだ)。冒頭に出るエピグラフは20世紀前半のアメリカで活動した作家アイン・ランドの『水源』を引用したものだが、アイン・ランドは新自由主義(か、それを一層極端化したリバタリアニズム)小説とでも言うべきものを著して資本主義を国是とするアメリカでは大変人気を集めた作家であった。

映画は大金持ちの投資家がどうぶつハンティングでも楽しむかのようにまったく何食わぬ顔で通行人を撃ち殺す場面から始まる。その殺人は峠で起こったので誰も見ていなかったが、また別の殺人をやった時に今度は目撃されても、大金持ちはまったく気にする様子がなく、死体を隠すことも目撃者を殺すことさえもない。まるで平民らしき目撃者なんか見えていないか、見えていてもウサギかなんか害のないどうぶつだとでも思っているかのようである。そして実際、この大金持ちは何人殺しても殺してもまったくなんの罪に問われることもないのであった。

そんなカスに育てられれば子どもが歪むのも当然のことである。大金持ちはアジア系とアフリカ系というわかりやすくダイバーシティな養子をペット感覚かあるいは自分を良く見せるためのファッション感覚で育てているが血の繋がった娘も一人いる。こいつがどんどん大金持ちのカス父親に影響されてカス化していくのである。お金持ち子弟の集うお金持ち学校では反則でもなんでもやりたい放題。学校に通う他のキッズのお金持ち親たちもそれぞれ事業を抱えているゆえ大物投資家である主人公の父親の機嫌を損ねまいと絶対にキッズに不平を言わせたりしないのである。だから主人公はニーチェが言うが如く「一切は許されている」と考えるようになってしまうのだ。どんな悪いことだって自分にはやる権利がある。いやむしろ自分が悪いことをするのは創造的破壊であり、世界のためになる英雄的行為なのだ。

モダニストの立場からシリアルキラーの生活を描いたラース・フォン・トリアーの『ハウス・ジャック・ビルト』とこの『我来たり、我見たり、我勝利せり』が透徹したブラックユーモアを含めてよく似たムードを持っている点はモダニズム=啓蒙と新自由主義の連続性の証左のようでもあり興味深いところだが(アドルノ=ホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』において啓蒙思想の最終到達地点が人間を単なる物としか扱わないナチスのホロコーストであると書いている)、『ハウス・ジャック・ビルト』では創造的破壊者であるところのシリアルキラーが実は単に身勝手なだけで精神的に脆く行動に際してとくに後先考えないからこの人が殺人を続けられたのは単に警察力の不足によるもので実際には創造的破壊者でもなんでもなかったと嘲笑していたのに対し、『我来たり、我見たり、我勝利せり』にそのような嘲笑はない。嘲笑があるとすればそれはこんなカス大金持ちを自分たちの利益のために容認している社会に対してであり、それがモダニズムを基礎としているがために「モダニズム疲れ」としての地縁血縁回帰の色彩を帯びる『ハウス・ジャック・ビルト』にはなかった徹底した冷たさを生んでいる。

これはずいぶん辛口の風刺喜劇だなぁ。まぁしかし、社会を見つめる視点の鋭さと映画として面白いかどうかは別の話。キューブリックばりにスタイルを堅持するこの映画では何をするにもだいたいロングショット&ロングカットで、基本的に殺人シーンはどれも遠くから定点観測のごとく眺めるばかり。そのため映像に変化が少なく内容的には相当辛口のはずなのに呑気に眠くなってきてしまう。まぁ最初の方であっさりと「この人たちはカスの殺人鬼なのにぜったいに捕まることはありませ~ん」と言外に宣言してしまう映画なのだからサスペンスも何もあったもんじゃなく、そりゃ俺でなくても眠くなって当然であろう。「この人たちはカスの殺人鬼なのにぜったいに捕まることはありませ~ん」なハネケの『ファニーゲーム』でさえ露悪的な暴力描写など客の目を意識した見せ場(?)があったが、こちらの方はそれさえもないわけである。

ただひたすらに新自由主義が世界を覆う現代を戯画化して見せる活人画のごとし86分。面白いかどうかはわからないが、こんな世の中でいいんですかという問いかけとして、そして睡眠不足解消のための睡眠導入映画として、得るところは多い映画じゃないでしょーか。

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