《推定睡眠時間:5分》
主人公の爆裂9歳がクソかわいいのでホヤホヤとしながら観てしまった。とにかくこのクソガキは元気いっぱい、すぐ凶器を手にして殺すとか死ぬとか言うしそのへんに置いてあるものは窓に投げて割るしウギャアアアアと絶叫して走り回すし他のクソガキのラジコンは踏み壊すし欲しいものがあれば窃盗ぐらい当たり前だ! やはりガキは元気がいちばん、このぐらい元気であれば誘拐されても誘拐犯殺して逃げてきてくれるから安心して外に放置してられて育児も楽ですよね。無駄に子供の面倒見はいいので弟たちがテレビで怖い映画を見ていると「こんなのダメだよ!」とか言って幼児アニメにチャンネル変えるし、ご飯も作ってあげるし。まったく涙が出るくらいカワイイ子だナァ。
俺はニコニコ鑑賞だったのだが他の人の感想を観るとなんかみんな重めの映画として捉えているようで、それはこのクソガキが暴れん坊ゆえあちこちの施設とか里親とかを転々として各所で騒動を巻き起こしているというストーリーおよびそれを基本的に劇判を使わないで演出しているからなのだが、俺に言わせれば、そういう見方こそこのクソガキを拘束している「システム」に他ならない。そしてそんなシステムを破壊せんとするのがこのクソガキであり、『システム・クラッシャー』という映画なんである。
たぶん俺にそう見えるのは俺もADHDだからかこんなことが小学生の頃によくあったからだろう。俺もキレる子どもだったね。手当たり次第に物を投げるとか凶器系は多かった。同級生にからかわれたりして不快ゲージが一線を超えるとわけわからなくなって鉛筆とかコンパスとかでそいつを刺して絶叫してました。それで、そういうかわいい凶器を他の生徒に向けて「近づくな!」とかね。もちろん毎回学級会だよ。休み時間に俺の席に俺の許可無く座ってたってだけでブチ切れてそいつ殴って「お前んちを放火して殺してやる!」と絶叫して逆にぶん殴り返されて眼球出血で病院行きとかさ。これ4年生の時ぐらいの記憶だからこの映画の主人公と同じ歳だ。
運動会に行きたくなくて町を逃げ回ったような記憶もある。幼稚園から脱走して一人で家に帰ったとかもそういえばあった気がする。何かが我慢できなくて自分の部屋のドアを蹴破るとかさ。もっと小さい頃はもっと抑制が効かないから、暗い部屋とか物置とかに閉じ込められて怪鳥みたいな鳴き声で抗議してましたよ。物置なんか父親に足引っ張られて入れられてたもんで。駄々をこねる時も本気で床を破壊せんばかりに足をドタバタしていたが、あれはいったい何がそんなに気に入らなかったんだろうねぇ。
面白いことがあると我慢できずに笑っちゃって止まらない。だから給食の時とかさ、俺を笑わせようとするやつがいるんだよ。そうすると飲んでる牛乳ぶーっと吐いちゃって大爆笑、災難な向かいの席の女子とかは牛乳ぶっかけられてもう泣くよね。その翌日は俺だけ席替えだったよ。授業中とかもさ、なんか先生の言葉遣いとか動きとかまぁなんかそういうのでツボに入っちゃうやつがあって、そうするともう笑いが止まらない。それで怒鳴られたり机ごと廊下に出されたりしてたけど、本当に悪意なんて全然ないんだよ。ただ俺の目から見て面白かったら俺は笑っちゃうの。これはまぁ、今でも変わってないからたまに上司の言動がツボに入っちゃってすげー不快な顔されることがあります。ま、気にしませんが(俺は)。
だから俺には不思議でしたよ。まぁ公立校だったしこういうガキは俺の他にも何人かいて、他にもさ、一切クラスメートと会話をしないし授業でも勉強しないでただ無言で1日中座ってるだけのやつとか、授業中に廊下を走り回りながら「先生なんかだいっきらいだ!」と叫んでるやつとか、あと風呂に入らないからいつも臭いネグレクトキッズは何人もいた。こんなことは俺の小学校では珍しいことじゃなかったんだよ。珍しいことじゃないから特別なケアを受けた記憶もないし、そもそもその当時発達障害の概念なんて一般的じゃないから、俺とか他のやつみたいのは単なる問題児で、それ以上のものとは思われていなかったんじゃないだろうか?
それで、そんな俺も中学になります。そうするとなにやら自分を外から眺める意識というのが芽生えてきて、小学校の頃の問題行動が嘘のように消えてしまった。そしたら今度は自分が他のクラスメートにどう見られているかということばかり気になって内にこもるようになってしまうっていう別の問題が発生するわけですが、でもとにかく、物を投げたり凶器で刺したりとかはなくなった。ガキっていうのは、何も教えなくたってガキなりに成長するんですよ。
その徴候はこの映画の中にも所々映し出されている。主人公はあっちこっちで騒動を起こして誰も彼もが匙を投げるが、前半と後半では主人公の顔つきや言動は同じじゃない。後半のあるシーンでは序盤であればキレていたところで主人公はキレないのだ。窃盗だってやったのは最初の方だけでそれ以降はやってない。この子はちゃんと成長していて、ただ、周囲の大人の誰一人としてそのことに気付かないだけなのだ。残念なことに多くの観客も含めて。
この映画に哀しさがあるとすればたぶんそこにだろう。なぜ大人たちは誰一人として主人公の変化に気付けないのか? いやそもそも、なぜそれほどまでに主人公を問題視するのか? 俺の見るところ、それは大人たちがシステムを通してしか他の人間を見るすべを知らず、システムを通してしか他の人間と関われない、どんな人にもすぐ懐いてどんな環境でもすぐ楽しんでしまうタフな主人公とは対照的に、まったく脆弱な人間だからだ。主人公は道で出会った人に片っ端から声を掛けるがまともに応じる大人はほんどおらず、人によっては怖がりさえする始末。
まったくお笑いものです、たとえ見知らぬ人だとしても「どうもこんにちはー!」と挨拶されて同じ言葉を返せないなら、それは返せない方に問題があるわ。つまりそれは、システムの中に入っていないと他の人に挨拶さえできない、そんな大人が現代ドイツ(※ドイツ映画)には溢れているということなのだから。人間として正しく、成熟してさえいるのはこの場合、挨拶のできる主人公の方だろう。情けないものだ!
子供たちは大丈夫。少なくとも主人公は大丈夫だ。この子にはちゃんと生きる力があるし、生きることを精一杯楽しむ力もある。年下の子の世話をするシーンに表れているように思いやりだってある。心配なのはむしろシステムに囚われた大人の方だ。主人公は実によく笑って遊ぶのに大人たちときたら全然笑ったり遊んだりしない。どいつもこいつも今にも死んでしまいそうな顔してやがる。そんなんで大丈夫か? システムから出たらすぐにでも死んでしまいそうじゃないか。だからこそ、大人たちはシステムを堅守する。そしてシステムを易々と破壊して外の世界で自由に生きようとする主人公を悪魔の如く恐れるのだ。あるいは、この映画を重い映画と受け取る脆弱な観客たちのように、「保護すべき」と主人公を憐れむのだ。冗談じゃない! 保護が必要なのはあんたらの方だよ!
ある意味で悪魔の出てこない『エクソシスト』ともいえるこの映画は、『エクソシスト』を観る人間にこれまで一般的だった解釈とは異なる視点を提供するものでもあるかもしれない。悪魔に憑かれて下品な言葉を口にするようになったからなんなのか? だからって自宅のベッドに縛り付けて動けなくするなんて私宅監置じゃあるまいしどうかしておろう。下品な言葉ぐらい好きに使わせてやったらいいわ。空中浮遊したかったらしたらええ。子供がデスボイスで卑語を連発し空を飛ぶ家なんて賑やかで楽しいものだ。それを楽しいものと受け入れられない周囲の大人の余裕のなさこそが、本当の問題なのだ。
その意味でこれは子供版の『冬の旅』とも言える。無頼主人公の一人旅は過酷だが、本人が好きでやってることなんだからそんなもんは問題ではない。死んだ放浪女をそこにいたるまでの旅路で出会った人々が回想するというスタイルの『冬の旅』が明らかにするのは、死んだ女の人生や内面ではなく女が出会った人々の感じている様々な種類の抑圧である。女のようにシステムの外に出ることができず、システムへの自己監禁という以外の人生の選択ができない人々が、間接的にだとしてもこの女を殺したのだと言うこともできる。
あんがい酪農家のオッサンちに居着いたりして主人公はつまらない学校に行かずのびのびと育つのかもしれないね。主人公が通学付添人とかいう聞き慣れない職業のオッサンと山ごもりトレーニングをしている時に出会うこの酪農家のオッサンは『システム・クラッシャー』という映画の中では決して好ましい人物とは描かれないのだが、にもかかわらず、山小屋を飛び出したて納屋で寝てた主人公をとりあえず家に上げて好きにテレビを観させてやる懐の広さがある。それを引き取りに来た通学トレーナーはこの映画の中では「やさしい大人」の一人だが、引き取り時に主人公に放つのは「お前が脱走したら俺はこの仕事をクビになる!」なのだ。この人もまたシステムの外に出ることを恐れ、そのためにシステム・クラッシャーの主人公を恐れるケツの穴の小ささなのである。
大人の言うことに従い学校に毎日行き親や先生以外の大人とは関わったりせず遊びも親の許可した遊びしかやらない。それがシステムの中でしか生きられない現代社会の大人たちの考える「良い子」だが、これが「模範囚」の概念と大差ないことなんかこの映画を観ればよくわかる(と思いたい)。児童保護の美名のもとに行われる児童管理がはたして本当に子供のためになっているのか、この映画を観てよう考えてみたらええんじゃないだろうか。子供たちは大丈夫、傷ついたって大丈夫。この主人公みたいに暴れてた俺だってまぁ今や中年フリーターとはいえ毎日好きなことしてそれなりに楽しい人生を送っているからな。そのうえ世の中の大抵の「良い子」だった大人たちよりも物事を深く考えていると思われるし、人権意識だって人並み以上にあるのではないだろうか。そこらへんは完全にアンフェアな自己評価なのでなんとも言えませんが…とにかく、システムに隷属するひょろひょろの大人どもは、この痛快な映画を笑って気楽に楽しんだらいい。こんなにニコニコできる映画を見てメンタルが落ち込むようだったら、主人公ではなくその人の方こそ治療が必要なんである。
※それにしても思わず瞠目してしまったのは主人公が通う小学校の女教師でこれは誇張ではなく『ストリートファイター』のザンギエフの完全実写版だった。あるいは『鉄人28号』の人間サイズ縮小版だった。見ているだけで画面越しに殴られた気分になってくる猛烈なこの圧を利用すれば主人公なんか3日で模範囚化したと思われるので、なぜこの女教師に誰も主人公を任せようとしないのか不思議である。格闘技をやっていないとは1000%考えられない風貌なので、女教師指導のもと、主人公のありあまるエネルギーを柔道なり空手なりで発散させてみたら将来的にオリンピックも狙えたんじゃないだろうか。インド映画だったらたぶんそういう展開になってると思う。
こんにちは。
この映画のチラシのアートワークはいいなぁ、と思って見に行きました。
なるほど、『フロリダプロジェクト』のポップさとキツさをホーフツとさせますね。
私は『こちらあみ子』だなぁ、と思って見てました。
本作で切なかったのは、ラスト近く、ベニーが通学介助人ン家の赤ちゃんをあやしてて顔を触られたのに怒りが爆発しなかった、それを大人たちに知られずにいたこと…
『ありふれた教室』もですが、ドイツの教育とか福祉とか、興味深いですね。『ありふれた』では職員室もカッコ良かったけど(^_^;)
大人に見えないところではしっかり成長してるんですよね。そこらへんもたしかに『こちらあみ子』に似てて、可哀相だけど、でも俺は「あぁこの子たちは大丈夫なんだな」と安心したりしました。最後も笑ってましたしね。
めちゃくちゃ楽しい映画だーとウキウキしながら鑑賞してたので近い感想を見つけられて嬉しいです
インターネットでこの映画の感想を検索するとなんだかどんよりとしたものばかりで…笑
見方を変えればコメディのようでもある、タイトル通りの痛快作だと個人的には思ったんですけどねぇ
あ~楽しかった!!とスッキリ終われて気持ちのいい映画でしたね。
作中では制作者によるお節介なご案内がなされない分、希望を見出そうとしない鑑賞者にとっては「救いのない映画」になるのだろうと思いました。その延長として、映画のラストで彼女の死を想像する人もいたということには驚きましたが…
とくに日本の観客は「こういう感情になってください」と画面に指示されないと物語の解釈ができなくて、シリアスなトーンだと滑稽なものが描かれたりしていても笑うことができないみたいな、なんかそういうのをこの映画のいろんな人の感想を見てて感じましたね。
ときにはコメディと明示的に演出されていても題材がシリアスだからと「どう受け止めていいかわからない」なんて言う人もいて、最近では『お隣さんはヒトラー?』がそうでした。
日本の観客は真面目といえば真面目なのですが、ちょっと主体性・能動性がないかなぁと思います。『システム・クラッシャー』の主体性・能動性の塊な主人公を見習ってもらいたいところです笑