『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』の感想(ネタなし注意)

《推定睡眠時間:0分》

フロリダ・ディズニーワールドの傍らで夢とは無縁のスラムみたいな暮らしをしている元気無限大の底辺クソガキどもの悲喜劇でのっけから超々個人的な話になるんですがそういえば同じ小学校の同級生にトモヤくん(仮名)というのがおったなぁと見ながら回想モードに入ってしまったのはトモヤくんの家でスーファミの『ミッキーのマジカルアドベンチャー』を遊んだ記憶が残っていたからだった。

トモヤくんは仲間内では有数のゲーム持ちとして知られていたが同時にお風呂に入らない子どもの一人としても知られており(俺の学年には三人いた)家に上がると足が臭うことからアシックサの異名を持っていた。なんかアシックスのスニーカーでも履いてたんでしょうが子どもは酷いですね。
道端に置いてあったタバコの吸い殻入りの缶ジュースを根性試しで自ら一気飲みするなど恐れを知らない子どもだった。そのときに一緒に居た俺とケイスケくん仮名は汚ねぇぇぇぇぇと絶叫しながらダッシュで逃走してそのままトモヤくんと別れた。プレ・ケータイ時代の子どもは自由。

お風呂に入らない子どもというだけで家庭環境は推して知るべし感があるが俺の記憶ではトモヤくんの家として案内される場所は二回変わっていて、最初は個人経営とはいえそれなりに大きめの風格ある飲食店の住居部とかだったように思うが、そのうちトモヤくんが婆ちゃんちと呼ぶ2LDKくらいのアパートになり、それからワンルームアパートかなんかになったのだが、その頃にはあのゲーム持ちのトモヤくんの面影は無く室内はゴミ屋敷的様相、トモヤくんの母親からあまり入らないよう言われていたので中で遊んだ記憶はない(しかし一度だけ中に入った気もする)。

トモヤくんの家で遊ぶ時にはいつもトモヤくんの母親(父親は見たことがない)が部屋にダラァと寝転がっていた。それが『ミッキーのマジカルアドベンチャー』かどうかはともかく、トモヤくんと俺含むクソガキどもがスーファミで騒いでいるのをタバコ片手に眺めながら時折ファジーなマリファナ的笑いを…的なであって実際は違うのだろうがともかくそういう人で、そののびのびのびのび育児方針が功を奏したかトモヤくんもいつも笑いながら面白いことをしているファニーな子どもだった印象がある。

当時第一次ポケモンブームの最中。ポケモンが欲しかった俺はトモヤくんから初代ポケモンを3000円で買ったが、そんな大金の絡む裏取引は小学生にとっては薬物購入も同然の触法行為、フェンスと外壁の間の雑草にまみれた隙間を通って人目につかない(とその頃は思ったが後から考えれば丸見えだった)ビルの裏手でドキドキしながらこっそり売買したものだ。
欲しいゲームソフトは友だちから盗んでシラを切るのが当たり前(※地域差あり)の他の同級生と違ってトモヤくんは筋を通していたのではないか? まぁソフトの出所が若干怪しくはありますが…。

後日そのことが親にバレてせっかく手に入れた俺のポケモンは返品返金、生活態度を含めて俺の母親からトモヤくんの母親に長時間クレームがついたのだが、母親は当時も今も布教活動に熱心な創価学会員だから大方それも途中からは座談会への(迷惑な善意からの)誘いだったんだろうな。
前述のケイスケくんの家庭は無宗教だったはずだが俺は彼とも母親に連れられて何度か座談会に行ったことがある。ママ友の付き合いも大変だし、親の付き合いに付き合わされる子どもも大変だ。

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以上がおそらく小4ぐらいの頃。そのあたりから先のトモヤくんに関する記憶はないから、小学校中学年のいつかの段階でトモヤくんは転校したんだか保護されたんだかしたんだろうと思う。
記憶の続きではその前後に転入してきたアンドウくんの顔が代わりに入ってくる。俺はアンドウくんとさほど親しくなかったのでその数少ない思い出といえば数人の同級生と俺の部屋で遊んでいる時にアンドウくんの所持するゲームソフトが密室内で消失するという奇っ怪な未解決事件しかない。

『フロリダ・プロジェクト』のクソガキどもと毒ママを見ながら考えていたのはそんなことだった。懐かしいなぁ。兵どもが夢の跡的な放棄された廃墟の住宅街が映画の中には出てきますが、トモヤくんの第一か第三の家の近くにも火事で廃墟と化した一軒家が長らく残されていたんだよ。あれも、もう残ってないでしょうが。

…という実質を伴う私的な記憶とはまた別に仮構された郷愁を感じてしまうのはこういう下町貧乏長屋の群像人情喜劇って今は絶滅したも同然な昔の日本映画の定番サブジャンルだよなぁ、寅さんやってたぐらいまでは観客にもその感覚がギリ共有されてたんだろうなぁ、と思わせたからで。
底辺映画はあっても客の自虐的共感を基礎にした底辺喜劇がほとんどなくなっちゃって、インディーズでもメジャーでも等しく底辺が不幸と絶望の記号でしかないような現代日本映画を考えると、この豊かな貧困イメージはやっぱ響く。

これもディズニーに劣らない映画のマジックなんでしょうがー、この傍目には悲惨なだけの底辺モーテルには持ちつ持たれつ的な出自も性格も仕事もバラバラな底辺共同体というものが何故か成り立っていて、そのおかげで小さな衝突も絶えないんですけど淀んだ感じがないっていうかほんと底辺なんですけど妙にあっけらかんとしていて。
そこノスタルジーありますよね。いやなんかノスタルジーあるんですよ、あのクソガキどものクソ迷惑なはしゃぎっぷり見てたらそんな感じになる。

クソガキ連中が外で遊んでたら変態っぽい男が寄って来るところのナチュラルな温度とかすげぇ良かったですよ。それはガキどもの反応もそうだし変態っぽい人の微妙な変態っぽさっていうのもそうだし。
やっぱいたもんねあぁいう変態っぽい人。なんか小学校の通学路らへんにいつも着流しで座ってやたら子どもを家に呼ぼうとするオッサンがいたんですよ俺のところにも、聞くところによれば元ヤクザの(子どもの噂なので信憑性皆無だが)。
俺も一度だけ友だちと一緒について行ってなんか高い肉食わされて(無事に)帰ってきましたけど、劇中で変態を追っ払うモーテル管理人のウィレム・デフォーの表情見てたらあぁあのとき父親にこんな顔されたなって感じでしたね。

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いや、ノスタルジーってそういう種類のノスタルジーなので。これ記憶の古層は掘り起こされますけど別にあの頃はよかったな感みたいのは全然催さないんで…でも苦々しさだけがあるわけでもないから不思議もので。
蜃気楼みたいな彼岸のディズニーワールドとか、人食い原住民の襲撃を逃れてジャングルから飛び立つが如くなヘリコプターとか、立ち並ぶヴィヴィッドな廃墟の家々はまるで映画のセット、とか。
生々しい貧困の風景がファンタジーとして、異世界としてじゃなくて何か記憶の中のファンタジーとして見えてくるからなんというかまぁ、曰く言い難い。

リアルでもないしフィクショナルでもないし。ユーモラスだけど悲惨だし悲惨だしユーモラスだし。やってることはバカなのに本人は真剣だったりするし。クソガキどもが公害レベルのクソガキだから一刻も早く消えて欲しいけど居なかったら居なかったで寂しいし。
こういうアンビバレントで不合理な、肌感覚の貧困生活を描くならあぁいう結末しかなかったな、と力業にもほどがあるスーパー強引ラストを必然にすら感じてしまったからマジカルな映画。

でもそう感じるのは大人目線で見てるからだろう。あの謎の多幸感には切実なものがあるけれども、それは子どもの切実じゃなくて、過去の一場面を振り返ってあぁしておくべきだったと悔やむ大人の切実なんだと思ったよ俺は。
その悔恨が映画に風変わりなファンタジーの手触りやノスタルジックな色彩を与えていたんだとすれば切ない話だ。いや切ない話なのは最初っからわかってるんですが…。

良かったな。殺意を覚えるクソガキどもの大暴走っぷりも底辺人どもの不精と不義理に肩落しまくりのウィレム・デフォーも貧困風景に溶け込みすぎて誰だかわからないケイレブ・ランドリー・ジョーンズも、パンクでキュートでしかも子どもを絶対怒ったりしない超チャーミングな良い人だけどこいつの近所に住んだら絶対面倒くせぇな感が全開のブルックリン・キンバリー・プリンスもみんな最高。最高に底辺だったよ。もうそういう感じで強引にまとめます。

あと監督が『タンジェリン』の人なので『タンジェリン』でジャンキーどもにクソ迷惑をかけられて物凄いしかめ面を浮かべていたドーナツショップのアジア人女性オーナーが端役でまた登場、再び底辺人にクソ迷惑をかけられて物凄いしかめ面を浮かべてました(それも最高)。

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こんな底辺映画とは対極に位置するような箱庭作家ウェス・アンダーソンも出発点は安モーテルの底辺人間群像であった、とすればウェス・アンダーソンの箱庭がノスタルジックな記号でゴテゴテに飾り付けられているのもなんとなくわかる話なんである。

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