面白いけど小賢しい映画『ワン・バトル・アフター・アナザー』感想文

《推定睡眠時間:0分》

いろいろと思うところがあるのだが、たとえばその一つはこれがアメリカにおいて保守派が主張する武装(蜂起)の権利、つまりは銃所持とその使用を左派ラディカルの立場から正当化するものとなっていることで、政府が暴力や強権を行使するなら人民もまた人民を守るために銃火器を手に取って武力闘争を行うべきだという理屈なのだが、折しもアメリカでは保守派の論客であったチャーリー・カークなる人物が、チャットアプリで恋人に漏らした「対話では解決できない問題もある」といった犯行動機などからすれば左派リベラル思想にシンパシーを抱いていたであろうと推測される大学生の男(この人は保守派の家庭で育ち、一方大学ではトランスジェンダーの恋人がいたことから、保守とリベラルの二つの世界で引き裂かれてしまったのかもしれない)によって銃殺された事件があったばかり、この映画の監督ポール・トーマス・アンダーソンがそうした現実の暴力行為を促しているとは思えないが、左派も武器を取って戦うべきだという空気がもしもアメリカに現実としてあるのだとしたら、そしてこの映画もほとんど意識しないままにそうした空気を反映してしまった映画なのだとすれば、無邪気にわははおもしろい映画ですね~ともちょっと言いにくい。

実際のところこの映画で描かれるのは演出こそリアリスティックではあるもののアメリカの至る所に武装して反政府活動を行うレジスタンスが潜伏していてこの人たちが地下ネットワークを形成しており、一方アメリカ政府を影で動かしているのは豪邸の地下に『ゼイリブ』の宇宙人基地みたいな広大なアジトを持つネオKKK軍団であり、というコミック的な世界であって、現代アメリカの政治的分断状況を戯画化しているものではあってもリアルなものではないのだが、逆にというか、それがリアルなものではないからこそ、ここで描かれる暴力には暴力をの乾いた戦争思想を、観客は楽観的かつ肯定的に受け止めるかもしれない。俺はアメリカなんかさっさと分裂しろ(そうすれば他国に対する影響力が縮小してイスラエルみたいなアメリカの武力資力を後ろ盾にした暴挙はなくなるだろう)と思っているし日頃からBlueskyとかで放言してるけど、とはいっても現実にアメリカの左派が武装してトランプ体制転覆のために共和党の政治家とか公務員とかを殺し始めたら「いや、そんなつもりじゃ…」と釈明に追われてしまうので、それはわりと困るわけである。とまぁそんなそんなこんなが、わりとこの映画にはあるのだ。

ところで左派の銃所持の正当化と書いたがそれもまたひとつの論拠、なんの論かといえば、ポール・トーマス・アンダーソンは右派リバタリアンのクリント・イーストウッドの左派リベラル版なのではないか論。めっぽう面白いこの映画には従来のポール・トーマス・アンダーソン映画のひとつの特徴であったと思われる「間」の使用がほとんど見られず、画面は出来事と出来事と、アクションとアクションだけをキビキビと繋いで、余白を作らないその筋肉質な作劇スタイルはだらしない元過激派である主人公のレオナルド・ディカプリオよりも敵役のマゾヒスト警官ネオKKKショーン・ペンが体現しているという捻れがこの映画の興味深いところだが、それはさておき現代ハリウッドにおいては珍しいそうした物語優位・経済効率重視の伝統的な作劇(※蓮實重彦のハリウッド映画論に従えば)を採用することで巨匠として扱われるようになったのがイーストウッドなわけで、考えてみれば映画の冒頭から露骨なエロ台詞とセックスがぶちまけられるこの過剰な男性性欲の発露(『マグノリア』のチンポ教祖や『ブギーナイツ』の巨根男優を思い出されたい)はポール・トーマス・アンダーソン映画の特徴であると同時にイーストウッド映画の特徴でもあるし、各々が流れるように自分に課せられた任務を果たしていく潜伏レジスタンスたちの姿にはイーストウッドの『ハドソン川の奇跡』において墜落危機にある航空機内で添乗員たちが少しの感情ももらさず機械的に職務を果たす姿が重なってくる。最終的に西部劇を思わせる舞台と展開に収束していく点は言わずもがな。

このイーストウッドとポール・トーマス・アンダーソンの密かでありつつも明瞭な類似性はイーストウッド作品の核にアメリカ的マチズモがあるようにポール・トーマス・アンダーソン作品もまたその核心はアメリカ的マチズモにあることを指し示すかもしれない。美学的な武力闘争なんて結局マッチョなわけで、健康優良男子の発想なんである。だって健康体じゃなきゃ銃持って国家と戦争なんかできないのだし。そして不法移民収容キャンプ襲撃や変電所の爆破作戦の直後に過激派活動家の主人公とその妻がエキサイトしてセックスするように、攻撃によって昂進する性欲という外に向かう暴力性を宿した身体でなければ、なのである。平均すればこうした暴力性は男性ホルモンに多く由来する、男性特有の病だろう(当然ながらそんな暴力性がそこらへんの男よりもよほど強く出ている女の人もいるはずだが)

このように考えれば先にも触れたねじれ、だらしない主人公よりも敵役の性欲ビンビン悪徳警官の方がむしろ主人公らしく画面に映るということに、なにか作り手の言い訳めいたものが見えてこないだろうか。主人公は爆弾作りに精通した武装レジスタンスといっても実は銃なんか持ってるだけでぜんぜん撃たないし人に暴力も振るえないのだけれども、その妻で主人公よりもよっぽどラディカルな活動家の黒人女性は活動資金を得るための銀行強盗の際に銃で人を殺す。しかも反差別を掲げつつ、職務を全うしようとしただけの真面目な黒人警備員を殺害してしまうのだが(レジスタンスたちは大義のためには小さな犠牲もやむを得ないと考えているのでこの件を問題視する人は一人もでてこない)、そうした暴力の罪を妻が肩代わりする一方で、主人公は娘を想う罪のない父親として描かれるし、途中まで重要人物に見えた妻はいつの間にかフェードアウトして、物語は父と娘の和解というきわめてアメリカ映画的な主題にほとんど唐突に逢着して終わる。イーストウッドとポール・トーマス・アンダーソンの間に深い溝があるとすれば、それはおそらく思想の違いというよりも、マチズモ=暴力の責任を主人公に背負わせようとするかしないか、という態度にあるのかもしれない。少なくともこの映画では、ポール・トーマス・アンダーソンは敵役と妻にそれぞれ暴力の罪を肩代わりさせるという形でそれを避けたのである。アメリカの父の聖性と神話を維持するために、かもしれない(だから逆に、暴力の罪を背負ったイーストウッド映画の主人公は、ほとんどいつも父にはなれないのだ)

ものすごくおもしろい映画であることは間違いないけれども、でもこれはそんなわけでちょっとズルい映画という気がしないでもなく、つるんと飲み込もうとしても喉に突っかかってしまう。テイストは部分的にコーエン兄弟の『ノーカントリー』とかタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』に近いが、俺はコーエン兄弟もタランティーノもそんなに好きな方じゃないので、なんか、こういうのが肌に合わないのかもしれないな。芸術性が高いけど根本にはアメリカ的な粗雑さとマチズモがあるようなやつが。ということでアメリカは早く分裂したらいいと思いまーす。

※主人公がハッパやりながら家で観てる『アルジェの戦い』は1968年の学生活動家たちによく観られていた映画(革命気分を鼓舞するだけでなく闘争戦略の参考にもなったのだとか)。現代の活動家がまだ『アルジェの戦い』を観ているとはあまり思えないのだが、このへん作品に68年的なるものへの憧れが見え隠れするポール・トーマス・アンダーソンの願望なのかもしれない。とすれば現代に1968年が蘇ったらという空想の上に成り立っている映画と考えることもできるかもしれない。

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匿名さん
匿名さん
2025年10月5日 2:36 PM

これ原作(と言うか着想元?)のピンチョンの小説が60年代→80年代にジャンプする話らしいんで、監督の60年代の憧れみたいなものは炸裂してる気がしましたね
母親不在の話はなんでしょう…監督に出産願望があるのかな…?フロイト的な…
あと名優たちのドアップのコクで胸焼けしました!