メンタルに痛恨の一撃映画『愛がなんだ』感想(ネタバレと脱線あり)

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《推定睡眠時間:0分》

愛がなんだって言われても俺このアラサー主人公たちと年齢近いはずなんですが恋愛経験0なのでそうっすよねぇと共感0で心のこもらない相槌を打つぐらいしかできないが「年齢近いはずなんですが」と匿名にも関わらず何気なく実年齢をボカしてしまったりする恋愛弱者のヘタレ根性、そのイタさ、爆発的に溢れた映画だったよな『愛がなんだ』。
まったくなんてイタい映画だ。一応アラサーの恋愛群像だがどいつもこいつもコミュニケーションスキルと他者に対する想像力が未熟すぎて中学生にしか見えない。

冒頭、主人公のテルコさんは好きで好きでしょうがないマモちゃんくんから風邪を引いて寝込んでいると聞かされ寝込みならぬ煮込みうどんを作りに行ってあげてついでにゴミの仕分けもやっちゃって更には鼻歌なんか歌いながら掃除まで始める恐怖の世話焼きっぷりを見せてマモちゃんくんに追い出されるのだが、ラスト近くでマモちゃんくんから衝撃告白。「実はあの時、味噌煮込みうどんの臭いで余計気持ち悪くなっちゃって…」。

素直におかゆにして下さいとか言えばいいだけの話なのにマモちゃんくんは変に気を使って(そしておそらく都合の良い女が自分から去るのを恐れて)言うことができない。テルコさんはテルコさんでマモちゃんくんのお世話をしてあげている自分しか見えていないから自分の作った料理がマモちゃんくんにとって毒となろうがどうなろうが知ったこっちゃない。

中学生の恋愛すら経験がない俺としてはこれにマイ体験を重ねられないので忸怩たる思いで代わりにお母さん体験を重ねてしまう。
むかし引きこもっていた頃、俺は二世帯住宅的に同居していた祖母から月5000円の小遣いを貰っていてその金で100円レンタルの旧作ビデオを週10本ずつ借りていたのだが、俺がお母さんとは口を利かない一方で祖母には金をせびりに行くのでお母さん嫉妬、ある日これからはこれを使えと1万円を渡してきたのでマモちゃんくんがテルコさんを追い出すが如く俺は震える手でその金をゴミ箱に捨てたのであった。

引きこもる前からこんなことはよくあった。頼んでもいないし欲しくもないのに俺のためにと言ってお母さんは俺に一切相談することなく新しい自転車やテレビを買ってきてしまう。その度に俺は無力感に苛まれて時には泣いて抗議すらしたものだが、お母さん視点ではこんなものは良いことでしかないのでまったく抗議が伝わらない。お母さんは今も昔も創価学会のヒラ信者であるから子供の頃はよく座談会に連れて行かれ、中学になると家に青年部の勧誘員がよく来ていたが、いくら俺が嫌だと言ったところでこれも本人的には100パーの善意であるからびっくりするほど伝わらない。お母さんはあの頃からずっと創価学会が俺を幸せにすると思ってる。

そういえばあの頃のお母さんは勤行をすると良いことが起るからとよく人に勧めていたが、最近会いに行ったら勤行をすると生命エネルギーが湧くとか言っていて勤行スキルがカルト方向にレベルアップしていた。なんの話だ。なんの話なんだ…。

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『愛がなんだ』に話を戻そう。戻さないと俺がもどしてしまう。つまり何が言いたいかというと『愛がなんだ』は身内に学会員のいる家族の話なんですよ。違うよ! 他者の眼差しを度外視した幼児的ディスコミュニケーションの話。それを克服して他者の眼差しを内面化した大人になることの痛みについての話。愛のお題目で正当化される我執の暴力性の話。執着を捨てることでその対象を不在の中で永遠化することの怖さについての話。俺解釈ではその四象限にシナリオが分解できる。

とくに最後のやつは俺にとって映画の最重要なポイントだった。写真家アシスタントでテルコの親友・葉子の(テルコの映し鏡のような)恋愛パシリだった仲原くんは映画の最後で「一瞬の夢」と題された写真の個展を開くが、そこで仲原くんが何を成し遂げたかと言えば表面的なところでは失恋によるアーティストとしての成長でしょうが、もっとこころのドロドロしたところでは葉子との同一化の断念を代償に得た彼女の偶像化だろう。仲原くんの写真の中で葉子は永遠に生かされ続ける。それが仲原くん(と、そしてテルコ)の愛し方であった。であったかどうかは知らないが俺にはそう見えた。

こわくないですか。俺はこわかったですよ。だって容赦がないじゃないですか。そうやって俺を愛するのはやめてくれって頼んでもこの人たち絶対やめてくれないですから。目の前の実態を持った本人にはうんわかった、お前なんかもう好きじゃないって言える。でも写真が常に過去の記憶でしかあり得ないように、この人たちは現実の葉子やマモちゃんじゃなくて記憶の中の抽象的な葉子なりマモちゃんを愛してしまっているし、その二つを完全に別物にしてしまっているからオリジナルの方の葉子やマモちゃんは眼中にない。だからいくらやめて欲しくても本人の意志とは無関係に永遠に愛され続けてしまう。これは死ぬほど残酷なことです。

参照可能な恋愛記憶がないからまたしてもお母さんを召喚しよう。おかーさーん! まだ学校に通っていた中学の頃、どういう流れでそうなったかは覚えていないが何人かの友人がウチでゲームかなんかしてる横で俺は眠ったふりをしていた。するとそこにお母さんがやってくる。友達に俺の学校での評判を訊ねるのが耳に入る。友達が帰った後、俺は泣きながらお母さんを問い詰める。なんであんなことをしたんだ。お母さんは答える。お母さんなにも訊いてないよ。あまりにも幼稚で見え透いた嘘にメンタル大ダメージである。ただでさえ恥ずかしさでメンタルゲージが赤に突入していたというのに。

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メガネ屋へ行けば店員にお母様からお話は伺っておりますなどと言われる。成人式の時にはお母さんネットワークにより長らく連絡を取っていなかったかつての友人に俺の携帯番号が知らされ一緒に行かないかと誘われる(お前のかーちゃんに誘えって言われて…とのこと)。
テルコさんが際限なく甘やかすのでマモちゃんくんはあえて彼女を邪険にするが、同じようにお母さんに対してのみ輩であった俺も(マモちゃんくん同様に)このままでは人としてダメになってしまうと思ってはいたので高校を出ると同時に一人暮らしを開始。それから数年、お母さんからの度重なる電話を無視していると学会仲間同伴のお母さんが泣きながら我が家にやってきたのだった。

そういう色々があって、今ではだいぶマシになってきているが、俺は結構長い間お母さんの影に怯えていたのだった。どこに行ってもお母さんがいるような気がする。新しくバイトを始めたりすると採用になったのはお母さんが根回ししたんじゃないかと妄想に駆られる。バカげているのはわかっていたが、根拠の無い妄想ではないのだ。
母親の住むアパートには俺が中学の時に事故死した父親とヤング俺の写真がそれはもうザ・想い出な感じで飾られている。でも俺が記憶している両親はいつも怒鳴り合いの喧嘩をしていたし、当然ながらそれは想い出になるほどうつくしいものではない。今の母親にとっての父親は俺が記憶する父親ではなくあの写真の中の行楽地で笑っている父親で、その中で彼は彼女の美しい想い出であり続けるんだろう、と思う。

『愛は死よりも冷酷』はファスビンダーですが、この映画のタイトルにしてもよく似合う。死は交渉の余地があるが愛は有無を言わせない。主体性や尊厳を留保なしに余すことなく踏みにじるのは死よりも愛の方だ。それ自体が他者そのものでもあるような死と違って愛は他者を考慮しない。できることなら他者など殺してテルコが語るように自分と一体にしてしまおうとする。
こんなにおそろしいものはないと思うし、たとえその場しのぎのごまかしでしかないとしても、その残酷な愛の先にあるかもしれない愛のロマンティックでうつくしい形というものを『愛がなんだ』は一切提示しようとしない。ここにあるのは貪欲に他者を食う宗教的な愛だけなのだから、なんだかとても怖い映画だ。

…あでも基本は普通人あるある満載のイタ楽しい恋愛映画だとおもいますはい。江口のりこ演じる面白パーティおばさん、あれ最高最高。この人をトリックスター的な親代わりにアラサーのガキどもが他者の視点を獲得して大人になっていく遅咲きの青春映画としても見れますね。いろんな見方ができてたいへんお得。

【ママー!これ買ってー!】


トランス/愛の晩餐 [Blu-ray]

愛が強すぎてマモちゃんの存在を飲み込んでしまうテルコさんは一歩間違えば佐川一政になりかねない危険人物なので、思わず彼女に共感してしまった人はロック歌手の熱狂的な女ファンが文字通り歌手を食ってしまう『トランス/愛の晩餐』を観ておくとよいです。食人ダメゼッタイ!

↓原作


愛がなんだ (角川文庫)

500
よーく

なんか映画本編よりさわださんの半生の方が面白い気がする記事でしたが、いや本当に容赦なしに観客の内面を抉るような映画でしたね。
自分語りに便乗すると俺はかつて仲原くんのように自分の好きな人を小説として作品にしてしまったことがあるので本当にいたたまれない気持ちになった。外部として切り離したかったんだろうけど結果としては描くことによって自己の中で彼女と一体化したかっただけかもしれないという思いは今でもあります。
そんな化け物じみた感情をどう処理したらいいのかは今でも分からないけどこの映画ではその答えは一切出さない。下手な答えを提示するよりはよほど誠実だとは思いますが。
私はあなたになりたい(けど絶対になれない)という事実はまるで呪いだけど、なんとか折り合いをつけるしかない。
あー面白かったぁ、て言えねぇよなぁ。いや、面白かったんですけどね…。