映画感想『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(多少ネタバレあり)

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《推定睡眠時間:0分》

タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』は新作映画のプレミアにやってきたナチ連中含ヒトラーを劇場に閉じ込めて焼き殺すという場面がクライマックスになっていたが、この時に劇場内のスクリーンには打倒ナチを誓う主人公の女の顔が大写しになっており、さながら映画がナチに復讐しているかのよう、スクリーンの中の女の勝利の高笑いと共に焼け死んでいくナチ連中という光景は凄絶そのものであった。

ところで敵を建物に封じ込めて焼き殺す発想は『特攻大作戦』からの戴きだろうし、ナチの焼き殺し、というのは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(以下『ポンハリ』)でもフィーチャーされていたタランティーノ心の一本『追想』のオマージュだろう。とにかくなんでもかんでも昔の映画のオマージュと引用にしないと気が済まないタランティーノである。

それでふと疑問に思った。そんなに映画が好きな人が作っているのに最も有名なナチの映画プロパガンダ協力者にして天才映画監督と呼ばれたレニ・リーフェンシュタールがなぜそこで出てこないのだろう。ナチを焼き殺すスクリーンの中の復讐の女神はリーフェンシュタールでしかあり得ないように俺には思えたのだ。

リーフェンシュタールはもともと役者として映画界に入った人。山岳映画の巨匠であり日独合作の歴史的プロパガンダ映画『新しき土』の監督としても知られるアーノルド・ファンクに見出されると数本の山岳映画に出演、山岳映画の巨匠というぐらいだからファンクの映画は自然賛美が基調になっているが、役者以前は舞踏家を志していたリーフェンシュタールはその中で自然と人間をダンスで繋ぐ一種のシャーマン的な役割を演じたりし、新人のくせして映画の最重要ポジションを占めるようになる。

でその最初の一本『聖山』にはこんな場面があった。リーフェンシュタールを巡って恋の鞘当てをしていた男二人が色々あって吹雪の雪山に登ると生死の危機、これはもうダメかと思われたその時、二人の前に多重露光の巨大なリーフェンシュタールの顔が現れる。現れて何をするかといえば死にゆく男たちに心の平穏を与えるだけなのだが(男たちの幻覚なので)、なにやら異様な迫力がある。

まるで雪山の意志がリーフェンシュタールとして顕現したかのような、というか、リーフェンシュタールの意志が荒れ狂う雪山となって男たちを飲み込んでいくかのようだ。ここでのリーフェンシュタールはシャーマンを越えて人間の生殺与奪の権を握った大地母神のイメージなんである。

『イングロリアス・バスターズ』の件のクライマックスにリーフェンシュタールが出てこなかったことの腑に落ちなさはそこにある。もしもあのプレミアでスクリーンに映っていたのがリーフェンシュタールであったなら、ナチを焼き殺した復讐の女神がナチを利用して映画史に名を刻んだリーフェンシュタールであったなら、いや少なくともリーフェンシュタールをモデルにしたキャラクターだったなら、『イングロリアス・バスターズ』は映画史上に残るクリティカルな大事件になったはずなのだ。

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『ポンハリ』でもマンソン・ファミリーが「ハリウッドに住んでる奴らは人殺しの役で稼いでる!」と言ってハリウッド役者の襲撃を企てていたように、映画大好きタランティーノは映画の持つ暴力や罪をちゃんと知っているんである。でも映画大好きタランティーノはそのことと正面から向き合おうとしない。映画をあくまで聖なる領域に置いておこうとする。だから『イングロ』のクライマックスにはリーフェンシュタールが不在なんじゃないだろうか。

それは穿った見方が過ぎるかもしれないが俺が『ポンハリ』を観て思ったのはだいたいそういうことで、ここで描かれているのは映画を愛するあまり映画の下地になる現実を捨てることを選んだ人の世界なんだろうと思う。
横道が多いが何の映画かと言えば単純明快、現実にはマンソン・ファミリーにぶっ殺された女優シャロン・テートをタランティーノの空想上の理想の俳優+スタントマンが救い出すというお話である。『イングロ』で空想上の理想の特殊部隊にヒトラーを殺させたタランティーノは今度はマンソン・ファミリーの実働部隊をぶっ殺すわけだ。

イイ話かもしれない。肯定的な意味でお伽噺と呼ぶ人もいる。うーん、そうすかねぇ。俺にはまったくグロテスクな妄想に思えたよ。映画に出てくるシャロン・テートは台詞すらろくにない。『イングロ』のヒトラーがそうだったように『ポンハリ』のシャロン・テートもフィギュアみたいなものだ。無駄口を叩かないで優しくてアホっぽくてちょっとエロくて可愛いフィギュア。タランティーノによって理想化されたフィギュアだ。

社会性とか批評性は映画の面白要素のひとつではあっても別に構成要件ではないだろう。倫理も然り、政治も然り。これがタランティーノのお人形遊び的な妄想開陳でしかないとしてもそれは悪いことではないけれども、でも受け取る側が無邪気にそれを楽しんでいいのかとはやっぱちょっと思ってしまう。

冷たくて変えようのない事実はチャールズ・マンソンとファミリーは金目的でのドラッグ密売人ゲイリー・ヒンマン殺しを皮切りにシャロン・テート邸殺人事件、その捜査を撹乱させるためのラビアンカ夫妻殺人事件を引き起こしたのち、最終戦争のためのテロを画策していたところで逮捕、一連の事件でヒッピームーブメントを葬りロマン・ポランスキーの人生を狂わせついでにブライアン・ウィルソンのキャリアにも大きな影を投げかけたということだ(※デニス・ウィルソンの方でした。色々ごめん

それをちょっと物語に絡ませるだけならまだしも堂々と歴史のifとしてやってるんだから、う~んとなってしまうわけである。う~んて。
だって架空のスーパー俳優が麻原殺して坂本弁護士一家がみんな生き延びましたー地下鉄サリンも起きませんでしたーっていうお気楽if映画を見せられたら素直にやったじゃんってなれます? まぁ、なれる人もいるだろうけれども…。

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俺はそのへんがどうしても引っかかってしまったけれどもそこらへんが気にならなかったら面白い映画かもしれない。映画ファン大喜びの邪気のない小ネタいっぱい。主人公の西部劇俳優リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)がスタジオの外で話していると背後に宇宙服を着たエキストラが通りかかるが、ロバート・アルトマンの出世作となったTVドラマ『コンバット』の広告がこれ見よがしに画面に映り込んでいたからこれはたぶんアルトマン初期の傑作『宇宙大征服』のキャストという設定だろう。アルトマンファンうれしい(※確認したら『宇宙大征服』は1968年の映画だったので時期的に合いませんでした。すいません

アルトマンといえばブラッド・ピット演じるダルトンの専属スタントマンが犬の餌を作る場面は気持ちアルトマン流のハリウッド・バビロン映画『ロング・グッドバイ』、その家はドライブ・イン・シアターの裏手に置かれたトレーラーハウスで、映画館のスクリーンの裏側にヤクザ事務所がある設定の鈴木清順『野獣の青春』を思わせるドリーム感、『グリーン・ホーネット』撮影中のブルース・リーとこのプラピ・スタントマンがリアルファイトで互角に渡り合ってしまうとか男の子の夢もいいところだ。

落ち目のテレビ西部劇俳優にマカロニ西部劇のオファーが来る展開はイーストウッドのイメージでしょうが、そのオファーを出した監督は怪作『殺しが静かにやって来る』のセルジオ・コルブッチ!
続けてこのダルトンが出演することになるマカロニ西部劇がテリー・サヴァラスとの共演ものだったりアントニオ・マルゲリーティが監督だったり監督名が変名だったりする。

マカロニ映画といえば変名。アントニオ・マルゲリーティも個人的にはベトナム帰還兵がゾンビ食人族に化けるなんじゃそりゃスプラッター『地獄の謝肉祭』を発表した時のアンソニー・M・ドーソン名義の方が馴染みがある。その『地獄の謝肉祭』で名誉にならない主役を張ったのは『燃えよドラゴン』でブルース・リーと共演共闘したジョン・サクソンだ。

そしてマカロニ映画といえば色んな国に売るための台詞の吹き替え。リック・ダルトンは吹き替えに不満だったとドキュメンタリー風のナレーションで語られ笑いを誘う。
ダルトンという名前はたぶん赤狩りの犠牲となった悲運の脚本家ダルトン・トランボから取ったんだろう。とにかく映画ネタいっぱいである。

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このへんは無邪気な面白ポイントだがなかなか笑えない邪気の漂う面白ポイントはタランティーノのフィティシズムで、実際のそれを大幅に美化したピチピチファッションのエロくてアホなマンソン・ガールズの無防備なケツやら投げ出される素足を執拗に狙うカメラワークは立派に変態、そのマンソン・ガールズの身体を『モータル・コンバット』もかくやのオーバーキルで破壊する残虐趣味にはドン引きしつつ興奮してしまう。ダルトンが劇中劇の芝居の中でアドリブで8歳の少女役者を床に投げつけたら逆に彼女に感謝される、とかタランティーノの女に対する暴力衝動ナチュラルでガチである。

それが面白いのは女の聖化=フィギュア化とセットになっていることで、実際のシャロン・テートはドラッグとかどんと来いな感じのパーティ人種だったが『ポンハリ』でマーゴット・ロビーが演じるシャロン・テートは出演した『サイレンサー/破壊部隊』を映画館に観に行って観客の反応に喜ぶいたいけな少女のような人である(まぁパーティも出ますが)。
少女といえばダルトンが床に投げつける少女は登場人物が俗語ばかり話すこの映画というかタランティーノ映画にあって例外的に堅い言葉を話す穢れなき存在として描かれる。

この少女が何者かというのは明かされないが、思うにシャロン・テートの生まれなかった子供としてイメージされてるんじゃないだろうか。真偽の程は甚だ怪しいが件の事件の際、身ごもっていたシャロン・テートは実行犯のテックス・ワトソン、スーザン・アトキンス、パトリシア・クレンウィンケルに向かって自分は殺しても赤ん坊だけは取り出して生かしてくれと懇願したとかしないとか、らしい。

シャロン・テートは清らかな聖女でマンソン・ガールズは情欲を煽る腐れビッチ。ビッチを殺してテートを救え! という構図が見えてくると、タランティーノの妄執っぷりになんだか凄みが出てくる。シャロン・テートに聖なる領域としての映画そのものを半ば無意識的に象徴させているとすれば尚更だ。
けれども全体としては案外薄味で、それはたぶんタランティーノが自身の抱えるヤバさをあんま対象化できておらず、そのヤバさが物語の中で別の形に昇華されていないからではないかと思う。

タランティーノが映画を10本撮ったら引退するとかなんとか言っているのは映画をやり初めてから今まで自身の内面の闇であるとか社会問題であるとか、映画の外にあるものを映画の中に持ち込んで独自の世界を意識的に作り上げていくような創作ができなかったからじゃないだろうか。
タランティーノ映画のネタはビデオ屋の映画の中にしかない。だからどこまで行っても何本撮っても同語反復とパスティーシュにしかならない。タランティーノはきっとその幸福な不毛を自覚してんである。外の世界から何か余計なものを持ち込んで映画の完璧な世界が壊れてしまうくらいなら、その中で死んだ方がマシというもの。

映画の想い出に殉じるタランティーノ。時代に置き去りにされても在りし日の栄光が忘れられず、カムバックすべく前へ前へ進もうと努力はするが、そうして自らあの黄金時代から遠ざかっていくことに喪失感を覚えるリック・ダルトンにタランティーノの影を見るなら、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のタイトルが指し示す時代は1969年ではなく、タランティーノが処女作『レザボア・ドッグス』を世に放った、まだ映画監督としての自分の可能性をストレートに信じることができた1991年なのではないかと思えてくる。

『レザボア・ドッグス』といえば耳削ぎシーンが有名だが、マンソン・ファミリーの最初の殺人であるゲイリー・ヒンマン殺しでは、マンソンはヒンマンの耳を切ったのだった。

2019/9/2 多少書き直しました。

【ママー!これ買ってー!】


世紀末倶楽部 vol.1 特集:チャールズ・マンソンとシャロン・テート殺人事件

10年ぐらいぶりに読み返したらなんか色々キツかったです。

500
よーく

マンソンを麻原に置き換えたらどうなのよ? というのは全く同感なんですが
>この少女が何者かというのは明かされないが、思うにシャロン・テートの生まれなかった子供としてイメージされてるんじゃないだろうか。
これはちょっと思いもつかなかったので素直に感心して、また何か納得もしました。そうかもしれないですね。俺は年齢的にもキャラクター的にもジョディ・フォスター辺りがモデルなのかなと思ったんですが。さわださんの解釈の方がこのタランティーノの妄想万華鏡的な映画世界にはふさわしいのかなと思います。
しかしこうなると10本目の作品が色んな意味で楽しみではあります。

ジェイムス

さわださん、今回はたくさん書かれてますね。
それだけこの作品のバックにあるものが多いといういことですね。
読ませてもらって、「そういうことか!」と。

しかし私は映画は楽しく観られました。
(そこまで深くは知識が無いので)
そうですね、ジョディフォスターっぽいですね。
あとで耳元で「生きてきた中で、一番よい演技」ってとこが良かった。

マックインは良く似てた、背は高すぎだが。
ブルースリーはあまり似てない。

シャロンテート事件の別の結末を勝手に作ったって感じですね。
オウムのたとえ話は納得。
ポランスキー監督が観たら、どう感じるんだろ?と思ってしまいました。