ドラン育った映画『マティアス&マキシム』感想文

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良い温度の映画だなって思いましたよ。これぐらいがいいじゃないですか。なんですか『たかが世界の終わり』とか『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』とか。タイトルからして仰々しい! そのくせやってることはドランの分身たるゲイの劇作家とか俳優がカムアウトするだのしないだの家族との関係が軋んでくるだのこないだのみたいなどうでもいい話なんだもんな。

グザヴィエ・ドランの映画そんなんばっかですよ。『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』なんてワールドワイドな感じの硬派なジャーナリストが出てきて環境問題とか貧困問題とか紛争問題に関心が高いっぽいそいつに主人公のゲイの青年が「俺にとっては俺の個人的な悩みが紛争とかと同じなんだよ!」とかなんとか叫ぶシーンがあってそのあまりに率直かつ自己中心的で幼稚な物言いにある意味感心したけど基本的にはバカだろって思ったよ。

そりゃ一作ぐらいならゲイとして俺はどう生きるかみたいなブログ映画があったっていいじゃないですか。そういうの新鮮でいいですよね。若い人が自分の抱える超ミニマルな悩みを映画にぶつけるというのはどんな形であれそれなりに人の心を動かすものです。しかしだよ、それでなんか偉い賞とかもらって評価されたからっつって毎作毎作カムアウト関係の話をされるとだね…まず、飽きるし、それに自分の性的指向を切り売りしてるみたいですげぇ印象悪い。お前ビジネス・ゲイかよみたいな。

もう本末転倒。だってドランという人はその作品の中で繰り返し繰り返し繰り返し本人が感じていたか現在進行形で感じているゲイの生きにくさを過剰なまでに感傷的に描いてきたわけですけれども、繰り返し繰り返し繰り返し描くことでゲイの生きにくさのイメージを自分で再生産してるんですよ。ああゲイの人って可哀想なんだなってこういうの観たら世の中の見方がざっくりした人は思うわけじゃないですか。

でマッチョなアンチゲイを憎々しく描く一方でそういうゲイを憐れむ人も作中でドランは糾弾するんです。直截的にではなくて「君たちの憐れみの視線がボクには辛いんだ…」みたいな感じで。いやお前100パーの被害者ぶってるけど自分で自分を追い込んでる面もある程度はあるんだから被害度50パーぐらいだし加害度も50パーぐらいはあるからね? って思いますよ。

そういうところがドラン映画の腹立たしいところで、じゃあ観るなよとは思うが新作を観るたびにまたか! ってなっていたわけです。あーあまたセカイ系かつメンヘラなのかみたいな。それで今回の映画『マティアス&マキシム』なわけですが、なんとこれは、なんとこれは! そういうドラン映画特有のムカつきがほとんどなかった…というわけで珍しく素直におもしろーいと思えたのでした。

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でもドラン映画にメンヘラ的感傷を求める人にはつまらないのかもしれないとも思った。それに煌びやかでファッショナブルな映像を求める人にもつまらないかもしれない。じゃあつまらないんじゃん! いや、だからさ、そのつまらなさがすごいよかったって話で…『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』とかはガチにセカイ系なのでうるせぇガキと根性のひん曲がったスタアがネバーランド的交流をする的なクソどうでもいい小規模ストーリーでしたけれどもそれをシェイクスピア悲劇みたいなトーンで撮っていくわけですよ、MTVじみた薄っぺらいカッコつけ映像と音楽に乗せて。

『マティアス&マキシム』はそうじゃないんです。相変わらずゲイのカムアウト話&家庭不和の話でしたけれども今までのドラン映画みたいにカムアウトの仕方次第で俺のセカイは終わってしまう! 家族仲が悪くなってもセカイが終わる! って感じじゃなくて、カムアウトとか家族仲なんかぶっちゃけ長い人生の中に置いたら卑小も卑小などうでもいい事柄だよねっていう客観的な視点があるわけです。だから大仰な演出は付けないし、そんなどうでもいいことに悩む人の姿を主観的に撮るよりもかえって繊細に捉えることができる。魚の問題を魚本人より切実に感じられる人間はいないわけですが、魚の問題を観察と分析を通して細かく描写できるのは魚本人じゃなくて魚博士ですよね。そういう感じ。

カナダのフランス語圏が舞台なので台詞はフランス語と英語が入り混じったり、それが茶化されたりする。このへんケベック生まれのドランが己の出自に立ち返ったってことなんでしょうね。私映画的な色彩は今までのドラン映画で(といっても全部観ているわけではないが)一番濃いかもしれない。だけれどもそこに悔恨とか痛みがあまりないというか、お馴染みの家庭不和も若者群像の1エピソードとして相対化されて、少なくとも悲壮感を漂わせることはない。いや、これは青臭い叙情を武器としてきたドラン映画としては実に驚くべきことではないですかね。

変なところにジーンと来てしまった。なんか、いつも下らないことをわちゃわちゃやってる若者グループ(ドランがその一員のタイトルロール)が出てくるんです。それでその中にストレートの男がいて、才気と活気のあふれる妹と特に人から褒められるような資質は持ち合わせていない自分を比べて一人でピアノを弾きながら卑屈になったりするんですが、その姿を枯れたユーモアを漂わせつつ切り取る。なんと! ゲイではなくトランスジェンダーではなく発達障害でもなくなおかつ家庭不和を抱えているわけでもないマジョリティ枠の凡庸な人にもマジョリティ枠の凡庸な人なりの悩みがあったのだ!

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いやいや当たり前だろと思いますがドラン映画そういうの本当なかったからなー。もうひとつ驚いたところはこちらもドラン映画にお馴染みのゲイ嫌いの無神経でマッチョな英語話者男性(そんなに英語を憎まないでもいいだろ)で、こいつがわざわざビジネスパートナーとストリップバーに行ったりと過剰な男性性をアピールするのは従来のドラン映画と同じだが、その登場時にマッチョなイメージに反してペット・ショップ・ボーイズを聴いていることからも、あるいはストリップバーで見せる微妙な居心地の悪さからも、この英語話者男性が男性性の仮面を被って生きることに疲弊しているということがわかる(ゲイを隠すために仮面を被っているのかもしれないが、とくに答えは出さない)

ものすごいチンポ…いや進歩だ。繰り返しますが当たり前のことなのだが、俺も大変だけど大変なのは俺だけじゃないよなっていう映画なんですよなんと今回は! そして! 更には! 恋愛とか家族も大事かもしれないけどまぁそれが失敗したりなんかしても別にそれで人生が終わるわけじゃないよなっていう! 苦笑いの希望を帯びた映画でもあるんですよ今回は! なんて当たり前のことを書いているんだろう! でも今までのドラン映画は当たり前じゃなかったのでその当たり前をついに獲得したという感慨があるんです! お前は何様目線なんだ。

ようするに普通の映画っぽくなりました。これ見よがしな映像テクニックは少なくて、フォトジェニックな被写体で画面を固めることもなくて、カメラは俳優の演技をやや長回し気味で捉えることに主眼を置く。ゲイを明確にはカムアウトしていない(が、周囲の人間はだいたい気付いているらしい)男がこちらは一切カムアウトしていない幼なじみの男に抱く恋心とすれ違い…とくれば非常にメロい感じなのだが、それを物語の主軸としつつもほんのりユーモラスでちょっとだけ苦い青春群像の大枠があるので、なんというかメロに世界が閉じない。悲劇的なイメージの自己再生産を捨てて普遍性と凡俗の創造を手に入れたという感じである。

濡れ場もイイんですよ生々しくて。セックスはセックスだろみたいな。しょせんチンコとチンコのぶつかり合いでしょうがみたいな。身も蓋もない。卑小な実相に煌びやかな映像で蓋をするのが良くも悪くもドラン映画であったから、この映画の即物性、取るに足らなさ、沁みたなぁ。つまらない人間たちのつまらない人生を丁寧に掬い上げて肯定することは虚飾まみれの悲劇を演出することよりずっと難しいし、断然価値のある行為だと思いますよ俺は。で、そんな中でこそ些細な風景や出来事が詩を帯びるのです。美しい映画であったよ。

【ママー!これ買ってー!】


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まだ映像の魔術師ではなかったネオレアリズモ期のフェリーニの自伝的映画。ドランの映画もフェリーニっぽいところがたまにあるので、こういうの目指したんじゃないすかね。

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